第五十五話 緊急招集の朝
毒騒動から一夜明けた朝、王宮内は暗く重々しい空気に包まれていた。
陛下が目覚める少し前のこと。明け方の病室で起きた不可解な出来事はまだ広まっておらず、代わりに昨夜の毒騒動をめぐる根拠のない噂だけが王宮を駆け巡っていた。
レインは宿舎の自室を出ると、陛下の様子を確かめるべく病室へと向かった。その途中、通路のそこかしこで衛兵や侍従たちがひそひそと話し込む様子が目に留まった。注意深く耳を傾けると、断片的な会話が聞こえてきた。
「昨日、陛下が倒れて医務室に運ばれたらしい」
「過労じゃない? 王国議会も近いし……」
「いや、猛毒の茸を食べたって」
「今も寝たきりらしいよ」
「このまま目を覚さないかもって……」
「やめてよ、縁起でもない!」
横目に捉えた侍従たちの表情は青ざめ、皆どこか怯えた様子だった。
レインの胸にも不安が渦巻く。
陛下、本当に大丈夫だろうか──。
昨夜の時点では、容態は安定していたはずだ。まさか再び悪化することはないとは思うが、シトラスの話によれば後遺症が残る心配もあるというし、状況は決して楽観できない。
自然と拳に力が入り、足取りが速まる。
病室の近づいた頃、医官見習いらしき若者二人とすれ違った。彼らの声もまた、嫌でも耳に入る。
「病室、立ち入り禁止だってさ。医官と陛下の側近以外は駄目らしい」
「マジかよ……。医局長にも聞いたけど何も教えてくれなくてさ。もしかして、かなりまずいんじゃ……」
レインの額に嫌な汗が流れる。
まさか──。
ふと足が止まり、レインは思わず天を仰いだ。
そのときだった。
カーン、カーン、カーン、カーン──。
聞き覚えのない甲高い鐘の音が王宮中に響き渡った。
医官見習いたちが驚いたように顔を見合わせ、周囲も一斉に騒ぎ出す。レイン自身も状況がつかめず、ただ立ち尽くすしかなかった。
直後、頭上から毎朝聞き慣れた声が響く。だがその声はいつもの柔らかさを欠き、冷たく張りつめていた。
「全職員に告ぐ。緊急集会を開く。大広間へ直ちに集合せよ。繰り返す──大広間へ直ちに集合せよ」
◆◆◆
すぐさま大広間に王宮職員が続々と集結した。役職ごとに整列していくものの、落ち着いていられる者などほとんどいない。皆が口々に陛下の身を案じ、不安げなざわめきが広間を満たしていた。
大広間にたどり着いたレインは、その緊迫した空気に圧倒され、入り口付近で足を止めた。近くの衛兵から「役職ごとに並べ」と指示が飛ぶが、そもそも文書館員は館長以外は誰もいない。自分がどこへ並べばよいのか分からず、困惑したまま辺りを見回した。
招集の声の主であるグレナ魔法師団長は、口を固く結び、険しい表情で広間右奥に立っている。その横には、レイチェル医局長、アレク騎士団長、マシュー文書館長という面々が無表情で静かに並んでいた。
広間中央の玉座は空席のまま。そして、玉座の左側には、シリウス殿下とザハムート公爵が控えている。二人とも微動だにせず、固い表情から思考は読み取れない。
レインはきょろきょろと幼馴染を探し、医官たちの列の中ほどに立つシトラスと、騎士団の最後尾に並ぶランドリーとサラを見つけた。サラはこちらに気づくと、控えめに手招きしてくれた。
その列に加わりながら、レインは小声で話しかけた。
「ありがとう、サラ。助かったよ……。それにしても大変なことになったな」
「カール陛下の身に何かあったのかしら」
「わからない……」
周囲では不吉な噂や私語が飛び交っている。そのざわめきを切り裂くように、グレナ魔法師団長の厳かな声が響いた。
「静粛に」
大声ではないがその声音には不思議な威厳があった。広間はしんと静まり返り、皆が息を潜め、グレナの言葉を待つ。
グレナはゆっくりと視線を巡らせ、重々しく口を開いた。
「王宮内に根も葉もない噂が広まっておるようじゃ。まずはっきり申しておく。国王陛下は現在療養中ではあるが、命に別状はない。陛下の毒殺、あるいは死亡といった流言を広めることは国家を貶める反逆行為であり、断じて許されぬ。また、そのような戯言に惑わされることもあってはならん」
その言葉を聞いた瞬間、レインは胸の奥にたまっていた息をふっと吐き出した。陛下が無事だと改めて確認できた安堵と同時に、今回の緊急招集の意図にも思い至る。
(そういうことか……虚偽の噂で混乱する前に、事実を広く知らせるための集会だったんだな)
突然の鐘には驚いたが、皆の前で事実をはっきりさせておくのは早いに越したことはない。…だが、どこまで話すつもりなのか。陛下が毒を盛られたこと自体が国家の動揺に直結する以上、説明には慎重にならざるを得ないはずだ。下手に隠せば不信を招き、噂が加速する。難しい判断だ。
レインが思案していると、不意にザハムート公が前へ一歩進み出て声を放った。
「私の聞くところによれば、昨夜、陛下が猛毒の茸を口にしたそうだが──それは間違いないかね? 国王陛下の命を狙う不届き者は、早急に特定して捕縛すべきだ。我々も全面的に捜査に協力するつもりだ。現状判明していることを、ここで明らかにしてもらいたい」
公爵は不敵な笑みを浮かべ、鋭い眼差しをグレナへ向けた。その様子は、周囲に多数の聴衆がいることなど気にも留めていないようだった。
グレナは苦々しい表情で応じる。
「昨夜、陛下が毒茸を口にされたのは事実です。事件の全容解明にはなお調査が必要ですが、現時点では、誤飲による事故と見ております。中庭に生えた毒茸が、何らかの手違いで陛下の食事に混入してしまった……そう考えております」
無論これが作り話であることを、レインは知っている。昨夜の聴取からすれば、真相は王宮案内人マーガレットの謀略によるものだ。そしてザハムート公爵もそれに関与している疑いが濃厚だ。だが、確証に欠ける現段階で、それを公表するわけにもいかないのだろう。そもそも、陛下の命が狙われたことを明かすだけでも、王政の安定を揺るがしかねない。
大広間にいる者のほとんどは、グレナの説明が虚偽であることを知らない。そのため、広間は一気に騒然とした。特に調理人や配膳係たちが「そんなはずはない」と口々に叫び、混乱が広がる。
グレナが「静かに」と声を張り上げても、騒ぎは収まらない。
そこで、ザハムート公が騒ぎ立てる調理人たちを鋭く睨みつけ、低く一言だけ放った。
「黙りなさい」
その声音に、広間は嘘のように静まり返った。
ザハムート公は満足げに意地悪く口角を上げ、話を続けた。
「いまのグレナ殿の話では、毒茸が食材に混入した経緯がまったく分からん。より詳しい説明を求めたいところだが……いずれにせよ、調理の最高責任者であるスカーレット料理長の処罰は免れまい。さらに、中庭の管理不行き届きという点では、レイチェル医局長の責任も大きい。……いや、今は新人のシトラス薬師が中庭を担当しているのだったな?」
その言葉に、今度は医局の列がざわついた。レインの視界には、列の中で小さく身をすくませるシトラスの背が映る。肩がわずかに震えていた。
(そんな……。シトラスのせいじゃない!)
叫びたい気持ちに駆られたが、声は喉で塞がったままだ。
前に立つランドリーは今にも列を離れてシトラスのもとへ駆け寄ろうとしたが、サラが慌ててその腕をつかんで止めた。
そのとき、レイチェル医局長が毅然とした声で口を開いた。
「中庭の責任者は私です。シトラス薬師は私の補助をしているだけで、中庭の管理に関する責任はすべて私にあります。……いずれにしても、事件はまだ調査中です。現段階で責任の所在を断定することはできません。処罰の有無や量刑は、調査ののち陛下がお決めになることです」
ザハムート公は相変わらず不敵な笑みを崩さず、腕を組んでわざとらしく考え込むふりをした。
「そうか。今は不明……というなら、それでもよい。だが、陛下は本当に大丈夫なのか? 病室に関係者以外近づけないようにしているそうだが、陛下が口にした毒は治療法のない猛毒だと聞く。医学的な処置が難しいとなれば、我々にできることはイスリナ神に祈りを捧げることだ。王宮にレイフェルド司祭を招き、陛下の回復を願って祈祷を執り行うのがよいと思うが、どうかね?」
にやり、と笑ったその表情に、側近たちは言葉を失った。
レインの胸の奥底からは怒りが沸き上がってきた。
今回の事件に関与している疑いのある男が、祈祷を提案するなど──どの口が言うのか。しかも、レイフェルド司祭とはイスリナ神教の高位聖職者だ。祈祷そのものが悪いわけではない。だが、この場でイスリナ神教の名を持ち出されたことで、レインの胸にはどうしても胡散臭さが拭えなかった。
(……この機会をイスリナ神教の布教の好機とでも捉えているのだろうか。まさか、ひょっとしたら最初から布教のために今回の騒動が仕組まれたのでは……?)
もちろん憶測にすぎない。だが、ザハムート公の不気味な笑みから、陛下の身を案じる気配は一片たりとも感じられなかった。
大広間が静寂に包まれ、やがてあちこちから小声が漏れ始める。
「祈祷は大切だ……レイフェルド司祭の御力があれば……」
「イスリナ神が陛下をお救いくださるはず……」
「我々も祈りを……」
イスリナ神教の信徒と思われる者たちの声がじわじわと増していく。
その広がりを満足げに見渡し、ザハムート公は側近たちへ意味深な視線を向け、返答を促した。
その時──大広間の後方から、澄んだ声が響き渡った。
「皆の者、静粛に」
その声が響いた瞬間、広間の空気がぴんと張りつめ、人々は一斉に振り返る。
そして、声の主の姿を目にした途端、誰もが息を呑み、目を見開いた。
広間の後方から姿を現したのは、カール国王陛下だった。
猛毒を受けていたとはとても思えない、晴れやかな笑顔を浮かべ、堂々と立っている。
「陛下っ!」
「ご無事でなによりです!」
「カール国王陛下、万歳!」
歓声が次々と上がる。
カール陛下は照れくさそうに頭を掻き、右手を高く振って応えた。
大広間の中央には自然と道が開き、陛下は左右に笑顔を向けて歩みを進める。
玉座の前まで進むと、側近たちは口を開けたまま呆然としていた。
ザハムート公の表情にも明らかな動揺が走る。
シリウス殿下は満面の笑みで兄を迎えていた。その笑みは作りものではない──そうレインには見えた。兄王の無事を心から喜ぶ弟の顔である。
大広間に静寂が戻る。皆が陛下の言葉を待ちわびている。
カール陛下はゆっくりと皆を見渡し、力強く声を響かせた。
「皆、心配は無用だ。私は無事に毒から脱し、このとおり回復した。……心配をかけてすまなかった。そして、ザハムート公。我が身を案じ、祈祷を提案してくれたこと、感謝する。しかし──もう大丈夫だ」
その言葉に、大広間は割れんばかりの歓声に包まれた。
だがその喧噪のただ中で、レインの胸にはひとつの疑念が残っていた。
──なぜ陛下は、あれほどの猛毒から一夜で回復できたのか。
この不可解な回復の裏に、ある人物の思惑が潜んでいることを、この時のレインはまだ知らなかった。




