第四十五話 中庭のベンチと五人の常連さん
昼食の時間。レインたちは、スカーレット料理長を囲んで、楽しいひとときを過ごした。話題の中心は、宴の時に振る舞われた料理の秘密や、食堂の料理の隠し味についてだった。
食事が終わり、会話も一区切りつくと、スカーレット料理長は「じゃあ、またね」と言って軽やかに席を立った。それをきっかけにレインたち四人も食器を片付け、そのまま解散することになった。
ランドリーとサラは、これからアレク騎士団長のもとへ午後の研修のお願いに向かうという。
レインは一人、地下へ向かおうとしていた。
(今日はマシューさんも文書館にいるかなぁ。“リバイバル”の件でいろいろ聞きたいんだけど……)
そんな考え事をしながら食堂を出ると、背後から肩をちょんちょんと突かれた。
驚いて振り返ると、シトラスが笑みを浮かべて立っていた。
「まだ時間あるでしょ? ちょっと一緒に来てくれないかなぁ? 力仕事を手伝ってほしいの」
いつもの柔らかい声色でそう頼まれる。
(手伝うのはもちろん構わないけど……。これは、ランドリーの方が適任なのでは……?)
レインは、昨日の魔法研修での二人の様子を思い返した。
「せっかくなら、ランドリーに頼めばいいんじゃない?」
軽い調子でそう言うと、シトラスはわずかに頬を赤らめながら問い返す。
「“せっかくなら”って、どういう意味?」
「あ……いや、力仕事を頼むなら、って意味」
危うく別の言葉を言いかけたが、レインはそれをぐっと飲み込んだ。
シトラスはすぐに冷静な表情に戻り、話を続けた。
「確かに力仕事にはランドリーのほうが向いてるだろうけど……気づいたら、ランドリーもサラもいなくなっちゃってて……。私の部屋にある長椅子を中庭に運びたいだけなんだ。そんなに重くないはずだから、レインでも平気だよ」
レインが周囲を見回すと、確かに二人の姿はすでに消えていた。
(ランドリーはせっかくの機会を逃したってことか……)
そんな余計なことを考えつつ、レインは小さく笑って答えた。
「分かった。僕が手伝うよ」
こうして二人は、まず“王宮薬師”専用のシトラスの居室へと向かった。
◆◆◆
廊下を歩きながら、レインは何気なく尋ねた。
「なんで中庭に長椅子を運ぶんだ?」
「居室に元々あった長椅子がね、ちょっと邪魔だなぁって思ったのがきっかけなんだけど……」
そこでシトラスはふと廊下の窓の外に視線を向けた。
その視線の先には、草木の生い茂った中庭がある。
「手入れをしていて気づいたんだけど、中庭には結構たくさん人が来るの。特に人気なのは中央の池で、みんな息抜きに来てるみたい。それで、昨日ふと思いついたの。その池の前に長椅子を置いたら、休憩にちょうどいいんじゃないかなって」
「とっても良い考えだと思う!」
レインは、優しさの溢れた彼女らしい発想に素直に感心した。
そして、さらに質問を重ねた。
「例えば、どんな人が中庭に来るの?」
シトラスは髪の毛先を指先でくるくると弄びながら答える。
「時間帯によって見かける人は違うよ。私は、一日三回、中庭に行ってるの。朝は早起きして、魔法研修場に行く前に、中庭の水やりをするんだけど……そのときに見かけるのは、案内人のマーガレットさんと、腰に剣を下げたブラウン色の長髪の女性」
「……シトラスって、朝から中庭の水やりしてるんだ?」
初めて聞く事実にレインは驚きつつ、すぐに思い当たった人物名を口にした。
「たぶん、その長髪の女性はアイリー偵察部隊長だよ。さっきスカーレット料理長も名前をちらっと出してた」
「ああ、あの人がアイリーさんなのかぁ」
シトラスは頷きながら続ける。
「二人は一緒に来るわけじゃなくて、それぞれ仕事前にふらっと立ち寄る感じ」
「へぇ、なるほどねぇ」
「それで、次に、私が中庭に行くのは、お昼ご飯の後、ちょうど今くらいの時間。医局に行く前に寄って、調合に使いたい薬草を採るんだー。この時間は、いつもシリウス殿下が池の前でぼんやりと佇んでいるの。怖いからなるべく近づかないようにしてたんだけど……昨日いきなり『何をしているんだ?』って声をかけられて、ほんとにびっくりした。薬草を採っているだけですって答えたら、『ふーん、そうか』としか言われなかったけど。もしかしたら今日もいるかもね」
「シリウス殿下か……」
レインは文書館での騒動以来、シリウス殿下と顔を合わせていない。
(もし会えるなら、光魔法の使用を隠そうとした理由を訊かないと……)
レインが考え込む隣で、シトラスはそのまま話を続けた。
「あとは夕方、涼しくなった頃に、草取りをしに中庭に行くの。その時間は、ザハムート公が池のそばにいるんだけど、いつも険しい顔をしていてすごく怖いよ。オーラはシリウス殿下の比じゃないかも。なるべく距離を取るようにしているから、まだ話しかけられたことはないけどね」
「ザハムート公か……確かに近寄りがたい感じだよな」
レインがそう言うと、シトラスはゆっくりと頷いた。
その後、彼女はふっと微笑んだ。
「もし私ひとりだったら、怖くて草取りどころじゃないと思うけど、ちょうどその時間帯にスカーレット料理長が来てくれるんだー。あの人は、草取りしている私を見つけると、『料理の彩りにおすすめの草花はないか?』ってよく聞いてくるの。草取りも手伝ってくれるから、私も毎日相談に乗ってあげてるんだ」
「スカーレット料理長は優しいねー」
レインがそう返すと、シトラスは「そうそう」と言って、にっこり笑った。
◆◆◆
会話がちょうど一区切りついた頃、二人は「王宮薬師室」という真新しい看板が掲げられた部屋の前にたどり着いた。
(ここが、シトラス専用の作業部屋かぁ。一体どんな部屋だろう?)
レインの胸は自然と高鳴る。
シトラスが「さあどうぞ」と言って扉を開けると、ふわりと薬草の香りがあふれ出した。
レインの目にまず飛び込んできたのは、机いっぱいに広がる薬草の山。葉や茎が無造作に積み重なり、淡い緑や深い緑が雑然と混ざり合っている。
壁際にはガラス棚が並び、色とりどりの液体を詰めた小瓶が整然と並んで、まるで小さな虹のように輝いていた。
そして、その奥──場違いなほど存在感を放つ古風な木製の長椅子があった。
濃い飴色の艶やかな木肌には、ところどころ細かな彫刻が施されていた。三人の大人がゆったり座れそうな大きさだが、薬草に囲まれたこの部屋では浮いて見える。まるで倉庫にぽんと置き忘れられたような、不思議な違和感を漂わせていた。
「私がこっち持つから、レインはそっち持ってね」
シトラスの指示に従って、レインは椅子の端をしっかり握った。
「じゃあ持ち上げるよ、せーの」
彼女の掛け声に合わせて、両腕に力を込めた。
予想以上の重さが腕にのしかかり、レインは思わず顔をしかめる。
シトラスの表情にも苦しさが滲み、椅子が少し彼女の側に傾いた。
(これを中庭まで運ぶのか……これは想像以上に大変だ。冗談抜きで、この場にランドリーもいた方が良かったのでは?)
そんな考えがレインの頭によぎった。
◆◆◆
途中で椅子を地面に下ろして休憩を挟みながらも、二人はなんとか中庭の中央にある池まで、長椅子を運び終えた。外は蒸し暑く、二人の額には汗がにじんだ。
「ありがとう、レイン! 本当に助かったよ」
シトラスは額の汗を手の甲で拭い、ぱっと花が咲くように笑った。
その笑みに、レインは思わず頬を赤らめる。
「重かったけど、無事運べて良かったよ。シトラスもお疲れ様」
二人は達成感に包まれながら、長椅子に並んで座った。
力仕事を終えた後のその眺めは、最高のご褒美だった。
池の水面は陽光を受けてきらきらと輝き、水の中では鮮やかな鯉が気持ちよさそうに泳いでいる。
吹き抜けるそよ風が火照った肌に優しく撫で、草木の葉をさらさらと揺らす。
耳を澄ませば、風の音に混じって虫や鳥のさえずりが心地よく聞こえた。
近くの花壇からは甘い草花の香りがふわりと漂っている。
(確かに……ここは息抜きにはうってつけだ)
レインは背筋を伸ばして、深呼吸した。
──その穏やかな空気を破るように、遠くにシリウス殿下の姿が見えた。
レインとシトラスは慌てて長椅子から立ち上がり、彼の様子をそっと窺う。
シリウス殿下はゆっくりとした歩調で、こちらに近づいてきた。
その途中で彼も二人に気づいた様子で、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
シリウス殿下は二人のそばまで来ると、長椅子に気づき、わずかに眉を上げた。
「ほう……池の前に長椅子とは。君の案かい?」
その目はレインに向けられているが、彼の意図は読み取れない。
「いえ、違います。これはシトラスの発案です」
レインが答えると、シリウス殿下の視線はシトラスへ移る。
彼女は緊張のあまり、ぎこちなく背筋を伸ばした。
「ずいぶん怖がられているみたいだな」
シリウスは苦笑しながら、ゆっくりと長椅子に腰を下ろした。
彼はふうっと息を吐いて、しばし周囲を見渡す。
そして、あらためてシトラスに視線を向けた。
「まさか怒ると思っているのかい? そんなわけないよ。この場所にぴったりで、実に素晴らしい」
そう言って、彼は珍しく豪快に笑った。
その笑いに引き寄せられるように、シトラスの表情も少しずつ和らいでいった。
こうして、長椅子の設置は無事成功を収めた。
──だが、シトラスとレインはまだ知らない。
この場所が単なる憩いの場ではない、という事実を。
次回予告「中庭の異変」




