第一話 歴史書との出会い
物語の舞台は、北の大陸南部に広がる、アステニア王国。
十五歳の少年レイン・オリバーは、その王都の外れにある小さな教会で、三人の幼馴染と神父ハルシュ・ワーグナーとともに、穏やかな日々を送っていた。
だがその春──
ひとつの出会いが、少年の世界を静かに揺り動かし始める。
春の陽光が穏やかに降りそそぐ昼下がり。
レインは、教会の食料を買い出す当番として、王都中心部の市場を訪れていた。
そこには、教会の静けさとは対照的な喧騒が広がっていた。
色とりどりの屋台が軒を連ね、通りは人で溢れている。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが、風に乗って、レインの鼻をくすぐる。
そして、あちこちから明るい売り声や笑い声が聞こえてきた。
──なんだか、いつもよりずっと賑やかだな。
穏やかな陽気のせいだろうか? それとも何か特別なことでも?
そう思いながら歩いていたレインは、八百屋の前で見覚えのある顔を見つけた。
自分のことを可愛がってくれている、おしゃべり好きのおばさんだ。
布袋を肩に提げて、野菜を選んでいる。
レインは軽く手を上げて声をかけた。
「こんにちは。今日の市場、なんだかいつもより賑やかだね。何かあったのかな?」
おばさんは振り返ると、にこやかな笑みを浮かべた。
「やあ、レイン君。元気そうだねぇ。私も詳しくは知らないけどね、なんでも『王国創始記リバイバル』っていう本が出たらしくて、今あちこちで話題になってるのよ。中央通りの書店にたくさん並んだって聞いたから、一度見に行ってみたらどうかしら?」
「……王国創始記リバイバル?」
レインは思わずその言葉を繰り返した。
聞いたことのない書名だったが、なぜだか胸の奥がふっとざわめいた。
本を愛するレインにとって、それは聞き流せない響きを持っていた。
あれこれ思案する間もなく、身体が反応していた。
「ありがとう! おばさん!」
「おばさんじゃないってば、もう……まったく」
おばさんの小言が耳に届くより先に、レインは書店に向かって駆け出していた。
中央通りの書店にたどり着いたレインは、まず入口正面の本棚に目を向けた。
だが、話題の本が並べられていたはずのその棚は、すっかり空になっていた。
気を取り直し、レインは店内の奥へと足を進める。
やがて、隅の棚に置かれた一組の書籍が目に留まる。
『王国創始記リバイバル』──全五巻。その最後の一組だった。
息を弾ませながら本に手を伸ばすレインのもとへ、若い男の店主が笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。この店主も、顔なじみのひとりだ。
「やあ、レイン君、ようやく来たかい。いつ来るかなって思っていたよ。まだぎりぎり売れ残っていてよかった。たくさん仕入れたんだけど、あっという間に売れちゃってね。そこにある五冊が、ちょうど最後だよ」
それから店主は、その本がどのようなものか、なぜ評判になっているのか、そのいきさつを親切に語ってくれた。
店主の話によると、その本は、アステニア王国の創始期──すなわち、およそ千年前、初代国王アルベルト・アステニアが王国建国へと歩んだ過程を、詳細に記した歴史書なのだという。王宮の文書館長であるマシュー・コーネル氏が編纂し、つい先ごろ世に出たばかりらしい。
原典は『王国創始記』という、実に全五十四巻にも及ぶ大著で、そのすべてが王宮内の文書館に厳重に保管されているそうだ。
市井の人々は王宮に立ち入ることは許されておらず、当然ながら文書館の書物に触れる機会など持てなかった。ゆえに、これまで建国の歴史といえば、吟遊詩人の語りや、町や村の長老たちが伝えてきた言い伝えが頼りだった。
そんな中、『王国創始記リバイバル』が刊行されたことで、王国の始まりが初めて広く人々に知られるようになった。それが瞬く間に話題を呼び、こうして店にも多くの客が押し寄せることになったのだと、店主は熱っぽく語った。
レインは話を聞くうちに、その本を買う気持ちにすっかり傾いていたが、ふと疑問を口にした。
「王宮の文書館長さんは、どうして今になって、文書館秘蔵の歴史書の内容を大衆に広めることにしたんだろう?」
店主はあっさりその疑問に答える。
「もうすぐ建国千年という節目を迎えることが関係しているみたいだよ。文書館長さんは、その節目の前に、王国の成り立ちを人々に知ってもらおうとして、この本を世に出したらしいんだ」
「へぇ、店主さんは本当に物知りだね」
感心しながらも、レインは少しだけ首をひねった。
(どうしてここまで詳しいんだろう?)
その疑問を察したかのように、店主は照れくさそうに笑って、頭をかいた。
「いやいや、今話したことは、第一巻の冒頭──前書きに全部書いてあるよ」
その一言に、レインはようやく腑に落ちた。
くすりと笑い、店主に笑顔を向ける。
「わかった、ありがとう! すごく面白そうだから、五巻全部買うよ!」
「はい、毎度あり!」
こうしてレインは、少ない小遣いをすべて使い切って、『王国創始記リバイバル』を手に入れた。
それが、後に彼の運命を大きく動かすことになるとも知らずに。
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