春の満ち潮
太陽の手まり唄が聞こえる。それはあからさまな音符の形に即したものではなく、ぼくの胸のうちを吹き抜けていく、見えない風の響き。
人間の物差しでいうところの、東と西を跳ねていく巨きな光の球。その動きのあいだに、はかなくいのちは移ろいゆくばかりだった。
ぼくはついぞ、この狭い、限られた場所にばかり生きていくものだと思っていた。かなたに広がる遠い海へは、たどり着けるはずもなく、まして、夢へと船出することもないだろうと、諦めきって生きていた。もし、あの海へさえたどり着ければ。そう思うたび、眼前の木が、ぼくの人生に影を落とすのだった。
古い洋館の入口にある背の高い木は、一体いつからそこに根差しているのかわからない。
すぐ前の館で行われた代変わりは、二度。過去の人になった誰かのことも、この木の歴史のうちにあって然るべきであった。
無論、先だって亡くなった、当主夫人についても違いあるまい。
地上を睥睨せんと背を伸ばした木の、根元のあたりに、ぼくは立っていた。
表玄関から正門を抜ける車どもからは死角になるこの場所は、ぼくたち二人には、おあつらえむきだった。
「律さん。わたしのこと、招いてくださって、ありがとう」
長い髪をすっきりと清潔にまとめた春日時子は、目を伏せながら、静かに口を開いた。
「わたしたちの仲良しグループで一人だけ……他の皆も、おばさまには本当によくしていただいたのに」
「時子さんは、特に母のお気に入りだったから。父もぜひにと」
春の斜面に群生する小さな花に降り注ぐ、陽光。蝶はそこで、かれらなりの流儀で飛び回っている。
「体の丈夫ではない人だったから。それでもぼくら二人も儲けて、長く生きたものだ、と皆言っているよ」
暖かな気候の中に、思い出したようにたちあらわれる寒気。物陰の草は暗く沈んで、そこだけ冬になる。
「ついこの間まで身近にいたのに、もう忌明けだ。悲しいこととはいえ、時間が経つのを待っているしかない」
門からは、忌明けの儀式の後、洋館まで挨拶に来た人々の車が、少しずつ出て行き始めた。いずれも似たり寄ったりの黒塗りで、いつだって磨き抜かれたつやが眩しい。晴れた空から雫が落ちるわけでもなく、よしんば、そうであっても、生身の人の痕跡など、世間体と財力が拭い去ってくれるものなのだから。
「時子さんは、身内あつかいさ。だから、グループのなかからひとりだけ……」
時子の背後に広がる春の景色は一旦霞んで、ただに間近の生身の美しさばかりが、ぼくの前に鮮やかだった。通り過ぎていく車が起こした風がその人の髪を揺らせば、陽の中へ浮かび上がり、踊り、また元の通りに落ち着く。
時子の手をとる。みずみずしい生命の柔らかさが、ぼくの掌に弾む。
喪の装いが、心の中に影をさしたが、広い芝生のしろつめ草が落とすそれと、何の変わりがあろう。握った手のうちに、お互いの体温が溶け合うと、次の季節の陽気を思わせた。
「うん、石倉家の皆も、あなたのことを、家族と思っていたに違いないよ」
首をわずかにうなずくむきに動かして、時子は黙り込む。
「ぼくはしがないヴァイオリン弾き。それも、年に数回、楽団のメンバーに加わるかどうかだ。兄のように、石倉汽船を背負うような立場でもない」
「ビジネスもおやりになったら、おできになるでしょうに」
「海は好きさ。でも、ぼくにはそこに居場所はなかった」
眼下に広がる草の斜面。そのかなた、低くなったあたりに港町がある。出船、入船。そこをおさえた石倉の家は、巨万の富をもって、この高台に邸宅を築いた。そこでは絶え間ない争いが繰り広げられており、ぼくもまた、既に敗れた者として例外のない日々を送っていた。
「出世だの、お金儲けだの、そんなものよりずっと大切なものがあると思う……そうしたことを言えば、母に叱られていた」
「わたしは、そんな律さんが、好きなの」
陽はそのひとの頭上にさして光の冠。
「お金儲けばかりの人ではないから」
立ち止まり、時子の瞳をまっすぐにとらえた。
「経済的な力のないぼくが、どうして、あなたに、思い切ったことをいえるだろう……」
つぎの瞬間、時子は、もう、ぼくの胸に飛び込んでいた。
「ぼくは権力闘争なんか嫌だったから、音楽に逃げた。全部兄が受け継ぐことになった。結果は、不戦敗さ。母はそうしたぼくに、落伍者だ、花嫁を迎える資格なんかない、と言った」
そのさきには、続きがあった。春日という家からは、兄に花嫁を迎えたほうがいいと……。だから、身を引けとまで、言われていたのだった。
「いいじゃない、負けたって、いいじゃない。誰と戦うの? 誰もいないわ。ヴァイオリン弾き、素敵じゃない。わたしは春日のひとり娘、お金のことなんて考えなくていいと両親は言ったわ。だからわたし、律さんと一緒にいる。だから律さんも、自分が幸せだと思うみちを選べばいいじゃない」
自分の腕に力が入るのがわかった。
兄との実権争いに加わるまでもなく負けた男……ぼくは争いを嫌って、譲ったつもりだったというのに。
ただ、そのことを懦弱と罵った母は、もう、すでに世を去った。
「もし、そんな争いごとに夢中な人だったら、律さんとこうしてはいないわ」
洋館に背を向けながら抱きしめた。重なり合ったふたつの影はひとつに溶けて、斜面の向こうの街の、まだ先にある海の匂いが、ぼくを満たした。
途端、涙は眼前の丘の斜面という斜面を光の波で埋め尽くし、時の谷間にまぼろしの海をつくりだす。渡るはずもないと諦めていたあこがれが、向こうから押し寄せる。
かなたから、船出の汽笛が響いてくる。
「ふたりでずっといられるよう、話をしよう」
しばらくすると体を離し、ぼくたちは並んで歩き始めた。振り返るまい。背後にはあの木が葉をざわめかせて立っている。だが、追ってくることはないのだ。ぼくが自分で近づいていかないかぎり。
元来た道を戻り、煉瓦塀をぬけると、門扉のさきに、人影があった。父が、春日時子のその両親と並んで待ち構えていたのである。
「仲のいいことだ。おまえたちの式はいつにするかな」
「忌明けを待って、お話をしにきたのだよ。律さんと、時子のことをね」
ぼくは時子と顔を見合わせた。
こうして、新たな家族たちは、春の小路を抜けて、邸内へ戻って行った。
この敷地の隅の、古い別棟に這った蔓薔薇は、小さな蕾を、まさに開かんとしていた。