第三十話 美しきものは怖ろしきもの
青く輝く龍が、空中で静かに旋回していた。
うねる胴、煌めく鱗。
その動きひとつで、空気は張り詰め、冷気と圧が周囲に広がっていく。
レインの足元では、書棚の隙間や石畳の裂け目から、黒紫の蔓や木の根が静かに、しかし執拗に這い出してきた。柔らかく艶めいたそれらは、レインの足元を撫でるように絡みついて這い上がり、徐々に体を締め上げていく。
「──あああああっ!」
必死に逃れようとするが、膝上まで絡み取られ、動きはすぐに封じられた。
恐怖に駆られて振り返ると、少し離れた場所にシリウスの姿があった。
彼は、薄く笑みを浮かべてそれを見ていた。
「第一段階、“封縛の蔓”」
淡々と呟かれたその言葉は、レインの耳には届かなかった。
(……嵌められた? 一時でも信じたのが間違いだった……!)
怒りと不信が胸をざわつかせる。
ただ状況は切迫していた。
今は彼に助けを乞うしかなく、蔓を何とかして抑え込みながら叫んだ。
「た、助けて……!」
しかし返事は返ってこない。
代わりに、辺りの空気がふわりと変質した。
書棚の装飾にあった無数の蕾が、一斉に弾けるように開花した。
色とりどりの花々が装飾から浮き出し、まるで実物のように美しく咲き誇った。
「第二段階、“幻惑の花園”」
またひとつ、シリウスの口から静かに言葉が漏れた。
レインには聞こえない。
ただその光景に目を奪われていた
恐怖心を一時忘れ、花の美しさに囚われていく。
それはあまりにも美しかった。息を呑むほどに。
──そして、どこか、狂っていた。
高く舞う青龍が、大きく胴をくねらせる。
その動きに合わせて空気が揺れ、花弁が舞い、蔓が踊る。
まるでこの空間すべてが、生きた絵画のように揺らめいていた。
そして、龍が巻き起こした風に乗って、辺り一帯に花の香が満ちた。
濃厚で甘く、酩酊するような香り。
頭の奥がぼんやりと痺れ、視界に靄がかかっていく。
レインの意識がゆっくりと鈍くなっていく。
危険だと分かっているのに、なぜか心地よかった。
逃げなければいけないのに、「このままでもいいのかもしれない」という感情が、ふっと胸をかすめる。
そして、青龍がいよいよ大きく翼を広げた。
次の瞬間、口をゆっくりと開き、白い吐息──否、霧のような“瘴気”を、静かに吐き出した。
毒気を帯びた白霧は、静かに、確実に、レインの身体を包み込んでいく。視界がどんどん曇っていき、意識が朦朧としていく。
「最終段階、“青龍の裁き“」
シリウスの声が静かに響く。
それは淡々とした宣告だった。
レインの目は、半ば閉じかけていた。
もうすぐすべてが終わる──そんな予感が、確かな実感となって迫ってくる。
蔓はなおも締めつけ、花は咲き乱れ、瘴気はレインの命そのものを奪おうとしていた。
その時──
「……そろそろ頃合いかな」
シリウスが静かに呟く。
そして、深く息を吸い、大きく右手を振り上げた。
「その少年は侵入者にあらず。王宮に仕える者なり。青龍よ、鎮まりたまえ──」
低く厳かな声が空間に響く。
その刹那、彼の掌から眩い光が放たれ、四方へ弾けた。
瘴気は霧散し、光に触れた龍の身体は一瞬輝いた後、崩れるように消えていく。
蔓も、根も、美しかった花々さえも、すべて音もなく消え失せた。
すべてが、まるで最初から幻だったかのように。
◆◆◆
レインはただ呆然と膝をついた。
思考はまだ定まらず、靄がかかっていた。
脳裏に先ほどの光景がじわりと浮かび上がる。
──あの時、たしかに青龍が実体を伴って出現した。
床や書棚の隙間から蔓と木の根が這い出し、四肢を絡め取られた。
次には、書棚に花が咲き乱れ、その美しさと甘い香に意識を奪われた。
そこへ、青龍の白い吐息が降りかかり──すべてが白く、遠のいていった。
レインは濃い霧の森を彷徨う夢を見た。
体の感覚はどこか曖昧で、頭の奥には鈍い痛みがあった。
森の中、どこへ進んでも霧は晴れず、思考も歩みも、すべてが空回りした。
……あれから、何が起きたのか。
断片的な記憶の奥底に、光の一閃が浮かぶ。
シリウスの手から放たれたそれは、幻のような耽美と恐怖を一瞬で払った──。
時間とともに、意識の靄が少しずつ晴れていき、記憶が鮮明になっていく。
白んだ視界が色を取り戻し、床の感触、空気の匂いがようやく戻ってきた。
すべては元通りだった。
床も、書棚も、本も──まるで最初から異変などなかったかのように。
「綺麗だっただろう?」
突然、背後から声が降ってきた。
振り返ると、シリウスが屈託のない笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
その笑顔を見た瞬間、レインの背筋にひやりとしたものが走る。
あの光景が、「綺麗だった」だけで済まされるわけがない。
体に絡みついていた恐怖と不快感は、今も肌に残っていた。
さきほどまで混濁していた頭に、ようやく怒りが芽を出す。
最初はかすかな苛立ちだった。
だが、言葉を発する直前には、はっきりとした怒りへと変わっていた。
「……何のつもりですか」
レインが鋭い眼差しで睨むと、彼は肩をすくめた。
「いや、東壁の魔法を実際に見てもらった方が早いかと思ってね。君への防御魔法を、一時的に解除しただけだよ。これで分かっただろう? ここに描かれているのは風や草木を操る“青龍”だ。水を司る水龍とは明らかに違う」
一拍おいて、シリウスは少しだけ目を伏せた。
「……まあ、久々にこの東壁の魔法を間近で見たくなって、少し介入するのが遅くなったのは認めるよ。一時でも怖い思いをさせたのなら、本当にすまなかった。昔──まだ私が小さかった頃、兄上と二人でここを訪れたんだ。あのときは、私が囮にされて……随分と怖かったな。今では懐かしい思い出だ」
遠い記憶を手繰るように語るシリウスを、レインはなおも睨み続けた。
「すまなかった」と素直に謝る様子は、いつかのカール陛下と少し似たものを感じさせた。だが、今のはいくらなんでも度が過ぎる。
たとえ謝罪の言葉があったとしても、簡単に許せるようなことではない。
彼への警戒を解くには、まだ早すぎる。
レインが思考を巡らせていると、シリウスがふと口を開いた。
「……だが、それでも君が最初に言った通りだと思う。この東壁の装飾と魔法は、王国の東に広がる森を模しているのだろう」
独り言のような呟きだった。その声は、なおも続く。
「逆転の発想だよ、レイン君。私はこう考えている。──千年前、東の森に現れた龍は、本当は“青龍”だったのではないかと。『王国創始記』の記述に、誤り、あるいは意図的な偽りがあるのではないかとね」
レインは、はっと目を見開いた。
“リバイバル”の記述が脳裏をよぎる。
たしか第二巻で登場した水龍神ガザスは、まさしく”水の神”が如く、濁流のような波で森をなぎ倒し、街を破壊していたはずだ。“原典”の記述はまだ直接確かめていないが、シリウスの口ぶりからして、同様の記録が残っているのだろう。
では、その記録を“偽りかもしれない”と彼に思わせたのは、いったい何なのか?
レインはおそるおそる尋ねた。
「……なぜ、そのように考えるのですか?」
シリウスは、レインの目をじっと見据えて応えた。
「東の森の先住民、シルヴィ族とはあまり交流がない。だから詳しくは分からないが──昔、偶然出会ったシルヴィ族の旅人から、興味深い話を聞いたことがある」
一拍置いて、言葉を続ける。
「彼の話では、〈サーマ・ラグーン〉の湖底には、森の守護神“青龍カサス”が眠っていると、シルヴィの民の間では信じられているそうだ。残念ながら、千年前の出来事にまつわる伝承はすでに失われているらしい。だが、もしそれが事実なら──我々が信じている『王国創始記』の内容そのものを見直すべきかもしれない」
レインの顔に驚きが浮かぶ。
原典の記述はまだほんの少ししか見ていない。
だが、少なくとも“リバイバル”のほうには、疑わしい点はいくつかあった。
それを思うと、シリウスの説も、まったくの荒唐無稽というわけではないように思えてくる。
「……そのことは、マシュー様には話されたのですか?」
問いかけると、シリウスはふと視線を逸らし、遠くを見た。
「一度だけな。だが、こう言われたよ。『たった一人の民草の話を信じて、王国創始記を疑うのか。あの原典に誤りなどあるはずがなかろう』……と」
レインが口をつぐむと、シリウスはさらに低い声で言葉を重ねた。
「彼が原典を純粋に信じているだけなのか。それとも──その裏にある何かを知っていて、あえて語ろうとしないのか。私は後者を疑っている」
そして、レインの表情を窺うように続けた。
「君はマシューや兄上を心から慕っているかもしれない。だが、すべてを信じきらないほうがいい」
「……」
「私がまだ幼かった頃の話だ。兄上が国王の位に就いて間もないころ、文書館で二人の跡をつけたことがある」
語り口が少しずつ、記憶を辿るものへと変わっていく。
「二人とも険しい顔をして、中央通路に入っていった。気になって、遠巻きに後を追った。彼らの黄色い“灯光”を目印にして、私は暗い通路をそっと進んでいった」
「灯光はまっすぐ動き、やがて北の壁に到達した。私は急いで追いかけたが、そこに彼らの姿はなかった。まさに“雲隠れ”というべき姿の消し方だった」
レインは、思わず息を呑んだ。
「しばらく辺りを探したが、見つからなかった。仕方なく中央通路の終点、“黄金の書棚”の前に戻ると──彼らはそこにいた。あたかも最初からそこにいたかのように、平然と立っていた。兄上の顔だけが、なぜか険しかった」
「……」
「それから数日、兄上は理由も告げず部屋に引きこもっていた。ようやく元の様子に戻った頃、私は彼を捕まえて問いただした──文書館で一体何をしていたのか、と。だが、兄上は何も語らなかった。『跡を追ったのに、姿が消えた』と訴えても、『幻覚でも見たんだろう』と、軽くはぐらかされた」
一瞬、言葉を切る。そして、噛み締めるように続けた。
「……だが、あの時の私は正気だった。幻覚魔法にもかかっていないはずだ。──まだ、真相は分からないが、私は、兄上とマシューが何か重大なことを隠している気がするんだ」
レインの胸が、ひたりと冷える感覚に包まれた。
シリウスの言葉をどこまで信じて良いか分からない。
だがもし、彼の話が本当だとしたら──
カール陛下とマシュー館長は、あの微笑みの裏に、いったい何を隠しているのだろう……?
シリウスがふと、こちらの顔色を窺い、肩をすくめるように言った。
「……ちょっと長話が過ぎたな。まあ全部、私の独り言だったと思って、聞き流してくれればいい」
そして、手をぽんと叩き、場の空気を切りかえるように、明るい声を発した。
「ところで、先ほどの魔法鑑賞中に見つけたんだよ。探していた本を!」
彼は、東壁の書棚の高いところ、龍の紋様の近くを指差した。
その方向にレインが目を向けると、そこにはたしかに、黒い装丁の厚い法典『王国掟全書』が三冊、整然と並んでいた。
本エピソードの外伝として、一話読み切りの短編「ふたりの王子と幻惑の地下迷宮 」を投稿しました。
幼き日のカールとシリウスが東壁の魔法にどう挑んだかが描かれていますので、まだ未読の方は、ぜひご確認ください。今回のレインとは少し違った結末が用意されています。
作者の活動ページから見られますが、念の為にリンクも記載しておきます↓
https://ncode.syosetu.com/n4743ku/




