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第二十二話 マシュー館長からの課題

 文書館員が一人もいない──その衝撃の事実に、レインは言葉を失っていた。

 かつて働いていた人々は、なぜ皆ここを去ったのか。

 マシューに尋ねても「一身上の都合」とだけ返されてしまい、それ以上は深く踏み込めなかった。

 レインは、改めて問い直す勇気も出ないまま、ただ考えを巡らせて沈黙した。


 マシューはその様子を特に気に留めるふうもなく、淡々と口を開いた。


「まあ、去っていった者たちのことを気にしても仕方あるまい。君には君の務めがある。まずは“清掃員”として、しっかり励んでもらおう。……しばらくは南の壁の掃除だけで十分だ。よろしく頼む」


 (……なんで南の壁だけ?)

 疑問が頭に浮かび、そのまま口に出す。


「なぜ、南壁だけなのですか?」


 マシューは少しだけ眉を上げ、まるで当然のことを言うかのように応じた。


「なぜ、とは……。君は、まだ魔法をきちんと扱えないだろう? 一人で中央通路にでも入り込めば、幻覚魔法に呑まれて、戻って来られなくなる恐れがある」


 マシューの声には脅すような響きはなかった。ただ事実を述べているに過ぎない、という静けさが、かえって重く感じられた。


「魔法の扱いに慣れるまでは、この出入り口の近辺だけを掃除していればよい。念のために言っておくが、東西の壁にも近づかないように。あちらにも、別種の魔法がかけられていて、今の君には危ないから」


 そう聞いて、レインははっとした。

 幻覚魔法を解く魔法──それを早く学ばないといけない。

 明日、グレナ先生に聞かなければならないことがレインの頭に1つ追加された。


 そんなレインの思考をよそに、マシューは言葉を続けた。

 その口調は変わらず穏やかだが、話題はすっと別の方向へと移っていく。


「掃除は、まあほどほどで構わない。だが、史官試験の勉強は怠らないように。……試験の情報は、ちゃんと把握しているかい?」


 レインは小さくうなずいた。

 王宮に来る前に、試験については一通り調べてあった。

 今年の試験日は、ちょうど今日から三十日後。試験の詳細な内容や募集要項は、明後日発行の〈アステニア王国新聞〉で正式発表されることになっている。


 試験日程を初めて知ったときは、思っていた以上に試験が目前に迫っていることに、少なからず驚かされた。準備期間が本当に足りるのか、自分にやりきれるのか──そんな不安が、胸の内をかすめた。

 というのも、陛下から聞いていた通り、史官試験は合格率が極めて低い。さらに街で得た話では、王宮内の職の中でも「最も狭き門」として知られる難関だという。実際、書店で手に入れた過去問題集をめくってみると、ただ知識を問うだけではなく、読解力や応用力まで試されるような問題がずらりと並んでいた。


 それでも、救いがなかったわけではない。

 試験の出題形式や傾向は例年ほとんど変わらず、全体の構成も明快だったのだ。

 試験は大問四つで構成されており、出題範囲は「現代文字」「古代文字」「王国の掟」「直近二百年の歴史」の四分野に定まっている。

 このうち、「現代文字」と「歴史」は、本好きのレインにとって比較的得意な分野で、おおよその問題には対応できそうだった。

 一方で、「古代文字」と「王国の掟」に関しては、まだ十分に理解が及んでおらず、今後重点的に取り組む必要があると感じていた。

 王宮文書館の蔵書を活用できれば、より効率的に学べるだろう──そう考えながら、レインは心の中で、静かに勉強の計画を立て始めていた。


 そして、レインは少しためらいながらも、思い切って問いかけた。


「今年の試験日や、過去の問題については一通り確認しました。これから本格的に準備を進めようと思っています。……ところで、そのついでにお聞きしたいのですが、王国の掟や古代文字の勉強に最適な本は、この文書館のどこにありますか?」


 マシューは穏やかな笑みを浮かべて答えた。


「文書館に入れるのは、王宮の関係者だけだろう? その中の資料を、試験勉強のために個人的に使おうとするのは……ちょっと公平じゃないかもしれないね。古代文字や王国の掟に関する書物なら、街中の書店にもいろいろ揃っているはずだ。君も、まずはそちらを使って勉強するといい」


 そう言ってから、少し声を落とす。


「それに、史官試験の問題を作っている私が、特定の受験者にだけ特別な情報を教えるわけにはいかない。……公平さは、こういう立場の人間にとっては何より大事だからね」


 レインは少し肩を落としたが、マシューの言葉には確かに筋が通っていた。

 不公平な手段で試験に合格しても、心から喜べるはずがない。そんな形で結果を手に入れたくはない──レインはそう自分に言い聞かせた。


 その時、マシューがふと思い出したように、軽く手を打った。


「そういえば──せっかくここで働くのに、掃除だけを任せるのも少々もったいない気がしてきた。南壁の掃除だって、しばらくやれば飽きるだろうし……君にもう一つ、大事な課題を出すとしよう」


 そう言って、マシューはにやりと笑った。


「『王国創始記リバイバル』の全五巻を読んで、読書感想文を提出しなさい」


「え……?」


 唐突な課題に、レインは思わず声を漏らした。

 読書そのものは好きだし、本を読むだけならむしろ歓迎だ。だが、「読書感想文を提出する」というのは、少々話が違う。

 何を書けばいいのかよく分からないし、何より気になるのは時間の問題だった。

 『王国創始記リバイバル』に書かれているのは千年前の建国史であり、史官試験で出題される近現代史とは直接の関係がない。

 今は試験勉強を優先したいのに──。


 先ほどまで「掃除はほどほどで良いから、試験の準備を」と言っていたはずなのに、今度は読書感想文?

 (……もしかして、この上司(マシューさん)、けっこう曲者(くせもの)かもしれない)


「その……読書感想文って、具体的には何を書けばいいんでしょうか?」


「君が以前、清掃員のマルコに話していたような率直な感想で構わないよ。気づいたことや違和感があれば、それをそのまま書けばいい。肩肘を張る必要はない」


「し…しかし、マシューさんは、その……王国創始記リバイバルの著者ですし……」


「だから何だというんだ。遠慮はいらないよ。マルコに話していたみたいに、“ここが分かりづらい”とか“ここの展開は違和感がある”とか、好きに書けばいい」


「それって……読書感想文になるんでしょうか」


「君が“これは読書の感想だ”と主張すれば、それは立派な読書感想文だよ。定義なんて案外いい加減なものだ」


 マシューは相変わらず口元ににやりと笑みを浮かべていた。

 (これは面倒なことになったな……)

 レインは内心でため息をついた。


「どれくらいの分量で、いつまでに提出すればいいんですか?」


「分量は任せるけど、五巻すべてに触れてほしいね。提出期限は──そうだな、明後日までに頼むよ」


「……明後日、ですか」


 レインは内心で天を仰いだ。

 やはり、とんでもない上司だ──そう思わずにはいられなかった。


◆◆◆


 その後、マシューは「私はこれから陛下のもとへ行かねばならない。夕食までに、掃除を頼むよ」と言い残し、文書館をあとにした。

 広い館内に残されたのは、レインひとりだけだった。


(感想文は……今夜から手をつければいいか)

 そう心の中でつぶやきながら、レインはため息をひとつこぼす。

 それからは、余計なことを考えず、黙々と掃除を続けた。

 静まり返った館内には、ほうきの音だけが規則的に響いていた。


 やがて、文書館の時計が夕食の時刻を告げる。

 レインは道具を片づけると、重い足取りで食堂へと向かった。


 到着すると、シトラス、ランドリー、サラの三人はすでに席に着いて、食事を始めていた。

 レインの顔を見るなり、シトラスが心配そうに声をかけてくる。


「レイン、大丈夫? なんだか、すごく疲れているみたいだけど」


 どうやら、表情に出てしまっていたようだ。

 マシューから告げられた突拍子もない課題のことが頭から離れなかったし、加えて、文書館から食堂までの長い道のりが、思いのほか体に(こた)えていた。


 サラも隣から身を乗り出し、同じように気遣ってくれた。


「やっぱり……マシューさん、ちょっと大変な人だったんじゃない? 午後の研修のとき、他の騎士団員から聞いたんだけど、あの人ってかなり厳しいって噂されているみたい」


(やはり、そんな評判が……)


 レインは内心でうなずいた。


 するとシトラスが少し首をかしげながら尋ねてくる。


「えっ、そうなの? 医局ではそんな話、全然聞かなかったけど……。マシューさんって、そんなに厳しいの?」


 レインがどう答えようかと言葉を探していると、代わりにサラが口を開いた。


「今、文書館員は一人もいないんだって。試験に合格して配属されても、大半は一ヶ月もたずに辞めちゃうらしい。しかも、なぜ辞めたのかはっきりした理由が分からないんだって。“マシューさんが厳しすぎるから”って噂されてるけど、一ヶ月以上続いた人の中にも、ある日突然、姿を消した人が何人かいるみたい……」


 その最後の言葉に、レインは思わず息を呑んだ。

 (突然……姿を消す?)

 胸の奥に、不審感がじわじわと広がっていく。


 そこでランドリーが隣からそっとレインの肩を叩いた。


「そんなに深刻な顔をするなよ、レイン。大変なこともあるかもしれないけど、俺たちはずっと味方だ。何かあったら、遠慮せずに相談しろよ」


 その言葉に、サラもシトラスも黙って頷いた。

 そのさりげない優しさに、レインの心はふっと和らぐ。


「ありがとう。今のところ、掃除と読書感想文を課されただけだから、大丈夫」


 そう笑顔を返してから、ふと思い立って話題を変えた。


「ところで、騎士団の研修とか医局の研修って、どんな感じだった?」


 三人は表情を和らげ、それぞれの午後の出来事を楽しそうに語り始めた。

 レインはその声に耳を傾けながら、心に溜まっていた重さが少しずつほどけていくのを感じていた。


 がんばれレイン!

 次回、「それぞれの研修内容」


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