【番外編01】 僕とわたし
本編第5章前後の「わたし」のほうの葵視点のお話です。
本編読了後に読んでいただけますとより楽しみが増えると思います。
わたしは、海の中で生まれました。
ご主人様の……いえ、今はもうご主人様ではないのですが、そうとしか知らないのであのお方とさせていただきましょう。とにかく、あのお方の作られた海の中で、生まれたのです。
生まれてしばらくのあいだ、わたしは他のわたしたちと一緒に海のなかで眠っていました。他のわたしたちはひとり、またひとりと海から連れ出されて行きました。どこに行ってしまったかは、よく、知りません。
わたしはわたしたちの中でいちばん小さかったので、さいごになったのだと思います。
ひとりになってしまった海の中は、冷たくて、なんだかいやな……そうですね、その時はいや、と思っていたのですが、今はわかります。わたしは、心細くて、寂しい、と思っていました。
のどの奥が熱くなって、ぐっと息をこらえると、目のはじがじわりと温かくなります。その温かさもすぐに海が奪っていきました。
わたしはながい時間をそうやってひとりで過ごしました。もしかしたら、あの方にも忘れられているのでしょうか。そんなことを考えはじめたある日のことです。とてもきれいな光が、わたしの海の中に飛び込んできました。
光は、翠色をしていました。わたしのいる海の色の蒼とは少し違う、太陽の光をまとった翠い色。その子は、ふわふわとからだを動かしてわたしのまわりを回っています。
なんて温かい、可愛らしい光でしょう。
そう心がふるえたのを、わたしははっきりと覚えています。
この子と一緒にいれば、なんでもできる。そんな気になりました。
すこし開いたまま閉じることも開くこともできないまぶたも、歌もことばも知っているのに動かせないくちびるも、固まったままの指も、飛べない翼も、わたしひとりではどうしようもないすべてをこの子が変えてくれると。光も、同じことを思ったのでしょうか。ふわふわと舞って、わたしのくちびるに触れました。
すると、どうでしょう。まるで魔法にかかったみたいにかたく閉じていたわたしのくちびるが、わたしの思いのままに開きました。わたしのからだに、はじめてわたしの思いが伝わったのです。わたしは、いいよ、とくちびるを動かして、その子をこくりと飲み込みました。
ほんとうのことを言うと、わたしは、知っていました。
わたしたちが、なんのために作られたのかを。先にいなくなってしまったわたしたちが、どうなったのかを。
わたしは、ひとりでそこに行くのが怖かったのです。この冷たい海よりも、心細くてこわい場所です。だから、一緒に行ってくれるひとがいてくれたら、とずっと思っていました。
その子は、わたしのおなかの中で眠ってしまったみたいです。わたしも、眠ることにしました。はじめて、目を閉じて眠りました。
そして、ながい、ながい夢を見ました。
次に目がさめた時には、わたしは知らない場所にいました。
木と白い壁の部屋です。そこは、甘いお香のにおいと血のにおいがしました。そして、目の前には不安そうな顔をした男のひとがわたしをのぞきこんでいました。後ろにも、こまった顔をした女の子がひとり、わたしを見ています。
ふたりは、夢のなかでさいごにわたし……いえ、夢のなかでは「僕」と一緒にいたひとたちでした。夢の中の「僕」は、男のひとのことをさっちゃん、女の子のことをナスカと呼んでいました。ふたりとも、大事な人たちです。
夢は、夢ではなかったのです。わたしの代わりに、わたしのおなかの中で羽化した「僕」の歩んできた道でした。
目の前のひと、新しいご主人様と目が合った瞬間、おなかの中がちりちりと燃えるような感覚がします。この熱は、わたしたちにはない、たましいの炎です。「僕」の心が、ここにいるよと言っているのです。
ご主人様と「僕」は、愛し合っていました。そして夢の中でご主人様といた時は、わたしもとくべつに幸せな気持ちになっていました。
なぜなら、わたしは白き翼の民とつがって子を残すために作られたいのちなのですから。
いえ、それだけではありません。
わたしも夢の中で、美しくて優しい、「僕」にだけはすこしだけ弱さをみせてくださるご主人様の姿に、いとおしさを感じていたのです。
わたしがわたしの目で見たご主人様は、夢の中よりもいっそう素敵に感じました。初霜のようなきらきらした長いまつ毛も、薄くて形のきれいな耳も、しゃべるたびにくちびるからのぞくきばも、自由にみとれることができましたから。
でも、ご主人様はわたしが「僕」ではないということをわかっているのでしょう。肩を落として、悲しそうな顔をしていました。こんなに辛そうなご主人様は、記憶のどこにもいません。
ご主人様は「僕」が失われていないか不安なのです。だから、わたしは「僕」がまだわたしの中にいることを伝えました。
ご主人様もナスカ様も、ほっとしていたようでした。
目の前にいるひとたちの気持ちをみて、ほしい言葉や必要なものごとを与えるのも、わたしのたいせつなお役目です。とくに、ご主人様として定められた目の前のおふたりにならなおさらです。
わたしは、わたしの足でおふたりと一緒に「僕」を連れていくことを心にちかいました。
夜が明けてすぐ、わたしたちをのせてナスカ様の故郷へと向かう船が出ました。小さい、船員さんの他にはわたしたちだけをのせた船です。
ご主人様は船に乗るなり、
「とりあえず、少し各自の部屋で休んで、昼に今後のことについて話をしよう」
と、ご自分の部屋に引きこもってしまわれました。
わたしもおっしゃられたとおりに自分の部屋に入って座ってみたのですが、どうにも落ち着きません。
本来のわたしたちであればご主人様に言われたことには素直に従うことが正しいのですが、どうしても気になってしまうのです。また、ちりちりとおなかが痛みました。
僕の残した記憶がわかっています。ご主人様は、嘘つきなんです。
昨日わたしを起こすために魔力を使って、わたしの部屋も片付けて、ほとんど回復に魔力を使えていなかったのでしょう。顔色も、悪かった気がします。きっと、お部屋で苦しんでいる。
わたしは少しだけ、と思いながらご主人様の部屋をノックしました。反応は返ってきません。おそるおそるドアノブに手をかけてみると、鍵はかけていないようで、すぐに開きました。
「ご主人様……?」
部屋は薄暗くて、すえつけてある寝台の方から呼吸する音が聞こえてきます。本当に寝ているのでしょうか。
起こさないように近寄ると、ご主人様は毛布に包まるように身を丸めました。
「来なくていい……」
そう言って、向こうを向いたまま小さくなっています。その声は、震えていました。急いで近寄って触れると、ひどい熱です。
「……ぅ、内臓やられるとこうなるから、気にしないで……。もうちょっと寝てたら治る……」
ご主人様は、荒い息をつきながらそう言います。わたしは慌ててうつわとタオルをとりに行って、氷水を注いで帰ってきました。
「こんなことしかできないですが……」
額と首筋に冷やしたタオルを当てて拭うと、少しずつご主人様の呼吸が落ち着いてきました。タオルが温くなるはやさが少しゆっくりになったところで、折りたたんで額にのせます。多分すぐ温くなってしまうでしょうから、氷を替えに行こうと立ち上がると、ご主人様は薄く目を開けて、こまった顔をしながらわたしを見ました。
「こんな事って言わないで。充分……」
そこまで言って目をそらします。うそつきのときの目だよ、と記憶の僕が言いました。わたしはそっとしゃがんで、僕がそうしてきたように、うん?と言いながら首をかしげて見せました。ご主人様はゆっくりとまたこちらを見ます。きれいなまゆが、ぎゅっとゆがみました。
「……えっと、」
「今から言うこともする事も、この部屋から出たら忘れてほしいんだけど、できる?」
もちろんです。わたしがうなずくと、ご主人様はからだをこちらに向けて、右手を差し出してきました。
「そばにいて。手、握ってて欲しい……」
その声の色は、記憶の中の声と同じ色をしていました。僕に甘えるときにだけ出す、少しかすれた声です。わたしは、はじめて僕がその手に触れたときのことを思い出しながら、そっとその手を取ります。右手で手のひらを握りながら、反対の手で包み込むように手の甲を撫でると、ぎゅ、と手に力がこもりました。
「はじめてだったんだ」
ご主人様が、わたしの手をひきよせて頬にぎゅっと押し当てながら、絞り出すようにつぶやきました。手の甲に、熱いしずくがじわりとにじみました。
「俺、何もわかってなかったから、きっと罰が当たったんだ。待てるなんて、嘘。無理だ。なくしたくないよ。嫌だ、やだよ、葵……」
そう言って、ぽろぽろと涙をこぼしました。わたしには、わたしに向けられていないその涙がとても愛おしく思えてなりませんでした。
「大丈夫。大丈夫ですよ、ご主人様。『僕』は、ここにいます。わたしが、守ります」
わたしは身を乗り出して、ご主人様の顔をしっかりと見つめて言いました。ご主人様は、わたしの目の奥にいる僕を見つめているようです。
「ごめん、葵」
ご主人様の言葉に応えるように、おなかの中の炎が……僕がふるふると震えます。わたしはその通りに首を振って伝えました。
ご主人様が何かを考えるように目を伏せました。そしてぐっとわたしの手を握り、わたしを見たのです。僕ではない、わたしを。わたしの胸がどきりと高鳴りました。
「葵……」
それは、わたしの名前でした。
響きは同じなのに、どうしてか、わたしを呼んでいるのだと、わかるのです。
ご主人様の左手が、わたしのほほに添えられました。顔をそっと引き寄せられ、わたしのくちびるの端にそっとご主人様のくちびるが触れました。大好きなご主人様のきばがわたしのくちびるにちくりと刺さります。わたしは思わずため息を漏らしてしまいました。
こんなにもあたたかい愛情をわたしにも向けてくれる人がいるなんて、あの寂しい海にいたときにはひとつも思っていませんでした。僕のたましいの炎も、わたしのおなかのなかであたたかくゆらゆらとゆらめいています。
ご主人様はくちびるをはずして、ゆっくりとわたしの頬を撫でました。そして、静かに目を閉じました。
「ごめん……」
「よく考えたら、きみにしていい事じゃなかったかも。マジでごめん……」
そう言って、苦しそうな顔をしました。どうして、そんなことをおっしゃるのでしょう。わたしたちはそのために作られた命ですし、わたしはご主人様のことが大好きなのに。
「ご主人様はわたしのご主人様なのですから、何も謝ることなんてありませんよ」
わたしは温くなったタオルを濡らして、ご主人様の少し赤くなったまぶたの上に置きました。
「だから、お休みください」
わたしはまたご主人様の手を握り、古い記憶の中のうたを歌いはじめました。わたしのからだのなかに記録されている、白き翼の民の、子どものためのうた。
ご主人様はうたに合わせてかすかに手を握ったり開いたりしていましたが、すぐにその動きがゆっくりになったかと思うと、寝息を立てて眠ってしまいました。
そのあとは、時々タオルを冷やしながらご主人様のそばで過ごしていました。
お昼前になって、ご主人様が目を開けました。顔色はずっとよくなっていましたが、まだ動くとお腹は少し痛むようです。ご主人様はからだを庇うようにしながら、ゆっくりと寝台に腰かけます。
「寝れたからよくなった、ありがと」
わたしはおどろいてぱちぱちと瞬きしてしまいました。
「どうしたの」
「いえ……わたしたちに、お礼を言ってくださる方がいらっしゃるなんて、おもわなかったので」
わたしは素直に言いました。記憶の中のご主人様ももちろんそういう方でしたが、いざその言葉が自分に向けられると、どきどきしてしまうものです。
「言うよ。なんなら、お礼になんでもお願い聞いてあげてもいいくらい」
ご主人様はそう笑います。その笑顔があまりにも美しくて、やさしくて、わたしは少しわがままな気持ちになってしまいました。
「あの、では、お願いが……」
わたしは、ご主人様にささやきました。ご主人様はわたしの目を見返して、なに? と優しくささやき返してくださいます。
「一度だけ、お名前を呼ばせてください。一度だけでいいですから」
わたしを起こす時、ご主人様は、わたしにどう呼んでもらうか、設定されませんでした。だから、記憶の中の僕が呼んでいた名前も、夢のなかで呼びたかった名前も、わたしは呼ぶことができません。ご主人様も、きっと望んでいないからそうされたのでしょう。何よりも、名前というものを大切にされる方ですから。
ご主人様はぴたりと動きを止めました。目を閉じてしばらく何かを考えるようにして、ん、と控えめにうなずきました。
ご主人様は、僕に一度だけ誰も知らない本当のお名前を教えてくださったことがあります。白き翼の民に一人一人与えられる、古い伝承にある天の使いの名だそうです。わたしは箱の中の宝物に優しく触れるきもちで、記憶の中にあるご主人様の言葉をなぞりながらささやきました。
それは、きらきらと瞬くような、美しい音でした。僕はこの呼び方でご主人様を呼んだことはありません。わたしの、呼びたかったお名前です。
名前を呼んでいる間、ご主人様はしっかりとわたしの目を見つめていました。だから、その瞳の色がさっと紅く色づいたのも、しっかりと見えてしまいました。
ご主人様はわたしを抱き寄せてくちづけます。それは、境界が消えて、とろけあって一つになるような、甘い甘いくちづけでした。
約束通り部屋を出てからは、何も知らない顔をして過ごしました。
ご主人様も、わたしにはもうあの時のように触れることはしませんでした。
それは、僕への想いを大事にされていたからだと思います。僕とわたし、たましいとうつわの両方に宿ったこころ。ひとつになれていたら、どんなにか良かった事でしょう。ですけれども、ふたたびご主人様と幸せに過ごす僕のそばで眠りながら夢をみることも、わたしの幸せであることには間違いありません。
そして、そうなることがいちばん良いことなのだとわたしは思いました。
やっとたどり着いたエイシャの古いお屋敷の中庭は、たくさんの花が咲く楽園のような場所でした。ナスカ様はお屋敷の中にかけこんで行ってしまい、ご主人様とわたしは中庭にぽつんと取り残されてしまいました。
中庭は美しく手入れされていて、見た事もないお花が咲き乱れています。いい匂いもほんのりただよってきています。
「気になる? 見に行こうか」
わたしが目を輝かせていることに気づいたのでしょう。ご主人様がにこにこと笑います。
「いいんでしょうか」
「少しなら構わないよ」
たぶん、とご主人様は人差し指をくちびるに当てて、にっと笑いました。
お花に近づくと、とても甘くていいにおいがします。こういう花は、愛の誓いの時に使われると言います。薬草学の授業で僕が学んだことです。
わたしは目を閉じて、花のにおいで胸をいっぱいにして、息を吐くように声を出します。
「ご主人様……」
隣に立ったご主人様がこちらを見つめる気配がしました。
「わたしは、あなたを愛しています」
わたしの体にくっついたご主人様の左腕が、ぴくりと緊張するように動きました。
「えっと……、それは、きみの」
「はい。……だいすき、です」
ご主人様が息を吸う気配がします。嘘つきなのに、嘘がつけないひと。気が多いくせに、つがいと定めた僕のことだけを愛して想いを貫こうとしているひと。ほんとうに、愛おしいひと。
「だから、ご主人様が僕ともう一度ちゃんと出会えるように、わたし、がんばりますね」
「僕」は、あるとないの境目を切り替える力を持つ精霊です。わたしのおなかのなかに閉じ込められていなければ、どんな奇跡だって起こせる力を持っているのです。
だから、奇跡を起こせる瞬間まで、僕を大事に運んできました。どうしてか、その奇跡がもうすぐ起こるような、そんな予感がするのです。
わたしは緊張したままのご主人様の左腕に、そっと顔を寄せました。花のかろやかなにおいに混じって、ご主人様のまとった重く甘いお香のにおいがします。僕も、わたしも大好きだったにおいです。
ご主人様はきっと、わたしの頭の上でこまった顔をしているのでしょう。
おなかの中の僕も、こまったように揺れています。大好きなひとを独り占めしているずるいわたしに想いをかけてくれる、優しい僕。可愛らしくて優しいあなたのことも、大好きでした。
ご主人様がふと顔をあげ、屋敷の方を振り向く気配がします。そして、誰かに向かって手を振りました。それは、この時間が終わってしまったことを意味していました。
わたしは歩き出したご主人様の後ろを追って、屋敷の方へと向かいます。
まだ、甘いにおいがそこかしこに散らばっていました。
読んでくださってありがとうございました。
落書き的に描いた番外編SSもこちらに載せていこうと思います。
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