第三十三話 読書感想文の意味
早朝、魔法研修が始まるよりも前の時間。
レインは、読書感想文を手に、マシュー文書館長の執務室へと向かった。
──果たして、この感想文が、どう受け取られるだろうか。
期待と不安を胸に、執務室の前に立ち、一呼吸置いてから、静かに扉を叩いた。
「どうぞ」
扉の奥からマシューの柔らかな声が返ってきた。
レインがそっと扉を引くと、まず目に入ったのは、マシューの机の前に立つ女性の後ろ姿だった。すらりとした細身の体躯に、腰には一本の剣。特徴的なブラウンの長髪が背中まで流れている。
マシューは机の奥に腰掛け、どうやらその女性から何かの報告を受けている最中のようだった。
レインは一瞬、「また昼に出直しましょうか」と声をかけようとした。が、それより早く、女性はマシューに一礼し、すっと体を翻した。そして、レインに穏やかな微笑みと軽い会釈を向けると、無言のまま部屋をあとにした。
「あの方は……どなたでしょうか? 私が入ってきてよかったのですか?」
「構わないよ。今のは王国騎士団の偵察部隊長、アイリー・スマートという。彼女から報告を一件、受けていたんだが、ちょうど終わったところだった」
そう説明したマシューは、ふっと表情を和らげた。
「それで……朝早くからどうしたのかな? ひょっとして、わざわざ読書感想文を届けてくれたのかい?」
彼の視線が、レインの手にある原稿へと向かう。
レインは静かに頷き、感想文の原稿をそっと差し出した。
「こちらが、読書感想文になります。お時間のあるときに、読んでいただければと思います」
レインの言葉に対し、マシューは口元を緩め、軽い口調で言った。
「いや、今すぐ読むよ。まだ魔法研修の開始までは時間があるだろう。そこに座って、少し待っていてくれるかな」
レインは来客用のソファに促され、おずおずと腰を下ろした。
まさか今すぐ読んでくれるとは思っておらず、胸の鼓動が急に速くなる。
一方のマシューは、机の上の老眼鏡を手に取ると、それを掛けてレインと向かい合うようにソファに座り、原稿に目を通し始めた。
室内はしんと静まり返った。
レインは恐る恐るマシューの表情を窺うが、彼の顔は終始、真剣そのものだった。
その静寂の時間は、レインには果てしなく長く感じられた。
やがてマシューは原稿を読み終えると、老眼鏡を外して、ふっと微笑んだ。
「……ふむ。なかなか面白い感想文だった。だが、最後の段落、“原典”の現代文字表記を指摘する部分は蛇足だな」
(えっ、いきなりそこ? しかも、蛇足って……)
レインは戸惑いながら、恐る恐る尋ねた。
「蛇足とはどういうことでしょうか? 原典が現代文字で書かれているのは、すごく引っかかるのですが……」
マシューはにやりと口角を上げた。
「君は、まだ古代文字の勉強は十分できていないようだな。古代文字の由来や、どのように現代文字へと切り替わっていったか、その歴史を紐解けば、この疑問の答えは見えてくるだろう」
マシューは明言を避け、あくまでヒントを与えるにとどめた。
それでも、レインにとっては大いに価値ある示唆だった。
——たしかに古代文字の由来は盲点だった。ちょっと調べてみるか。
レインはそう思いながら、素直に応じた。
「分かりました。古代文字の歴史など、調べてみます」
その言葉に、マシューはゆっくりと頷いた。
レインは続けて、別の疑問を口にした。
「あの……“リバイバル”に関する違和感についても、いくつか書いたのですが、その点はいかがでしょうか? 特に〈ラスタンディア〉の探検について、原典には記録がないはずなのに、マシューさんがわざわざ創作された意図が分からなくて……」
マシューは声を立てて笑った。
「ふふっ……確かに遠慮なく色々と指摘してくれていたな。意図ね……君はどう思う?」
唐突な逆質問に、レインは戸惑った。
(こっちが訊いてるのに……)
考えあぐねた末、レインは率直に心情を口にした。
「想像してみたんですが、やっぱり分からなくて。ただ……史実を伝えるはずの歴史書に創作が混じっているのは、あまり好ましいことではないように思います。〈ラスタンディア〉の部分を、最初から載せなければ済んだ話ではないでしょうか?」
マシューの表情がわずかに強張った。
「『王国創始記リバイバル』という歴史書が、全五巻を通して何を目的としているのか──もう一度、よく考えてみなさい。それに、史実とは、文書館にあるものだけとは限らないのだよ」
その意味深な言葉に、レインは思わず首を捻る。さらに問いただそうかと口を開きかけたところで、マシューが先に言葉を継いだ。
「とにかく感想文はご苦労だった。……ところで君は、今朝の〈アステニア王国新聞〉はもう確認したかい?」
急に話題を変えられた気がして、レインは釈然としなかった。だがそれ以上に「アステニア王国新聞」という言葉に意識が引き寄せられる。
——そうだ。今日は、史官試験の詳細が新聞で発表される日だった!
思い出した瞬間、レインの目が大きく見開かれる。
マシューはその反応を見て、愉しげに笑い、机の上に置いていた新聞を手に取り、レインへ差し出した。
「はい、これが今朝の新聞だよ。確認してごらん」
マシューに促されるまでもなく、レインはすぐに紙面に目を走らせた。新聞を捲っていくうちに、やがて史官試験の実施要項について記された欄を見つけた。
日程の変更はない。受験資格にも、試験会場にも変更はない。
一つずつ確認していったレインの視線が、出題形式の概要のところで、ぴたりと止まった。
例年通りなら、「現代文字」「古代文字」「王国の掟」「直近二百年の歴史」の四題構成のはず。今年も変わらないだろう——そう思って読み進めた彼の目に、予想外の記述が飛び込んできた。
——今年の試験は、「現代文字」「古代文字」「王国の掟」「直近二百年の歴史」「王国建国史」の五題構成とする。なお、新設の「王国建国史」は、マシュー・コーネル著『王国創始記リバイバル』の内容より出題することとする。
「今まではね、王国建国史を出題したくても、市中にまとまった書籍が出回ってなかったから諦めていたんだよ」
レインが目を丸くしていると、マシューはにやりと笑って続ける。
「でも今年は、『王国創始記リバイバル』がようやく出版された。せっかくだから、その中から出題してみようと思ってね」
レインは唖然としたが、すぐに思い直す。
(これって、むしろ僕にとってチャンスなのでは……?)
そして、もうひとつの重大な可能性に気づく。
(そもそもマシューさんが僕に読書感想文を課したのって、史官試験の対策になることを見越して……?)
するとマシューは、レインの心を見透かしたかのように苦笑した。
「勘違いしてはいけないよ。君を贔屓するつもりはまったくない。私はあくまで、公正・公平な立場の人間だ。……読書感想文は、たまたま課しただけさ」
その「たまたま」が誤魔化しに過ぎないことは、明らかだった。マシューは建前上、そう言ったに過ぎないだろう。レインは、マシューのさりげない優しさに気づいて、素直な思いを思わず口にした。
「ありがとうございました! まさか読書感想文が史官試験の勉強に繋がっていたなんて……!」
だがマシューは、慌てて手を振る。
「だから、そうじゃないって。感謝してくれるのは嬉しいけど、勘違いしないでくれよ。それに、こちらこそ面白い読書感想文を読ませてもらって感謝しているよ」
その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
そして不意に、マシューは手をぽんと叩いた。
「ちょっと長話をしてしまったな。時間は大丈夫かい? 午前の魔法研修に間に合うかな?」
レインは慌てて、壁にかけられた時計を見た。たしかに、開始時刻が目前に迫っている。
「あっ……もう行かないと。時間を教えてくださって、ありがとうございます! 午後もよろしくお願いします!」
新聞を返しながらそう言うと、マシューは苦笑まじりに頷いた。
「朝から元気で良いことだ。……まあとにかく、まずは魔法研修、頑張りなさい。それと……今日の午後も、私は文書館には行けないから、掃除は任せたよ」
なんだかリバイバルの謎について答えをもらう時機を逸した気がして、レインは少し落胆したが、今はそれよりも魔法研修に遅れないことが先だった。
レインはさっと一礼して、足早に執務室を後にした。
◆◆◆
レインが去ってしばらくすると、マシューもおもむろに立ち上がり、自室を出てカール陛下の執務室へと向かった。その手には、レインの読書感想文があった。
陛下の執務室。
マシューの突然の来訪に、カールは少し驚いた表情を見せた。
「朝早くに珍しいな。貴方が来るのはいつも夜のはずだが」
その言葉にマシューは苦笑する。
「そんなことはありませんよ。朝でも昼でも、必要があれば来ます」
「……それで、用件は?」
「いくつかございますが……まずはこちらを読んで頂きたく」
そう言って、マシューはレインの読書感想文を差し出した。
「これは……?」
「レインに、『王国創始記リバイバル』の読書感想文を書いてもらいました。ぜひ陛下もお読みになってください」
「……ほう」
カールは黙り込むと、その原稿に目を走らせた。
読み終えると、顔を上げ、おもむろにマシューに尋ねる。
「……よく書けているな。それで、貴方はどう思った?」
「私も、大変よく書けていると思いました。最終巻に対する感想の締め方は実に秀逸です。それに、各巻に対する着眼点はいずれも鋭く、特に〈ラスタンディア〉の探検がなぜ創作されたのかという指摘には、ひやりとさせられました。彼には、“史実を伝えるはずの歴史書に創作が紛れ込むのは好ましいことではない”とまで言われてしまいました」
「……ふむ。やはり彼は、建国の歴史を正面から見据えようとしているようだ。以前にも問うたが、彼は貴方の跡を継ぐ器になれると思うか?」
その問いに、マシューは少し言い淀み、慎重に言葉を選んだ。
「それはまだわかりませんが……少なくとも、彼の能力はすでに文書館員の域には達しているように思います。これまで見てきた文書館員の誰よりも優秀です。史官試験を受けるまでもない、とさえ思います」
その答えに、カールはにやりと笑う。
「ほう。彼を王宮職に任命する際、『立派な文書館員としてやっていくためには、遅かれ早かれ史官試験に合格してもらわねばならない』と言って、清掃員という立場での推薦に留めた人物の発言とは思えんな」
「あの時は、判断材料が限られていて、順当に試験を受けるべきだと思ったのです……。しかし、彼の素質は私の予想を超えていました」
「つまり今になって、彼を飛び級で文書館員に推薦したい、ということか?」
その問いには、マシューは首を横に振った。
「いえ。彼自身、史官試験に意欲を示していますし、王国の掟や古代文字など、まだ学んでほしいことも多くあります。ですから、予定通り試験を受けてもらうつもりです。ただ、彼がすでに史官試験合格に相当する実力を備えている、ということは、陛下にお伝えしておこうかと……。これが一つ目の要件です」
「なるほど、心に留めておこう。……それで、他には何かな?」
カールの静かな問いかけに対し、マシューは、暗い表情で言葉を返した。
「……実は、ここからが本題です。ご報告は三つございます。第一に、昨日の東壁での魔法発動に関する、シリウス殿下の弁明について。第二に、対ハルシュ偵察の経過報告。そして第三に──王弟派が、次の王国議会で再び『イスリナ教を国教とする掟』の制定を画策していることが判明いたしました」
その言葉に、カールの表情にも、暗い翳が差した。
「読書感想文」が少々くどく感じられた方もいらっしゃったかもしれませんが、これにて“読書感想文編(?)”はひとまず一区切りです。
ここからはいよいよ、王国議会へ向けた動きが本格化します。
※なお(?)が付いているのは、作者の勝手な小さな章分けによるものです。




