第三十四話 朝の密談
陛下の執務室にて。
レインに関する話を終えたマシューは、ふと窓の外へ目をやった。
黒い雲が空を覆い、しとしとと静かに雨が降り続いている。
まるでその景色は、今の彼の心を映し出しているかのようだった。
マシューは険しい表情を浮かべ、声を潜めて言った。
「……実は、ここからが本題です。ご報告は三つございます。第一に、昨日の東壁での魔法発動に関するシリウス殿下の弁明について。第二に、対ハルシュ偵察の経過報告。そして第三に──王弟派が、次の王国議会で再び『イスリナ神教を国教とする掟』の制定を画策していることが判明いたしました」
その言葉に、カールの表情にも暗い翳が差した。
「……それでは、ひとつずつ聞かせてもらおうか」
【第一の報告】
「はい。まず一つ目は、東壁での魔法発動についてです。昨晩、私とグレナで、シリウス殿下の執務室を訪ね、この件に関して殿下の説明を求めました」
カールは静かに頷き、続きを促す。
「おおかたの説明は、レインの話と一致していました。殿下、曰く──『王国掟全書』を借りに文書館を訪れたところ、偶然レインと出会い、一緒に本を探すうちに東壁までたどり着いたと。その後、ほんの出来心からレインに掛けていた防御魔法を一時的に外し、東壁の魔法が発動する状況を作ってしまった……との弁明でした。あくまで本を借りることが目的だった、と申しておりました」
「まあ……仮に別の目的があったとしても、正直に話すとは思えんがな……」
「はい。私も、彼の言葉をそのまま信じるつもりはありません。……それと、グレナが気にしていた、殿下の魔法についてですが……。シリウスは、青龍を祓った際、火属性の魔法を用いたと説明していました。光属性の魔法は使っておらず、そもそも使えないとのことです。レインの証言との食い違いについても問いただしましたが、殿下は顔色ひとつ変えず、“レインの見間違いではないか”と答えておりました」
「……ふむ。たしかに、青龍の魔法に当てられて意識が朦朧としていたなら、レインの勘違いという可能性も否定できんか……」
短い沈黙が流れる。
やがてマシューが、ゆっくりと口を開いた。
「この件については、現時点では以上です。新たに何か判明しましたら、追ってご報告いたします」
カールは表情を曇らせたまま、深くため息をついた。
「……はあ、とりあえずはわかった。次は──ハルシュの件だったな?」
【第二の報告】
マシューは静かに頷き、再び淡々と語り始めた。
「昨日の朝、偵察要員二名を王宮から派遣いたしました。そして今朝方、ハルシュの所在が確認されました」
その報告に、カールの目がわずかに見開かれる。
「おぉ……それは、ずいぶんと早かったな」
「はい。私も驚きましたが、先ほど偵察部隊長のアイリーから報告を受けました」
「……で、どこにいた?」
「王国北西部の宿場町、カーダスです」
カールは顎に手を当て、しばし考え込んだ。
「国境までは、まだ少し距離があるな……。ハルシュは急いではいないようだな?」
マシューは、すぐに応じた。
「はい、おそらく。馬は使わず、徒歩で移動しているものと思われます。このペースなら、国境に着くまでに三、四日かかるでしょう。今後も慎重に追跡・監視を続けるように、アイリーには指示を出しました。また適宜ご報告いたします」
「……ああ、よろしく頼む」
そう答えたカールは、ふと席を立ち、窓辺に歩み寄った。
雨は勢いを増して音を立て、窓硝子を強く叩いていた。
【第三の報告】
(……ここまではまあ良い。問題は、次なのだ)
マシューは心の中で静かに呟いた。
一度、深く息を吐いた後、一段と声を潜めて説明に入った。
「三件目は、次の王国議会を巡る王弟派の動きについてです。我々の協力者から、極秘裏に、このような文書を入手しました」
マシューは上着の内ポケットから一枚の紙を取り出し、カールに差し出した。
カールはそれを受け取り、目を落とした。
『イスリナ神教を国教とする掟案 (再提出原案)』
見出しにはそう太字で記されていた。
その下には、滑らかな筆跡で、掟の文案が長々と綴られていた。
それはよく見覚えのある──ザハムート公の筆跡だった。
カールは思い返す。
『イスリナ神教を国教とする掟案』は、これまでに三度、議会で審議されてきた。
そのたびに議会は紛糾し、投票では反対票が賛成票を上回って否決された。
10対19、12対17、13対16。
──三度の審議のうちに、賛成と反対の差は、少しずつ縮まっていた。
カールは紙に視線を落としたまま、静かに問いかける。
「……この文書を寄越した協力者とは、誰なんだね? 本当に信頼に足るのか?」
「スフェンサー伯爵です」
その名に、カールはわずかに眉を動かし、顔を上げた。
スフェンサー伯爵ユダ・スフェンサーは、貴族特権を持つ王国議会議員のひとり。
イスリナ神教徒でありながら、カール王政の考えに理解を示してくれていた。
これまでの議会でも要所で発言し、我々の陣営に力を貸してくれていた人物だ。
三度にわたる国教化案の採決でも、彼は毎回反対票を投じていた。
そのたびに、議場に緊張が走ったことを、カールはよく覚えていた。
「……あの方か。たしかに、過去には幾度となく助けられたが……」
カールは、スフェンサー卿の姿を思い浮かべた。
柔和な顔立ちに、落ち着いた物腰の老貴族。
だが、その内面はどこか掴みどころがなかった。
助けられた恩義はあれど、カールは彼のことを一筋縄ではいかない人物と評価していた。
同時に、スフェンサー卿の置かれた立場の危うさが、カールの脳裏によぎった。
三度の議決で反対票を投じたことにより、彼はザハムート公ら王弟派に属する貴族たちから執拗な嫌がらせを受けていた。結果として、スフェンサー家は貴族社会において孤立を深め、その影響力を次第に失いつつあった。
「スフェンサー家の安泰は保証する」と、カールは以前、彼に約束した。
ザハムート公にも釘を刺した。
だが──貴族社会において孤立することの意味は重い。
家の安定を優先せざるを得なくなったとき、彼は本当に、これまで通りの姿勢を貫いてくれるのだろうか?
マシューは、カールの懸念に理解を示しつつ、言葉を重ねた。
「陛下のお気持ちも、よく分かります。……ですが、彼はこの紙を私に渡す際に、こう言いました。『私自身がイスリナ神教徒であるにしても、その国教化を良しとするかは全く別の問題だ』と。さらに、彼はこう続けました──『国教化を許せば、金科七条の其の四で保障された“信教の自由”は形骸化する。他宗派や無信仰の民に不安が広がり、宗教的迫害が生じるだろう。それに、聖イスリナ神教国の総本山から発せられる宗教的・政治的発言が、我が国の内政にまで影響を及ぼすことになりかねない。だから私は、絶対に反対なのだ』──と」
マシューの口調には、かすかな熱がこもっていた。
「その力強い言葉を聞いて、私は彼を信じることにしました。この文書も間違いなく本物でしょう。筆跡はザハムート公のものと酷似しています。スフェンサー卿の話によれば、この文書の写しが、貴族特権を持つ議員の間で、密かに何通も流れているとのことです」
カールは再び紙に視線を落とし、しばし無言のまま見つめた。
やがて、低く重い声で言った。
「……スフェンサー卿も指摘していたようだが、この案は、どう考えても金科七条の其の四に反する。金科七条に反する掟が無効であることは、其の七にはっきり書かれているではないか。どうして、こんなものが通る道理がある……」
「仰る通りです。ただし彼らは、条文との整合性を装って、文案に修正を加えてきています。……最後の記述をご覧ください」
促されるまま、カールは文書の末尾に目を向けた。
──なお、イスリナ神教を国教と位置付けつつも、万人に対する信教の自由は絶えず保障する。王国は、イスリナ神教徒以外の者に対する迫害、又はイスリナ神教への信仰を強制する行為をしてはならない。
(注釈)上記の二文を付すことにより、金科七条の其の四と矛盾せず両立する。
カールの表情に、苦々しさが滲む。
「……信教の自由は保証するし、迫害もしない。これまでの否決を踏まえて、形だけの文言を加えてきたというわけか……。そんな付け足しだけで矛盾を解消した、と彼らは本気で思っているのか……」
その声には怒気が混じっていた。
マシューは、低い声で応じる。
「こんな詭弁が通ってはなりません。だからこそ、王国議会でこの案を否決するための反論を、陛下とともに今から練っておきたいのです。現時点の票読みでは、賛成で固いのは10人、反対で固いのは9人、残り10人は賛否のどちらに付くか不明の中立派です。議会当日の反論で、その中立派をどれだけ反対票へ引き込めるかに、すべてがかかっています」
中立票は10。──この10票こそが、すべてを左右する鍵、というわけか。
そのうち6人を説得できれば──否決に持ち込める。
カールは票の顔ぶれを頭に思い浮かべ、静かに考えを巡らせた。
(さて、どう反論を練るべきか……?)
そのとき、ふと妙案がひらめき、カールの口元が緩んだ。
「反論を練るというのなら、レインも呼んでみてはどうだ? 午前は魔法研修のはずだが、午後は空いているだろう」
突拍子もない提案に、マシューは思わず目を見開いた。
「……しかし、とても重大な話ですし……」
「重大だからこそ、だよ。それに君はつい先ほど、レインの実力を“史官試験合格相当“と評しただろう? ならば、その力にも頼ってみようではないか」
そう言って、カールは笑みを深めた。
──この機転こそ、陛下の魅力なのだ。
マシューは心の中で呟き、静かに言葉を返した。
「……分かりました。午後にレインを呼んで、打ち合わせを始めましょう」
そうして、マシューの報告はようやく一区切りがついた。
空気が緩み、カールがふと軽い調子で言った。
「もし夜だったら、これから一杯どうだ、と誘うところだが……」
その言葉を受けて、終始険しい表情だったマシューもようやく笑みをこぼした。
「……軽口は、そのくらいにしてください」
呆れたように言いながらも、マシューの胸には確信があった。
──この王は、やはり生涯を賭して仕えるに値する名君である、と。
いつしか雨は上がり、厚い雲の隙間から太陽の光が差し込んでいた。
*これまで漢数字で統一していましたが、本エピソードでは、賛否の票数に関わる部分について、見やすさを優先して数字表記にしています。
*(以下、2025/7/31 修正事項)
修正前:ユダ・スペンサー (呼称:ユダ卿)
修正後:スフェンサー伯爵ユダ・スフェンサー(呼称:スフェンサー卿)
(中世ヨーロッパ貴族の呼称に関する慣習に従った調整と、実在の「スペンサー伯爵・スペンサー家」との被りを回避するために、家名(姓)を改めました。投稿後の修正となり、申し訳ありません)
また、チェスター・ザハムートにつきまして、改名はしていませんが、呼称をチェスター公ではなく、ザハムート公に修正しています。




