第四十七話 中庭の異変(後編)
中庭の中央の池から少しだけ離れた木陰に、茸が群生していた。
シトラスはしゃがみ込んで、茸をじっと観察し、ひとつの結論に達した。
「……これ、毒茸です」
その言葉に、スカーレットがはっと息を呑んだ。
「高級茸にそっくりだけど……?」
「たしかに似ています。でも、かさの端に斑点が薄く浮かんでいるでしょう。これは、植物図鑑でも注意書きのある毒茸なんです」
「どんな毒性があるの?」
「誤って食べると、激しい腹痛や嘔吐に襲われます。その後も数日は頭痛や眩暈が続き、さらに倦怠感がひと月以上残ることもあります」
シトラスは、図鑑で覚えた知識を思い起こしながら答え、最後に特に重大な点を付け加えた。
「最悪、死に至る場合もあります。……それなのに、確実な解毒法はいまだ見つかっていません」
その言葉に、スカーレットの表情が翳る。
シトラスも、毒茸を目にしてからずっと胸がざわついていたが、薬師という責任ある立場で動揺を表に出すわけにはいかなかった。
シトラスは自分の気持ちを抑え、落ち着いた口調でスカーレットに語りかけた。
「私は、レイチェル医局長を呼んできます。スカーレットさんはここで待っていてください。念のため、毒茸には触らないようにお願いします」
「わかったわ」
返事を聞くとすぐに、シトラスはさっと立ち上がり、医局長室へと急いだ。
◆◆◆
シトラスは、レイチェルを中庭の一角へと案内した。
レイチェルは両手に人数分の軍手、回収用の袋、土を掘るスコップを持っていて、毒茸を取り除く準備は万端だった。
スカーレットは木陰で三角座りし、不安そうな表情を浮かべて待っていた。
レイチェルは茸の群生を一目見るなり、すぐに結論を出した。
「……毒茸で間違いないわね。気になるのは、これが自然に生えたのか、それとも誰かが植え付けたのかということ」
そう言うと、軍手をはめて、スコップで土を掘り起こし始める。
「そんなこと、わかるんですか?」
シトラスの問いに、レイチェルは作業の手を止めず答えた。
「難しいけれど……もし土の中に違和感があれば」
掘り起こした土の塊を両手で持ち上げ、二人に見せる。
明るい茶色をしたその塊は、周囲の黒ずんだ茶色の土と明らかに違っていた。
「それ、菌床ですね……」
シトラスが低く呟くと、レイチェルはゆっくり頷いた。
まだ状況を掴めていない様子のスカーレットに、シトラスが優しく説明した。
「菌床というのは、茸を育てるための人工的な培地のことです。何者かが、毒茸の種菌を菌床に植え付けた後、頃合いを見計らって、この場所に菌床を埋めて隠したのでしょう」
そこでレイチェルが低い声で補足した。
「本来、菌床から茸を育てるのに、わざわざ庭に埋める必要はありません。それでもここに埋めたのは──食用茸と勘違いさせ、スカーレットさんや別の誰かに収穫させて料理に使わせるため……かもしれません」
その言葉に、スカーレットの表情が一気に強張った。
「……いつからここに植えられていたのでしょうか?」
スカーレットの声は微かに震えていた。
「菌床を埋めた時期までは分かりません。ただ、この毒茸は成長が早い。土から顔を出してからこの大きさになるまで、せいぜい三、四日といったところでしょう。……シトラスさん、今まで気づかなかったのですか?」
レイチェルには珍しく、咎めるような鋭さが、その言葉尻に混じっていた。
シトラスは視線を落とし、弱々しい声で答える。
「……すみません。まったく気づきませんでした」
(どうしてもっと早く気づけなかったのだろう……?)
自責の念が胸を締めつける。
思い返せば、毎朝の水やりでは必ずこの近くを通っていた。
だが、昼の薬草採集や夕方の草取りの時は、池のほとり──シリウス殿下やザハムート公の休憩場所──からよく見えるこの一帯には近づかないようにしていた。
今日の昼は例外で、長椅子を運ぶ途中にこの近くを通っていたが、運搬に集中していて木陰には目を向けなかった。椅子に腰かけた休憩もほんのわずかで、この場所を見た記憶はない。
(気づけたとすれば、朝の水やりのときだけ……。それにしても、雨だった昨日以外は、いつも水やりしながら見回っていたはずなのに)
そこでふと、まったく別の考えがよぎる。
「菌床をここに埋めたのが、今日の日中という可能性はありませんか? レイチェルさんも言ったように、菌床は別の場所──たとえば個人の部屋──でも育てられます。十分に育ててから、今日になって菌床ごとここに移したのかもしれません」
自分の責任を逃れるための言い訳のようにも聞こえるかもしれない。
それでも、これが一番筋の通った推測だと感じた。
しかし、レイチェルは首を横に振った。
「可能性は否定しませんが……日中は人目につきやすい。そんな中で菌床を埋めるなんて、かなり危険な行為ですよ。しかも菌床は一つではありません。これだけの群生なら、相当な数があるはず。全部埋めるには時間もかかるでしょう。そう考えると──夜間に作業したと考えるほうが、現実的ですね」
(……確かに、レイチェルの言う通りだ。それに──夜といえば……昨晩は陛下の執務室で侵入者騒ぎがあった)
胸の奥で、いくつもの点が一気に線で結ばれていく。
(昨晩……犯人にとっては、菌床を埋める絶好の機会だった……!)
グレナから聞いた話を思い返しながら、必要な情報を拾い集めていく。
──騒ぎが起きた直後、王宮の夜回りをしていたアレク騎士団長が執務室へ駆けつけた。その後、グレナ、レイチェル、マシューも緊急招集され、全員が執務室に集まり、中庭に目を向ける者は誰一人いなかった。
しかも昨夜は雲ひとつない満月の夜だった。
月光が中庭を照らしていて、照明器具も“灯光”の魔法も不要──犯人は闇に紛れながらも作業できただろう。
唯一の引っ掛かりは、今朝の水やりで自分が毒茸を見落としたことだ。もっとも、それが何日も続いたわけではなく、たった一度の見落としなら……悔しいが、十分あり得る。
口を開きかけた瞬間──レイチェルと視線がぶつかった。
彼女はゆっくりと首を横に振り、口元に人差し指を立てた。
その仕草が意味することはただひとつ。
──言うな。昨晩のことは、ここでは。
レイチェルの瞳の奥に、警戒の光が宿っていた。
自分と同じ推測に至っているのは明らかだ。だが、ここには部外者──スカーレット料理長がいる。昨夜の騒動は、ごく限られた者しか知らぬ極秘事項。軽々しく口にすれば、たちまち情報は外に漏れる。
シトラスは、スカーレットにまで隠す必要があるのかと内心思った。
しかし、レイチェルの鋭い視線に制され、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
中庭には、しんとした沈黙が落ちた。
思考はさらに先へと進んでいく。
もし自分の推測が正しいのなら──また別の疑念が浮かび上がる。
昨晩、陛下の執務室に侵入した者と、毒茸の菌床を中庭に埋めた者。
それは同一人物なのか。それとも、互いに連携して動いた二人組なのか。
そして──二つの犯行は、何を狙って仕組まれたのか。
シトラスが思考の迷路をたどっていると、レイチェルの声が沈黙を破った。
「とにかく、毒茸はすべて回収しましょう。軍手は多めに持ってきましたから。根元から摘み取って、この袋に入れてください」
そこで、スカーレットは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「……すみません。私、そろそろ陛下の食事をお出しする時間ですので、ここで失礼させていただきたく。もしよろしければ、この件を陛下へお伝えしておきましょうか?」
レイチェルは、首を横に振りながら穏やかに遮った。
「いえ、これは中庭で起きた事件です。責任者である私とシトラスで、後ほど直接ご報告します。スカーレットさん、長く引き止めてしまって申し訳ありませんでした。それに、毒茸を見つけてくださったことには感謝しています。誤って口にされる前に防げたのは、あなたのおかげです」
「私はただ、美味しそうな茸があると思って……まさか毒茸とは思いも寄りませんでした。でも、確かな知識を持つお二人が中庭を管理している以上、安心ですね。それでは、今日はここで失礼します」
そう言い残して、スカーレットは静かに去っていた。
その場にはシトラスとレイチェルの二人だけが残った。
二人は淡々と毒茸を引き抜いて、袋に入れていく。
小声で交わすやり取りの中で、やはりレイチェルも昨晩こそ怪しいと考えていることが分かった。
しかし、それ以上深くは踏み込まない。
互いに“次の場”まで話を温存しているのが分かった。
やがて、袋が毒茸でいっぱいになる頃、辺りはすっかり暗くなっていた。
「シトラスさん、お疲れ様です。でも……これからもうひと仕事です。今から陛下の執務室へ行きましょう。この件をご報告しなければ」
レイチェルの瞳は、昼間よりも鋭い光を宿していた。
シトラスは無言で頷き、暗い中庭を後にした。




