第十五話 王宮訪問(8)見学終了のお知らせ
“空白の巻”の白紙の頁を見つめていたレインは、ゆっくりと口を開いた。
「他の巻を確認させてもらってもよろしいでしょうか?」
その問いかけに、ニーアスは柔らかな笑みを浮かべて応じた。
「もちろんです。どうぞご自由に手に取ってみてください」
レインは、一度、第四十一巻を静かに書棚に戻すと、その隣に並んでいた第四十巻を取り出した。
頁を捲ると、そこには文章がぎっしりと書き込まれていて、どこにも空白の頁はなかった。
レイン以外の三人も思い思いに本を取り出した。
背の高いサラはひょいと手を伸ばして、第一巻を抜き取る。
ランドリーは目の前にあった第二十巻を、何気ない仕草で手に取った。
シトラスはしゃがみ込むと、最下段の第五十四巻を、丁寧に棚から引き抜いた。
各自が手に取った巻を静かに捲り、その頁にびっしりと文章が綴られているのを確かめた。
そして、レインにも「ちゃんと文字、あるよ」と声をかけながら、開いた頁を見せてくれた。
やはり、第四十一巻だけが特別なのだ。
あの巻だけが、ただひとつの"空白の巻"であることが、改めて明らかになった。
第一巻を捲っていたサラが、ふと顔を上げて言った。
「私、そんなに文字は読めないから、詳しい内容まではよく分からないけど……どうやらこの巻には英雄アルベルト・アステニアの幼少期が描かれているみたい」
その言葉は、レインには少し意外だった。
『王国創始記リバイバル』では、第一巻はアルベルトが北の大陸に到達する場面から始まっていたからだ。
(五十四巻分もある原典を、たった五巻に再編するとなれば……幼少期のくだりは、やむを得ず省かれたのかもしれない)
レインは、『王国創始記リバイバル』を書いたマシューの編集意図に思いを巡らせた。
さらに、レインはもう一つ気づいた。
(原典にアルベルトの幼少期が記されているということは……クシュナー氏は、その頃からすでに彼の傍にいたということなのだろうか)
思考を巡らせたのち、レインはサラにそっと尋ねた。
「その第一巻に、クシュナーの名前は出てくる?」
サラは問いかけに応じて、頁を捲りながら目を走らせていく。
「うーん……ざっと見た限りでは、クシュナーって人は出てこないかな。でも、アルベルトの幼馴染として、サントスとカルナって名前が出てくるよ」
その言葉を聞いた瞬間、レインの目が見開かれる。
(剣聖サントスと魔法師カルナが……アルベルトの幼馴染?)
思いがけない事実に、心が大きく揺さぶられた。
胸の内に高鳴る興奮を抱きながら、レインは改めて思った。
(『王国創始記リバイバル』に記されているのは、原典の広大な内容のほんの一部に過ぎない。原典には、自分の知らない歴史がまだいくつも眠っているんだ……)
そんなとき、今度はランドリーが声をかけてきた。
「俺もたいして文字は読めないけど、どうやらクシュナーは出てこないみたいだな。俺が手にしている巻には、水龍神ガザスと、剣聖サントスの決闘が描かれてるっぽい。……俺もちゃんと文字の勉強始めようかな。もっと詳しく知りたくなってきたよ!」
そこで、にっこりと笑みを浮かべたシトラスが割り込んできた。
「ランドリー、それはすごくいい考えだと思うよ! 文字が読めると世界がどんどん広がるし。それでね、私のほうも確認してみたけど……クシュナーは出てこなかったよ。私が見てるのは最終巻なんだけど、そこにはアルベルトが初代国王に即位して、建国宣言をする、最高にかっこいいシーンが書かれてたの!」
草花の話以外で、これほど興奮しているシトラスを見るのは、レインにとって初めてだった。
さすがに彼女も、王国の始まりの場面を目の当たりにしては、知的好奇心を抑えきれなかったのだろう。
レインが見ていた第四十巻にも、クシュナーの名は一切登場していなかった。
さらに、この巻の内容は、レインにとって非常に興味深いものだった。
──巨大神殿〈ラスタンディア〉の出現。
それが第四十巻全体の主題だったのだ。
何時間でも読み耽ってしまいそうな勢いだったが、ひとまずレインは全体をざっと捲り、最後の場面に目を留めた。
そこでは、アルベルトが探索隊を組織し、神殿への潜入を開始しようとしていた。
(──ということは、次の第四十一巻は、神殿内部での冒険が本来なら描かれているはず……?)
あの空白の巻が意味するものは何か。
レインは思考を巡らせたが、明確な答えは浮かばなかった。
(クシュナーが探索に同行していなくて、何も書けなかったとか?)
一瞬、そんな考えも頭によぎった。
念の為、レインは第四十二巻──"空白の巻”の次の巻──を手に取ってみた。
ところがその巻の冒頭には、まるで巨大神殿〈ラスタンディア〉など最初から存在しなかったかのように、穏やかな日常が描かれていた。
アルベルトは王都の発展に尽力しており、神殿にまつわる描写は一切ない。
(……おかしい。話が不自然に飛んでいる。少なくとも、神殿の消失や、探索からの帰還といった場面があって然るべきなのに……)
レインは眉をひそめ、黙って考え込んだ。
その様子に気づいたニーアスが、静かに声をかけてきた。
「何か分かりましたか? レインさん」
巨大神殿についての考察は、まだ頭の中で整理しきれていない。
レインは、ひとまず別の確信を口にした。
「少なくとも、今の時点ではっきりしたことがあります。クシュナー氏は、自分自身のことを一切、記録に残さなかった。……ニーアスさんが先ほどおっしゃっていたこと、きっとその通りなんだと思います」
そう言いながら、レインは、ニーアスの言葉を思い返していた。
──歴史を記す者というのは、得てして表に出ることを良しとしません。たとえ自らの存在が記録に残らず、やがて忘れられていくとしても、それを当然のこととして受け入れ、淡々と歴史を綴っていく──そういう在り方なのです。
ああ、やっぱり……かっこいいな。
歴史を記す者として生きること。
文書館員として、そんな生き方をしてみたい。
思いが胸に満ちていくのを感じながら、レインはニーアスの方を向き、静かに言葉を告げた。
「僕、史官試験を受けてみようと思います。文書館員という存在が、僕にはとても尊く思えるんです。自分もその立場になって、歴史を記していきたい」
ニーアスは目を細め、あたたかく微笑んだ。
「素晴らしい目標ですね。史官試験を受けるのであれば、心から応援しますよ。……それで、文書館長のマシュー氏に直談判するという強硬手段は、もう採らないということで?」
レインは、ほんの少しだけ頬を引きつらせた。
(……いや、その無茶なルートを言い出したのはニーアスさんで、僕は最初からそんなこと考えていませんよ)
心の中でそっと突っ込みを入れた。
だがその瞬間、ふと妙案がひらめいた。
「えっと……まず、館長に直談判する考えなんて、最初からないですよ。そんな大胆なこと、僕にはできません」
そう前置きしたうえで、レインは清掃員マルコの方へ視線を向けた。
「むしろ、マルコさんにお願いがあるんです。史官試験を受けるまでの間、清掃員見習いとしてここで働かせてもらえませんか?」
唐突な申し出に、マルコはぽかんと目を丸くした。
隣のニーアスは思わず吹き出しそうになっている。
やがて、マルコはゆっくりと口を開いた。
「……清掃員見習い、ですか。なるほど、私に部下ができるのは面白いですね。まあ、清掃業務に“見習い”なんてあるのか分かりませんが……。ただ、それも結局、雇うのは館長なので、どのみち“直談判ルート”には変わりませんよ?」
至極まっとうな指摘に、レインは顔を赤らめた。
そんな彼の様子をじっと見つめていたマルコは、やわらかく微笑み、さらに言葉を続けた。
「でも、さっき『王国創始記リバイバル』について興味深い感想を聞かせてくれましたし、何より、こうして縁があったのですから……。よければ、私から館長に、あなたを“清掃員候補”として推薦しておきますよ」
マルコの言葉に、レインの表情がぱっと明るくなる。
推薦がどれだけ効力を持つかは分からない。
けれど、自分を後押ししてくれる人がいる──その事実が、何より心強かった。
「ありがとうございます! ぜひよろしくお願いします!」
レインは元気よく頭を下げた。
マルコも、ニーアスも、にこやかに頷いてくれる。
ランドリー、サラ、そしてシトラスも、それぞれの笑顔を向けてきた。
その温かさに包まれて、レインも自然と笑みを浮かべた。
しばらくして、ニーアスが声をかけた。
「それでは、そろそろ大広間に戻りましょうか。おそらく、準備も概ね整っているはずですから」
(準備……? 何の準備だろう? 国王陛下との謁見のことだろうか?)
レインはそう思いながら、胸の奥にじわじわと緊張がこみ上げてくるのを感じた。
そのとき、マルコがぽつりと言った。
「地下にずっといると、夕食の時間を逃しがちでね。だから、私もそろそろ戻りたいのですが……一緒に行ってもいいでしょうか?」
ニーアスは笑顔で答えた。
「もちろんです」
こうして一行は揃って文書館の出口へと向かった。
文書館を出るまで、そしてその後の階段の登り。
その道のりも相当長いのだが、さすがにその詳細は割愛しておこう。
やがて、大広間の近くまでたどり着いたところで、レインたちは、廊下の脇にひっそりと設けられた、落ち着いた雰囲気の小部屋へと案内された。
「こちらは客間です。少しだけこちらでお待ちいただけますか? 大広間の様子を確認してまいります。一日中歩き回ってお疲れでしょうから、ソファでゆっくりお休みください」
ニーアスはそう言って、丁重に頭を下げた。
マルコもその流れに倣い、にこやかに一礼する。
そして二人は静かに部屋を後にした。
◆◆◆
客間にレインたち四人を残して、大広間には──
案内人ニーアス、身体検査官グレナ、騎士団員アレク、医局長レイチェル、そして文書館清掃員マルコ。関係者五人が一堂に顔をそろえた。
ニーアスは静かに、大広間の奥──上座へと歩を進めていく。
彼の後ろ姿を見やりながら、グレナが呆れを滲ませた声を投げかけた。
「まったく……これはなんの茶番じゃ、案内人ニーアス・カーテル殿。
いや──カール・アステニア国王陛下」
彼はその言葉に静かに口元を緩めた。
歩を止めることなく、丸眼鏡を外し、鼻の下につけていた黒髭をそっと外す。
そして、黄金に輝く椅子──玉座へと、静かに腰を下ろした。
いよいよ、第一章もクライマックスが近づいてきています。
さて、ニーアスの正体が明かされましたが、皆さんは最初から正体を見抜いていましたか?
(挙動の不自然さがちょっとだけありつつ、最大のヒントは名前でした)




