第二十九話 本探しの果てに
レインは、警戒心を抱えたまま、シリウスとともに文書館を歩いていた。
本を探すためだが、彼の真意は、いまひとつ掴みきれない。
探しているのは、黒い装丁の分厚い法典『王国掟全書』である。
「大体どのあたりにあるかの目星はついているのでしょうか?」
レインが静かに問いかけると、シリウスが微笑みを浮かべて応じた。
「壁沿いだったのは覚えているよ。たしか南壁か東壁の書棚だったと思う」
そう言って、彼は南壁の書棚へと目を向ける。
レインもそれに倣い、視線をそっと走らせた。
並んだ背表紙の一冊一冊に目を凝らしながら、二人は無言のまま、ゆっくりと東の方角へと歩みを進めていく。
しばらくの間、言葉を交わさぬまま沈黙が続いた。
やがて、シリウスが沈黙を破って、静かに口を開く。
その目線は書棚の方を向いたままだった。
「君は、イスリナ神教についてどう思う?」
レインもまた、書棚に目を向けたまま、落ち着いた声で応じた。
「イスリナ神がこの世界の平穏を保ってくださっている、と信じています。それに、私がハルシュ様と出会えたこと、幼馴染たちと素敵な日々を送れていることも、偶然ではなく、イスリナ神が与えてくださった巡り合わせだと思っています。イスリナ神教は素晴らしい教えです」
シリウスは深く頷き、まるで独り言のように呟いた。
「そう。イスリナ神教は平和の教えだ。何気ない、けれど、かけがえのない日々がこの先も長く続いていくことを神に祈る──美しい教えだよ。私はね、この教えはもっと広く知られるべきだと、強く思うんだ。……そして、その信念に基づいて政治を動かすことは……そんなに間違ったことなのだろうか?」
レインはふと、隣を歩くシリウスの横顔に目を向けた。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
やがて彼もレインの方に視線を向け、不意に目が合う。
その優しげな眼差しに、レインは思わず警戒心が緩みそうになる。
「兄上は、政治と宗教をきっぱり切り分けようとする。だがね、そもそも、なぜそんな線引きが必要なんだろう? 私にも信仰の自由を尊重する気持ちはある。異なる信仰を排除する気もない。ただ、信じているものを大切にしたいだけなんだ」
その声には、どこか寂しさの混じった熱があった。
レインはふと、彼に対して抱いていた印象が少し揺らぐのを感じた。
彼は権力を求めているのではなく、純粋にイスリナ神教の信条を信じる平和主義者なのかもしれない。
だが、レインはそのまま頷くことはしなかった。
言葉を選びながら、まっすぐに返す。
「殿下のお気持ちは分かります。でも……どんなに純粋であっても、殿下のような立場の方が宗教に言及すれば、それだけで、周囲には圧力として伝わってしまうかもしれません」
一瞬、シリウスの目が静かに細められた。
「たとえばさっき、私に『イスリナ神教についてどう思う?』とお尋ねになりましたね。私はたまたま信者なので、気になりませんでした。でも、もしそうでなかったら……戸惑う人もいると思うんです。殿下に悪気がなくても、それだけで“選ばれていない側”のように感じてしまうかもしれない。そういった無意識の重圧を、カール陛下は心配されているのではないでしょうか」
しばしの沈黙ののち、シリウスははっとしたように目を見開き、感心したように笑った。
「君は、思ったことを臆さずに言うのだな。見上げたものだ。……確かに、その通りかもしれない。自分では気づかぬうちに、誰かを押さえつけている可能性がある。それには、細心の注意を払わねばならない。……ただな」
彼は少し目を伏せ、低く静かな声で続けた。
「今のこの国は、宗教を信じること、あるいはそれを表に出すことが、どこか避けられているように思うんだ。神の話をすると途端に空気が冷える。信仰が自然な心の拠りどころであるはずなのに、口に出すことさえ憚られる。それが人々を、かえって孤独にしているんじゃないかと思うことがある」
レインは少しだけ首をかしげ、ゆっくりと言葉を返す。
「でも、街には教会があります。信じたい人は自然とそこに集まり、祈りを捧げています。私もそうでした。ハルシュ様に拾われ、教会で育てられましたが、何かを強いられた記憶はありません。ペンダントを頂いたことはあっても、教義を押しつけられたことは一度も……。気づけば自然と、一緒に祈っていた。ただ、それだけなんです。……そういうあり方が、いちばん健やかなんじゃないでしょうか」
シリウスは目を細め、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「なるほどな……君はまだ十五歳のはずだろう? 感情を隠すのは下手でも、十五歳には見合わないしっかりとした考えを持っているようだな。昔、ハルシュとも似たような話をしたことがあるよ。まるで君のように、信仰の“自然さ”について語っていた。懐かしい話だ……」
そしてふと、遠くを見るような目をした。
「本当は、こういう話を兄上とも、もっと交わせたらいいのだが……どうにも隙間風が吹くばかりでな。兄弟なのに、深く話すことさえ難しい。……情けない話だ」
その表情には、かすかな寂しさが滲んでいた。
レインは、シリウスに対する警戒を少し緩めていた。
彼は──どうしても、悪人には見えなかった。
もしこれがすべて、レインを懐柔するための演技だとしたら、なかなかの策士ということになる。だが、今の言葉とその表情には、作りものには見えない誠実さがあった。
またしばらく、沈黙の時間が続いた。
二人は黙々と本を探し続けたが、目当ての書物はなかなか見つからなかった。
そうしているうちに、やがて東壁へとたどり着く。
レインにとって、東壁は初めての場所だ。
その一帯には、まるで森のような雰囲気が漂っていた。
棚に沿って蔦の装飾が這い、白い花が点々とあしらわれている。書棚どうしの間の壁面には、緑の木々や、せせらぎを思わせる川、そして湖沼の風景が美しく描かれていた。
──その壁画の中に、青い花があった。
(……あれ、この花……どこかで見たような……)
レインは記憶をたぐり、先日の河川敷での光景を思い出す。
シトラスが見せてくれた、あの花だ。たしか「水月華」と呼んでいた。本来、東の森の一部にだけ群生するという、青い花。
(この装飾……東の森を模している?)
考え込みながら、何とはなしに、視線を上げる。
──その瞬間、壁面の高い位置に描かれた、ひときわ大きな青い龍が目に入った。
(あの青い龍は……水龍……?)
「……水龍?」
思考のままに、口をついて言葉が漏れる。
すると隣で、シリウスがふと微笑を浮かべた。
「あれはね、魔法師カルナ・ストラートの魔法によって作り出された“青龍”だよ。東壁の守護としての役目を持ち、侵入者を感知すれば、壁から飛び出して襲いかかる。水龍とは、別の存在だ」
レインはまだ腑に落ちないものを感じていた。
「青龍……ですか。しかし、壁に描かれた情景は東の森を思わせますし、そこに棲んでいた龍といえば、水龍では……。何が違うんですか?」
シリウスは感心した様子で目を細めた。
「君はもしかして、『王国創始記』を読んだのか?」
「はい。あ、いえ……“原典”の方は、ほんの少し見ただけですが。“リバイバル”の方はちゃんと読みました」
「なるほど。私は“原典”しか見ていないが、それには確かに、東の森の湖から、水龍神が現れた記録が残っている。君がそれを知っていたなら、この壁画の龍を水龍だと思うのは無理もない。実は私も、かつてそう思っていてね。マシューに尋ねたことがあるんだ」
一呼吸おいて、シリウスは静かに続けた。
「でも、彼ははっきりと言ったよ。『これは水龍ではなく、青龍だ』と。水龍は、水を操る存在だが──青龍というのは、遠い異国の伝承に登場する、“木”を司る龍だそうだ。カルナはその伝承をもとに、文書館の魔法を構築した……と、マシューはそう説明していた」
聞き終えても、レインはどうにも釈然としなかった。
──異国の伝承? それはいささか唐突ではないか。
その違和感の正体は、言葉にしにくい直感のようなものだった。
けれど、確かな根拠もあった。
シリウスにはまだ伝えていないが……壁には“水月華”が描かれているのだ。
シトラスから聞いた、東の森のごく一部にしか咲かないという、希少な花が。
それが描かれている以上、少なくともこの空間が東の森を模していることは確かなはずだ。
にもかかわらず、 “異国”の伝承が関わるというのは、どうにも噛み合わない。
レインがその疑念を口にしようとしたその時、先にシリウスが口を開いた。
「納得がいかない、か。まあ、そうだろうな。私も最初は、マシューの話だけでは首を傾げたよ」
声色に、わずかな悪戯めいた響きが混じった。
「──だが、この青龍の魔法の性質を見れば、納得できるかもしれないな。さて、今の君は、私の防御魔法で守られている。つまり、君が“敵ではない”ことを、あの龍に伝えている状態だ」
シリウスの目が、かすかに笑ったように見えた。
「……試しに、その魔法を解いてみたらどうなると思う? きっとあの龍は、君を侵入者とみなして、迷わず襲いかかってくるだろうね」
「えっ……?」
レインが制止しようとした時には、すでにシリウスの手が軽く動いていた。
「まあ、実物を見るのが一番だろう」
その言葉と同時に、シリウスはレインにかけていた防御魔法を、ためらいなく解いた。
次の瞬間──
壁面に描かれていた青龍の紋様が、淡く輝きを帯び始めた。
輪郭が滲むように光を放ち、やがてそこから抜け出すようにして、青い龍はゆっくりとその姿を現した。そして、龍は、音もなく宙に浮かび上がった。
声も出せぬままそれを見上げていたレインは、足元の異変にようやく気づいた。
足首に、冷たい感触がまとわりつくのを感じたのだ。
視線を落とすと、足元の書棚の隙間から、床の石畳の裂け目から、無数の蔓と根が生き物のように這い出していた。
それらは、レインの足元に絡みつき、じわりと締めつけていく。
静寂の中、ただその場に、圧倒的な“何か”が目覚めようとしていた。
シリウスは、穏やかな顔のまま、目の前の光景を楽しむように見つめていた。




