プロローグ
ドラゴン・ライダー。
それはこの世界に生きる人々がある一定の年齢に達すると与えられる一つの称号。
ドラゴンと共に生きる者たち全てに当てはまる呼び名。それがドラゴン・ライダーである。
この世界では人とドラゴンが当たり前のように共生している。
なぜ、この異種族同士が共に同じ地にいれるのか、その理由はそれぞれの『食事』による。
人は動物、植物を摂取することにより生きていく。
ドラゴンは自然界にある『マナ』を取り込んで生きていく。
この違いにより、彼らは捕食するもの・捕食されるものにならずにすんでいるので共に生きられるのだ。
『マナ』というのは、この世界のありとあらゆる場所に存在している不可視のエネルギーとでも言えばいいのだろうか。
空気中にはもちろんのこと、水の中、火の中、土の一粒でさえマナというものは存在する。その量や濃度は違えど、必ず存在するもの……それが『マナ』である。
必ず存在すると言っても、それを人が認識することはできない。先ほども言ったように、『マナ』は不可視――つまり目には見えないのだ。だからと言って風のように感覚的なもので把握できるものでもない。
実際に存在するというのは知られているが、何に利用できるのか、どうすれば利用できるのか全くわからないもの。人は『マナ』というものをそう理解している。
そもそもな話、人が『マナ』という存在に気づいたのはドラゴンの食事がそれであるからだ。
ドラゴンは何を食べて生きているのか?それを突き詰めて調べたところで浮上してきたのが『マナ』である。
この世界に生きるドラゴンは人を含め動物のように何かを食べている様子がみられない。でも、確かに彼らは生きているわけで……それでは彼らのエネルギー源は一体どこからやってきているのだろうか?その疑問がことの初めであった。
そうして判明した『マナ』であるが、その『マナ』をドラゴンたちはどうやって取り込んでいるのか……。これについてはまだ明確な答えは出ていない。
とにかく、ドラゴンの体には『マナ』を吸収するための機能が備わっているとしか言いようがないのだ。人が息をする際に空気中の酸素を取り込んでいるのと一緒である。
そういうわけで共に生きている人とドラゴンではあるが、ドラゴンという種族自体はこの世界では存在しないに等しい。
では、彼らはどこからやって来るのかというと、「この世界ではない別のどこか」である。
人はそこをドラゴン・ガーデンと呼んでいる。
そして、そのドラゴン・ガーデンとこの世界に一時的に通り道を作り、こちらへとドラゴンを喚んでいるのが人である。
この世界では年に一度、春に『方結いの儀』というものが行われる。
パートナーつまりは相方と自分との間に絆を結ぶための儀式という意味で方結いの儀と呼ばれている。
その年に十三歳になる者からが対象で、十三歳以下はその儀を受けることができないという儀式である。十三歳以上であればいくつでも構わない。
ちなみに、十三歳というのはこの世界でいう成人として扱われる年齢である。
さて、この方結いの儀であるが、この儀式ではその人のパートナー・ドラゴンが決まるとても重要な儀式である。
人は一体だけ、ドラゴンとの間にパートナー関係を結ぶことができる。儀式によってパートナー関係を結んだ人とドラゴンは、どちらか一方が死ぬまでの間はその関係が切れることはない。基本、ドラゴンは長寿なので人がその一生を終える方が早い。
ゆえに、この方結いの儀というのは一生に一度だけの儀式とも言われている。
無論、人よりドラゴンの方が先に死ぬ場合もあるのだが、その後新たに方結いの儀を行うか、そのドラゴンのことだけを思い新たにパートナー・ドラゴンを作らずに生きるかはその人次第である。
このような儀式が行われているため、この世界では一人につき一体、ドラゴンがパートナーとしていることが当たり前となり、必然的にその人口に近い数だけのドラゴンがこの世界にはいることになる。
このお話はそんな世界――――レスタニアに生きる一人の少年の物語である。
初めまして。銀山瑞葵と申します。
初投稿になりますので、どうぞよろしくおねがいします。
えぇと、正直に言いますと、唐突な思いつきで勢いのまま書いてしまったようなお話なので見切り発車もいいところです。
まだ漠然とした構想しかなく、手探りの状態ですが、暖かく見守っていただけると幸いです。