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第五十七話 暗闇の文書館

 午後、レインは思いがけず休暇を得たにもかかわらず、結局いつものように文書館にいた。入口から南壁に沿って歩き、閲覧用の長机へと向かう。


 文書館は相変わらずしんと静まり返り、天井から吊るされたシャンデリアの灯りが虚しく空間を照らしていた。

 人の気配がないのは、もはや日常。毎日通っているのに、他の利用者に出会うことは滅多になかった。


 唯一の例外は三日前、シリウス殿下とばったり遭遇した時だけだ。

 あの時は『王国掟全書』を探すのを手伝った挙句、東壁で大変な目に遭ったのだが……。思い返すと、今でも背筋がひやりとする。


(こんなに本がいっぱいあるのに、誰も来ないなんて……もったいない)

 レインは静かな文書館をひととおり見渡しながら、胸の内で呟いた。


 そこでふと、目の前の壁棚にある一冊の本が目に留まった。


『言語学史』

 艶のある焦茶色の背表紙が妙に存在感を放っていた。


 その本の題名を見たとき、レインの脳裏にマシューの言葉が蘇った。


 ──“古代文字の歴史を紐解けば、君の疑問は解けるだろう”


 あれは『王国創始記リバイバル』の読書感想文を提出した日のことだった。

「原典の『王国創始記』が現代文字で書かれているのはなぜか?」と指摘した箇所に対し、マシューは「蛇足だ」と一蹴しつつ、その理由の鍵は文字の歴史にあるとほのめかしていた。


 レインは好奇心の赴くまま書棚に向かい、『言語学史』を手に取った。

 ──史官試験の出題項目には「古代文字」もあるのだから、これはきっと試験勉強にもなるはず。

 そう自分に言い聞かせ、その本を机の上にそっと置いた。


 そして椅子に腰を落ち着けると、本を静かにめくり始めた。



 ◆◆◆


『言語学史』


 いわゆる“古代文字”──それは、アステニア王国が生まれる以前、北の大陸全土で使われていた。その発祥には諸説あるが、最も有力なのは、イスリナ神教の聖地〈ラグナ・カトデラ〉で生み出されたとする説だ。神の教えを大陸全土へ広め、後世へ確実に残すため、文字という記録手段が必要になった──。


 だが今では“古代文字”は、北の大陸のいずれの地域でも使われていない。

 その座を奪った“現代文字”は南の大陸を起源とし、南の大陸出身のアルベルト・アステニアによって北の大陸に広められたのだ。彼は、王国建国の折、古代文字の使用を禁じ、南の大陸文字を王国の公用語に定めたのである。建国当初は二つの文字が混在していたが、やがて現代文字が優勢となり、古代文字は歴史の中へ沈んでいった。



 ◆◆◆



 レインにとって、その記述はまさに目から鱗だった。


 古代文字=北の大陸文字

 現代文字=南の大陸文字


 これが元来の言語の構図であったが、初代アルベルト王が南の文字を“公式に”導入したことで、現代文字が北にも急速に広まった──らしい。


 この説に立てば、『王国創始記』が現代文字で書かれている理由も腑に落ちる。

 むしろ、それが当然になる。古代文字は建国とともに封じられたのだから。


 だが、レインは胸騒ぎを覚えた。


(“文字の交代”が、そんな穏やかな話だったとは思えないな……)


 古代文字を否定し、新しい文字を“強制”したようにも読めないだろうか。

 そして──これは文字だけの問題で済んだのだろうか?

 宗教、文化、価値観……もっと大きなものまで押し流したのではないか?


 思考が深淵へと沈んでいく、その時だった。

 不意に文書館入口の扉がかすかに音を立てて開いた。


(……ん? 誰か来た?)


 レインは扉の方向に目を凝らした。


 その刹那、文書館の天井から吊るされているシャンデリアの灯りが全て消え、辺りが突然真っ暗になった。


 レインは慌てて立ち上がり、周囲を見回した。

 近くには誰もいない。


 灯りが消えたのは何かの不具合だろうか? 

 それとも文書館に施された何らかの魔法が作動した?

 あるいは……消灯の直前に聴こえた扉の開閉音と関係が……?


 状況的には三つ目の考えがもっともらしく思える。

 文書館にやって来た何者かが、魔法を使ってシャンデリアの灯りを消したに違いない。


 ……となると、いったい何のために?


 それは当然、他の誰にも姿を見られたくないから、と考えるのが自然だ。

 何か良からぬことをするつもりなのかもしれない。


 不審な人影……。放置してはおけない。


 レインは決意を固めると、自分の足音を立てないよう慎重に、壁伝いに文書館の入口の方向へ向かった。

 闇の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。

 床を踏む音が思っていたよりも遠くへ響き、胸が激しく脈打つ。




 文書館の入口までたどり着くと、恐る恐る中央通路を覗き込んだ。

 レインはそこで不思議な光景を見た。


 通路の遠く先に、灯光が二つ浮かび上がっていた。

 一つは、点のように小さい黄色い光。

 もう一つは、赤くゆらめく蝋燭のような火の光。


 ひょっとしたら二つの光の間にも相当な距離が空いているのもしれない。


 レインは逡巡した。

 不審な灯光の跡を追って、中央通路に入るべきか否か──。


 自分はまだ幻覚魔法を解くことができない。

 中央通路に入るのは危険極まりないことはわかりきっている。


 ここは一人で追跡するのは諦め、マシュー館長に報告しよう。


 追跡欲の衝動に冷静な理性が打ち勝ち、レインは中央通路に背を向けた。

 外へ出てマシュー館長へ報告に向かおうと文書館の扉に手をかけた。


 だが、扉が開かない。

 何度押しても、びくともしなかった。


 閉じ込められた──!


 レインの額に冷や汗が伝った。

 その時、甘く柔らかな声が耳元に届いた。


「今、文書館は完全に封じられている。中からも外からも。私の赤い炎の灯光が今もまだ見えているのなら、その光を追って中央通路に入りなさい。真実が知りたいでしょう」


 その声を耳にした途端、思考が霞んだ。

 危険だと告げるはずの理性がいつの間にか遠のき、気づけば足が中央通路へと向かっていた。


 暗闇に包まれた文書館で、レインは初めて──

 知ってはならない“真実”に足を踏み入れた。


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