第三十八話 作戦会議(前編) 心の拠り所
陛下の執務室。
マシューとともにレインが入室すると、カール陛下は頬杖をついていた。
レインに気づくと、彼はゆっくりと姿勢を正し、穏やかに微笑んだ。
「呼び出してすまなかったね。少し君の知恵を借りたいと思って」
そう語るカール陛下に対し、レインは話の意図が読めず困惑した。
「あの……それほど賢いわけではありませんけど……?」
カール陛下は笑みを深める。
「謙遜は不要だ。君の読書感想文は読ませてもらったよ。とても良く書けていて、興味深い内容だった。マシューも素晴らしい着眼点だと褒めていたよ。君は、自分で思っている以上に優秀だ。普通なら見過ごすような些細な異変や謎に気づく、その力は誰にでも備わっているものではない」
自分の読書感想文が陛下の目に触れていたことに驚きながらも、レインは思わず顔を綻ばせた。
カール陛下は一度マシューに目配せし、それから言葉を続けた。
「そんな君と一緒に、王国議会に向けた作戦を練りたくて、ここに呼んだのだ。まず一つ、問いたい。王弟派閥がイスリナ神教を国教化しようと密かに動いているようなのだが──君はどう思う?」
(そういう話か……)
レインは、ようやく話の輪郭を掴んだ気がした。
イスリナ神教の扱いについては、昨日、シリウス殿下とも少し話したばかりだ。
彼は、イスリナ神教のことを“かけがえのない日々がこの先も長く続いていくことを神に祈る、美しい教え”と表現し、もっと広く知ってもらいたいと語っていた。
レインも、イスリナ神教の教えそのものには深く共感していた。
だが、それを国教とすることには強い疑問を感じる。
レインは慎重に言葉を選びながら、カール陛下の問いに答えた。
「……それは、掟に反することです。陛下はもちろん承知の上で聞いているのでしょうが……金科七条の其の四には、“何人に対しても信教の自由を保障し、一切の宗教的迫害を禁ずる”とあります。イスリナ神教の国教化は、信教の自由を脅かし、宗教的迫害を誘発しかねません」
それは優等生的な答えだった。
カール陛下は深く頷く。
「……その通りだ。では、この文書についてはどう思うかね?」
カール陛下が差し出した一枚の紙には、『イスリナ神教を国教とする掟案 (再提出原案)』と記されていた。
レインは、その文書に静かに視線を落とした。
末尾の文面を見て、唖然とする。
『──なお、イスリナ神教を国教と位置付けつつも、万人に対する信教の自由は絶えず保障する。王国は、イスリナ神教徒以外の者に対する迫害、又はイスリナ神教への信仰を強制する行為をしてはならない。
(注釈)上記の二文を付すことにより、金科七条の其の四と矛盾せず両立する。』
それまで黙っていたマシューが口を開いた。
「陛下と私は、この文面は形だけの付け足しであって、イスリナ神教の国教化は明らかな掟違反だと思っている。そこで、議会当日に議員を説得するために、この原案に対する反論を、事前に練っておきたいのだよ」
レインは文面を見たまま、じっと考え込んだ。
形だけの付け足しといっても、侮れない。
信教の自由の保障を、先手を打って形だけでも書いてあることは、大きな意味を持つように感じる。これが掟違反であることを、理屈として明確に示すのは、想像以上に難しい──そう直感した。
そこで気になったのは、二文目の方だった。
「……『王国は、イスリナ神教徒以外の者に対する迫害、又はイスリナ神教への信仰を強制する行為をしてはならない』とありますが、この文の主語が『王国』である点は問題です。裏を返せば、教会や信者個人の行動は、その規制の外にあると受け取られかねません。この文のままでは、“教会や信者が何をしても王国は関知しない”とも読める余地があります」
カール陛下が目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……やはり君は鋭いな。私とマシューも、そこを危惧していた。この原案の最大の弱点は、まさにその曖昧さにある」
自分の言葉を肯定されたにもかかわらず、レインの胸にはどこか釈然としないものが残っていた。再び黙考し、その違和感の正体を探る。
そして、言葉を探るように口を開いた。
「……でも、おそらくそれだけでは反論としては弱いかもしれません。たとえば、彼らはこう主張するかもしれません──“教会や個人による宗教的迫害は、もともと『金科七条の其の四』で禁じられている。だから、その行為を王国が黙認するわけではない”と。さらに、もし王弟派が“原案の主語を修正しよう”と歩み寄ってきた場合、今の論点は完全に崩れてしまいます」
レインはそこで言葉を区切り、さらに踏み込んだ
「反論の時に本当に示さなければならないのは、「国教化」という制度そのものが「信教の自由の保障」と両立し得ないという、もっと根本的な論理です」
そこで、レインは一度、言葉を切った。
(……いや、むしろ論理ではなく、情に訴えるべきかもしれない)
「国教化とは、イスリナ神教を特別な地位に置き、王国のお墨付きを与えることを意味します。たとえ他宗教を迫害しないと明記されていても、“王国が公式に支持している宗教”があるという事実は、他の信仰や無信仰の人々に、心理的な圧力を与えます。“自分はこのままでいいのか”と、不安や疑念を抱かせること自体が、すでに『信教の自由』を壊しています」
その言葉には、揺るぎない確信がこもっていた。
ふと、レインの脳裏に、王都の市場の賑やかな風景が立ち上がった。
顔見知りの店主や買い物客の笑顔が浮かぶ。
彼らの信仰はまったく知らないけれど、おそらくばらばらだろう。
それでも、彼らは等しく穏やかな笑顔をいつも見せていた。
きっと僕も、そんな彼らと同じなのだ。イスリナ神教の教えが立派なものであることは疑っていない。けれども、僕の心を本当に支えてくれているのは、信仰そのものではない。僕に優しく寄り添ってくれた幼馴染たち、そして何より、父としての愛で僕を包んでくれたハルシュの存在なのだ。
レインは、力強く言葉を続けた。
「自分の心の拠り所は自分で決める。それこそが健全な在り方だと思います。イスリナ神教を国教にすることは、人それぞれの「心の拠り所」に介入し、宗教をめぐる民の不安をもたらすものです。辛い思いをする人も現れてしまうかもしれません」
執務室に、一瞬、沈黙が流れた。
やがて口を開いたのはマシューだった。
「──やはり陛下の判断は間違っていなかった。レインをここに呼んで、本当に良かった。我々は、掟の矛盾や論理的整合性ばかりに目を向けていたが、君の言葉はもっと根本的な問題を突いている。中立派の議員たちに聞かせるべきは、そういう言葉なんだと思う」
そして、やや声を落として続ける。
「そして何より、今、君が語ってくれたことは、この極秘文書を密かに我々に託してくれた協力者の想いに通じるものだ……」
マシューの言葉を受けて、カール陛下が静かに頷き、語り出す。
「私自身も、改めて初心を思い返したよ。なぜ信教の自由を、これまで大切にしてきたのか? それは、イスリナ神教がどれほど“平和”を掲げようとも、民の心を支えるのは、“信じるものを自ら選べる自由”──それに尽きると、私は心から信じているからだ。きっと、先人の王たちも同じ想いを抱いて、この国を治めてきたのだと思う」
そしてふと一息つくと、カール陛下はレインの瞳をまっすぐに見つめ、口調を改める。
「王国議会の日、君は傍聴席にいるはずだ。原則として、傍聴人は発言を許されていない。だが、王族または貴族の許可があれば、例外として傍聴人の発言を認める掟が存在する。私はその権限を使い、君に発言の機会を与えたいと思う。私もマシューも意見は述べるつもりだが、できれば──君自身の言葉で、この『国教化案』への反対意見を届けてほしい」
そこで、カール陛下は口調を控えめにした。
「もちろん、無理にとは言わない。だが、もし君が協力してくれるのなら、これほど心強いことはない」
突然の提案に、レインは驚いて目を見開いた。言葉がすぐには出てこない。
そんな様子を見て、カール陛下はいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「どうだ、良い考えだろう? マシュー」
マシューはゆっくりと頷いた。
「──はい、とても良い考えだと思います。私たちの言葉よりも、君の声のほうが、ずっとまっすぐ届く気がします」
マシューの表情も、どこか誇らしげな笑みが滲んでいた。
(これは、とんでもないことになった……)
レインは、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
引き受けることに躊躇いはない。
だが、その重責を感じた瞬間、全身に震えが走った。
「私でよければ、謹んでお受けいたします」
レインは改まった口調ではっきりと答えた。
そして、ほんの少し間を置いてから、遠慮がちに尋ねた。
「……あの、それで……王国議会って、どれくらいの規模なんでしょう? 何人くらい、いるものなんですか?」
その一言で、これまで張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
カール陛下は堪えきれずに吹き出し、その隣でマシューは頭を抱えている。
「はははっ、議会についてはまったくの無知のようだな。それなら、王国議会の構成や議事進行の規則について、次に話そう」
カール陛下はそう言って、レインに優しく微笑みかけた。




