洗濯
そのことに気づいたのは中学二年生あたりの頃でした。
私は幸運にも父譲りの頭脳があったもので、小学校の頃は学年で、いやその学校で2,3位にテストの点は良かったです。体育を除いた様々な教科で周りが熱心にテストに向けて勉強している中、特別な準備もせず100点を取っていました。みんなは一体何を勉強しているんだろうとさえ、思ってしまっていました。母はそのことを聞いて私に中学受験をさせてくれました。今思えばその選択が長期的に見ればよかったものの、私の瞬間的な幸福しか見ることができない目にとっては良くなかったかもしれません。
小学校4年生から私は塾に通い始めました。最初は一番上のクラスにいましたが、途中からその一つ下のクラスにいました。その時は別にその事象に対して何も悲しみを抱きませんでした。小学校では私より頭が良い女の子がひとりいました。しかしそれ以外の人間は全員私より頭が悪かった、と考えていました。そんなときに自分と同等、またはそれ以上の頭脳をもつ約20人強の同級生と知り合えたものですから、私はわくわくとしていました。
そうして私は中学校に入りました。確か第三志望か第四志望の学校で、見学にも行ったことはないような学校でした。しかし私はその学校をいまでも楽しかったと思えます。一つ問題があったのは小学校とは違い、自分の頭の良さと同程度の人間が集まっていることです。私は中学に入るまで努力というものをしてこず来てしまいました。中学校での私の頭脳はその学校の平均程度でした。平均より低い生徒は小学校で努力をしてこの学校に入ってきたので努力の仕方を知っています。平均以上の人は努力などしなくても成し遂げられるし、努力もやろうとすればできるでしょう。何が言いたいかといいますと、この学校でもっとも弱いのは私だったということです。
入学してから初めてのテストでは真ん中より少し上くらいの成績でした。しかし回数を重ねる内に私の成績は下から数えるほうが早くなってしまいました。ここで私は自分の存在価値を見失いました。小学校では賢いと褒められていました。裏を返せば賢いしか取り柄のない子供だったわけです。そして運悪く努力をせず中学に入ってしまったことで、努力もできないのに頭の良さ以外で自分の存在価値を確かめられない、そんな詰んだ人間になってしまいました。そこからは私はだんだんと元気をなくしていったと思います。中学生だった当時はなんだか心に穴が空いたような、なんとなくの小さな絶望をもっていると考えていましたが、今振り返ってみると自分を証明する手段を失った瞬間がそこだったんだな、と思います。
高校に上がってから(中高一貫でした)私はなんとか今の状況を打開したいと思い、別の角度から自分の存在価値を確かめようとしました。女性を求めました。昔から本は好きだったので異性が自分の存在価値を認めてくれる道具なのは知っていました。当時私は人を道具となど捉えていませんでしたし、今でも人を道具としてみるなんて倫理的に終わってると思います。ですが当時の行動と当時の心情を思い出すと私は異性を自己承認の道具としか見ていなかったのは明らかでした。しかし深層心理に人を人として見ずに自分の価値のために利用している人間が普通の人間とうまくいくわけがありませんでした。なぜ振られたのかよくわかっていませんでしたが、おそらくそういった心が相手に伝わってしまっていたのでしょう。申し訳なく思いますが、私は私の心を満たすために行動し続けています。自分に価値を見出してほしかった。愛が欲しかったのです。
その後私は大学に入学し、適当なサークルに入り、適当に過ごし、卒業しました。大学では恋愛はしませんでした。高校での経験から当時の私は人と関わるとその人を不幸にさせてしまう人間なんだ、と思っていたからです。確かに私は人と関わると相手を悪い方向に導きますが、それは原因不明の呪いではなく私が心の奥の意識できない領域で人を人として見ないで、道具として見ていることが原因だったのですが、まだそのことには気づけないでいました。
大学を卒業後、私はお笑い芸人になりました。大学時代に出会った仲の良い関西弁の先輩とともに大手の養成所に入り、事務所に入ることができました。そして小さな劇場のライブにも出られました。卒業後は小さくとも順風満帆な道を通って、そしてその後もかなり一般的にみて幸せな生活だったと思います。そしてバイトを掛け持ちせず、ある程度節約すればライブの収入だけで食っていけるようになりました。インスタのフォロワーもかなり増えてきていました。毎日幾人ものファンからDMが届きました。その中にはもちろん女性もいました。というより女性からが多かったです。話してて楽しいな、と思ったり趣味が合うような人とは個人で会ったり飲みに行ったりもしました。肉体関係になることがほとんどでした。それで私の心は満たされていきました。ファンも多く、女の子にもモテて今が一番楽しいと毎日思っていました。
ある朝起きたとき私の右腕はすこし痺れておりました。隣には女性が寝ていました。昨日DMが来てその日の夜そのまま飲みに行ったファンの女の子でした。その子の横顔はとても美しかったです。そしてその子を抱けた自分はなんて価値が高いんだろうと非常に興奮しました。しかし私は何もうれしくありませんでした。自分でもよくわかりませんが私は満足していませんでした。こんなことをしても、こんなことをできても私にはなんの価値もないんだと気づきました。もうなにも考えたくなくなりました。私は存在価値を認めてくれる相手を探していました。しかし何も価値がない人間を認めてくれる相手などいないのです。0を愛する人はいませんし、無償の愛も隣人愛も存在しません。あるとすればそれはペットくらいでしょう。存在してくれるだけで良い。ヒトにそう思われるのは人間以下の生物にしか許されていません。
私には有り余る自己愛があります。自分のことが大好きなので私のことをもっと見てほしいと自分の価値を見出してくれる相手を探していたのかもしれません。自己愛があるというのは良いことに聞こえますが私にとってはそれが最後の決め手だったのです。私には価値がない。価値がなくても愛されるのは人間以下のモノ。つまり自分が愛されるには自分が人間以下だと認めなければいけない。しかし有り余る自己愛がそうすることを防ぐ。こうして私は苦しみながら生きるか死んでしまうかの2つに選択肢を絞りました。その後はこれを呼んでいる人の判断に任せます。さようなら。