015 ー間唱ー 【花と少年/小龍】 後
数年が経ち、小龍はいまだ眠浮にいた。
昼は料理屋か医院で働き、夜は黒の仕事を手伝う。そんな日々を送っていた。
そのうちに自分にも夜の仕事が舞い込んでくるようになったが、いつも断っていた。眠浮の黒い黒い沼の底に首元まで染まっているというのに、なぜか自分がそれを行うのは嫌だと思った。それはもしかしたら、初めて自分に芽生えた願望なのかもしれない。
眠浮は法のない場所だ。
誰も住む者の正体を知るものはなく、この世にはいないものとされている。
逆に言うと少々の罪を犯した者も、獣の民ですらも、金さえあれば権利を買い帝都の平民になることができる。黒は断るだろうが、雪梅と小影はきっと空の見える暮らしを望んでいる。だから、いつか訪れる日のために金を溜めていた。
ある日、医院の朝番帰りに仕事仲間に声をかけられた。
それは何度も断っていた『仕事』の依頼だった。
彼らは一斤の酒を差し出し、黒にこれを飲ませてほしいと言った。
なんでも、獣の民を深く酔わせる酒だという。先日博打で喧嘩になった意趣返しだと仕事仲間たちは言っていた。報酬も、意外なくらいの額を示された。小龍は、その酒を受け取った。
翌日。その日は朝からじわりと暑かった。
雪梅は一人屋上に向かった。
小影は尹先生から花のお礼に貰ったという双六を一緒に遊んでほしいとねだったので、付き合っている。なかなか難しく、あと数歩のはずの上りの目にたどり着けない。酒は、台所の机の上に置いてある。
昼が過ぎたころ、黒が起きてきた。
目ざとく酒に気付いた黒は、一緒に飲むかと言った。
小龍は未だ酔えない体ではあったものの酒そのものの味は好んでいて、時に黒の晩酌に付き合うようになっていた。断るのも妙に思われると思い、付き合うことにした。器を用意して、小影には雪梅が作ってくれていた茶を出した。
黒は酒を注ぎながら笑う。お前のおかげでずいぶんうちは楽になった、ありがとうな、と。用意された二つの器に同じだけ注がれた酒のひとつは、小龍の前に置かれた。黒はそのままソファに深く腰掛けて、頬杖をついた。
「どうした、お前が持ってきた酒だろう。先に飲めよ」
黒はそう言って髭を撫でている。
背中を冷たい汗が伝った。
顔色に出てしまったのだろうか。
いや、感情を気づかれないように振舞うすべは身に着けているはずだ。小龍は努めて冷静に、差し出された杯を飲み干した。
強い酒特有の胃が温まる感覚があった。それとともに、違和感があった。今まで味わったどの毒とも違う、未知の何かの味。依頼を持ちかけてきた男の言っていた、強く酔わせるという、そんな類のものではないように思えた。
黒は小龍が杯を空にするのを見守って、満足げに笑い杯を手に取る。そして、隣で茶を飲む小影の頬を撫でた。
小龍は飲まないように告げようとしたが、醜く歪んだ黒の口から発せられた言葉がそれを押しとどめた。
「こいつももう少しで売れるようになるな。そうしたらもっと楽になる」
小影は言葉の意味が分からないようで、黒の手を撫でながらお父さん、ふわふわ! と喜んでいる。そのとき、自分の中に黒い感情が渦巻くのを感じた。俺はこいつとは違う。彼女たちを守ってやれるのは、俺だけだ、と。黒は再び椅子に深く腰かけ、杯をあおった。
異変は直ちに起こった。
黒の呼吸が荒くなり、手が震えだした。
小影がグラスを置き、お父さん?と声をかける。それを合図にしたように黒は獣の唸り声をあげて小影に襲い掛かった。その口の端には、白い泡が浮かんでいた。
小龍は机を蹴り上げ、とっさに小影を抱き上げて椅子の裏に隠す。先ほどまで遊んでいた双六の駒が、グラスが、毒の酒瓶が床に飛び散った。
考えている暇はなかった。腰のナイフに手が伸びる。
いつもそうするように、体の動くままに舞った。相手のどこを斬れば確実に動けなくなるか、命を奪えるか。自分の体は本当によく判っていた。
すべては、一閃のもとに終わった。
赤い花が散って、静寂が訪れた。
一瞬の静寂を破るように、ドアが開く音が聞こえる。
小龍はそちらの方を見た。雪梅だった。恐ろしいものを見たような顔で固まっている。
そうだ、小影は無事だっただろうかと振り返る。彼女は椅子の影で座り込んで泣いていた。二人にひどいものを見せてしまった。小影がけがをしていないか確かめようと手を伸ばした瞬間、雪梅がやめて叫んで掴みかかってきた。
「なんで、なんで私の家をめちゃくちゃにしたの! あなたなんて、いなければよかったのに!!」
悲痛な叫び声が響いた。
そうだ、ここは彼女の家で、自分は居候で、他人なのだ。とんでもない思い上がりだ。
――ただ、助けたかったんだ。
――雪梅のことも、小影のことも。だけど、だめだった。自分が愚かだったばかりに。
小龍は暴れる雪梅を押さえながら、小影に見ないように頼んだ。離せと叫ばれ、噛まれ、殴られた。耐えているうちに、体のいたるところに痛みとは違う感覚があることに気が付いた。
雪梅も小龍の異変に気付いたようで、慄いた顔で、化け物、と呟く。
その視線をたどって腕を見ると――、
自分の腕に、鱗のようなものが生えていることに気付いた。
動揺した瞬間、雪梅は小龍を突き飛ばす。そして、転がるように家から出て行ってしまった。追いかけようと身を起こすと、内臓が裏返るような感覚がして嘔吐してしまった。
視覚が揺らいで、そのまま床に広がる血だまりの上に倒れ込んだ。
遠くで小影が自分を呼んでいる声が聞こえたが、もう、体が言うことを聞かなかった。




