第四十八話 毒騒動は終わらない
シトラスは、レイチェル医局長と並んで陛下の執務室へ向かっていた。
レイチェルの手には袋があり、中には毒茸がぎっしりと詰まっている。
(今回の毒茸騒動……いったい誰の仕業で、狙いは何だったのか? 庭に埋められたのは昨晩で間違いないだろうか……?)
言葉を交わさないまま、静かな廊下を進む。
月光が差し込み、長く伸びた二人の影が床を這っていた。
その静寂を破るように、遠方から衛兵が血相を変えて駆けてきた。
「大変です、レイチェル医局長! 陛下が執務室で激しい腹痛を訴えておられます! いますぐお越しください!」
シトラスとレイチェルは顔を見合わせた。
(まさか……!)
シトラスの視線は、自然とレイチェルの手にした袋へ移る。
毒茸が陛下の料理に混ぜられたのだろうか。
庭の毒茸はすべて回収したはずだが、それより前に採集されていたのだろうか。あるいは、中庭に埋められる以前に、別の場所で育てられていた毒茸が使われたのかもしれない。
じっくりと考える間もなく、二人は衛兵に導かれ執務室へ駆け込んだ。
視界に飛び込んできたのは、苦痛に顔を歪め、机に伏しているカール陛下の姿だった。そばには別の衛兵が控え、心配そうに陛下を見守っている。
机の上には夕食の食べ残し。
シトラスの視線は白いスープに吸い寄せられた。
(あれは……茸のポタージュ?)
さらに視線を巡らせると、壁際に一人の女性が蹲って泣いていた。彼女も腹を押さえて苦しんでいる。
(……毒味役かな?)
呆然とするシトラスをよそに、レイチェルはすぐさま陛下の元へ駆け寄る。
シトラスも慌てて後を追った。
「このスープに茸は入っていましたか? 陛下はそれを召し上がられましたか?」
レイチェルの問いかけに、陛下は苦しげに頷く。
「……あぁ、確かに茸を食べた。それが原因なのか……?」
声は弱々しく、途切れ途切れだった。
レイチェルは小さく頷き、冷静に言葉を添える。
「おそらく、そうでしょう」
シトラスも疑いの矛先を茸のスープに向けていた。
(……でも、いつ、どうやって毒茸が混入した?)
陛下から以前聞いた話では、ひと月前に食事の味に異変があり、それ以来、調理や配膳の警備は厳重になっていたはずだ。それに──スカーレット料理長は、中庭で毒茸を見つけた直後の食事で、茸のスープを出すことにためらいはなかったのだろうか。事前に味見くらいしたはずでは……?
(……彼女が意図的に毒茸を仕込んだ? いや、まさか……)
疑念と否定が胸の奥でせめぎ合う。昼食の時や中庭の草取り中に彼女の見せた屈託のない笑顔が、脳裏にちらついた。
シトラスが思考を巡らせている間にも、レイチェルは痛みを和らげるための治癒魔法を二人に施していた。そして、毒味役の女性へと視線を向ける。
「あなたのほうが陛下よりも先に食べたのですよね?」
女性は小さく頷く。
「味覚には異常を感じませんでした。最初はお腹も痛くなくて……。私が食べて五分ほどしてから、陛下も召し上がられました」
そこでカール陛下が言葉を継ぐ。
「……彼女は悪くない。実際、スープはとても美味しかったし、症状が出るまでに結構な時間差があったんだ」
シトラスは顎に手を添え、小さな声で問いかけた。
「スカーレットさんが料理を運んできたのですよね?」
その問いに、陛下の表情が曇った。
「あぁ、スカーレットが料理を運んできた。私が食べ始めた頃に『少し失礼します』と言って席を外したが……戻ってきていない。まさか、彼女が……?」
会話が途切れ、辺りを静寂が包む。
シトラスの胸が一段と重くなった。
(スカーレットさんが犯人だなんて……とても信じられない。それでも、状況は彼女の疑いを濃厚にしている……)
思考に沈んでいると、隣のレイチェルが小さく息をつき、冷静に口を開いた。
「犯人探しは後にしましょう。まずは医務室での治療が先決です。お二人とも立てそうでしょうか? 陛下、私が支えますので、医務室へ行きましょう。シトラスさんはそちらの女性をお願いします」
すると、陛下のそばにずっと付いていた衛兵が口を開いた。
「我々もお手伝いしますよ」
しかし、レイチェルはきっぱりと首を横に振った。
「いいえ。あなた方は、執務室の見張りを続けてください。警備を疎かにするべきではありません」
毅然とした言葉に、衛兵の二人は黙って頷いた。
レイチェルがカール陛下を支え、シトラスは毒味役の女性の腕を取る。
二人は苦悶の表情を浮かべながら、助けを借りてゆっくりと立ち上がった。
──ちょうどその時、執務室の扉が不意に鳴った。
入ってきたのは、ランドリー、サラ、レイン。
室内の異様な光景に、三人の目が大きく見開かれた。
◆◆◆
時は少し遡る。
文書館の南壁を黙々と清掃していたレインは、夕食の時間になると、マシュー館長よりも先に文書館を後にした。マシューには文書館での仕事がまだ残っているようだった。
レインが食堂のいつもの席に向かうと、ランドリーとサラがすでに座っていた。
その二人の話によれば、結局アレク騎士団長から許可をもらって、騎馬訓練を再開できたらしい。
「昨夜は大変だったけど、実は事件の前にライルさんから騎乗のアドバイスを聞いていて……。その通りにやってみたら、すごく上手く乗れたんだよ」
サラは弾んだ声でそう語り、少し笑顔を覗かせた。
それでも、表情はやや硬い。サラにもランドリーにも昨夜の出来事の重さが残っているようだった。
食事の終わり際、ランドリーが真剣な表情で言った。
「俺とサラはこれから陛下の執務室に行こうと思う。昨夜の失態を、きちんと謝らなきゃ」
隣のサラも静かに頷いた。
レインは、自分も行くべきかどうか考えた。
(中庭でのシリウス殿下との会話……あれを陛下に伝えておくべきかな)
どこまで話すかは迷う。しかし、殿下自身が光の魔法らしきものを使ったことを認めたのは事実だ。それに、彼が最後に口にした言葉……。
“——あの時、私が放った光の根源をたどると、君たちの胸元のペンダントに宿る力と同じところに行き着く。果たしてそれを“魔法”や“魔力”と呼ぶべきなのかどうかは、人によって意見が分かれるだろう”
この言葉について、陛下に心当たりがあるのかも確かめたい。
レインは二人に微笑みかけて言った。
「僕も一緒に行くよ。陛下に伝えたいことがあるんだ」
こうして三人そろって食堂を後にし、陛下の執務室へと向かった。
レインが代表して陛下の執務室の扉を叩き、ゆっくりと扉を開けた。
その瞬間、目に飛び込んできた光景に、はっと息を呑んだ。
そこには──レイチェル医局長とシトラス。そして、腹を押さえて苦しむカール陛下と侍従の女性。さらに二人の衛兵が、不安げな面持ちで控えていた。
「……状況は後で詳しく説明します」
レイチェルが素早く声を掛けてくる。
「陛下と毒味役の方が、毒茸を口にした可能性があります。これから医務室へ運びます。レイン君とサラさんは、手伝ってください。ランドリー君はスカーレット料理長を探し、必ず医務室に連れてきてください。……彼女が毒を仕込んだ犯人かもしれません。もし抵抗するようなら、強引にでも」
耳に入る言葉が現実感を欠いて響き、レインは大きく目を見開いた。
胸の奥で、スカーレットの名が重く引っかかる。
(彼女が、まさか……?)
昼食のとき、嬉しそうに料理の話をしていた穏やかな笑顔が脳裏に蘇る。
そんな人が陛下に毒を仕込むなど、信じられるはずがない。
それでも、レイチェルの毅然とした言葉に対しては、黙って頷くしかなかった。
サラもランドリーも顔を強張らせて小さく頷く。
シトラスの瞳も微かに揺れていた。
執務室の空気は重苦しい沈黙に満たされ、誰もが同じ思いに囚われていた。
──本当にスカーレット料理長が犯人なのか。
彼女は何を知り、どこへ消えたのだろうか。




