戦争がまた終わって冷戦が生まれた
2024年のノーベル平和賞は、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が受賞しました。「核を'おいそれと使えないもの'にとどめていることに、こうした運動や言論は確かに貢献しているのだ(大意)」という識者のコメントがひそひそと界隈の話題になったところです。
もちろん戦術核兵器を「おいそれと使えないもの」と考える見方は戦後すぐには広がらず、例えば「相互確証破壊」といった概念と、それを裏打ちする冷戦下の核兵器保有拡大・核攻撃能力向上があって、段階を踏んで世界の共通認識となりました。「相互確証破壊」という言葉を使ったジョンソン政権のひとつ前、ケネディ政権下では1962年のキューバ危機があり、米ソ双方で核戦争につながりかねない行動にいくらかの要人が賛成意見を述べましたし、偶然相手と接触した艦艇などが核戦争リスクのある独自判断をしたケースもありました。
さらにさかのぼれば、朝鮮戦争末期にトルーマンとの関係が悪化していたマッカーサーが解任前にいくつかの提案を上申し、その中には核兵器の使用に関するものもあったとされます。
核兵器の使用される戦争が普通の戦争になったとき、密閉されていない車両は放射性物質を防ぎきれません。陸上部隊には核兵器が仕事をした後の残務処理しか残っていない……という考えが広まって、まあその後しぼんでいくのですが、いったん通常戦力整備全体に逆風が吹くのはどうしようもなかったでしょう。
2017年の映画『スターリンの葬送狂騒曲』では、実際にはベリヤがマレンコフ政権の実力者として数か月実権を握ったのを1ステップ抜かしましたが、ジューコフがフルシチョフに協力してベリヤを逮捕するシーンを(史実通り……ちょっと戯画的に)入れています。大戦前から親交のあるフルシチョフの下でジューコフは国防相となりましたが、核兵器予算のために通常戦力を削減する件で対立し、失脚しました。後任国防相のマリノフスキーがキューバ危機に対処することになりました。
ゲリラ戦と革命は、核戦争の脅威と並んで、戦後世界に広がった新しい戦争の形であったとハウスは説きます。ただ生起したゲリラ戦それぞれを有利に進め、要地を守って大きな損害を強いることと、その地域に安定した友好的政府が確立することは別問題です。アメリカは占領軍として要地を確保しながら結局ベトナムでの出血が止まらず、撤退とともに南ベトナム共和国は倒れました。その教訓を得たはずのイラクではイスラム国の挑戦をはねのけたものの、アフガニスタンではタリバン政権のもとに多くの友好的な現地協力者を残して撤退する結果になりました。戦術的な優位で手に入れたものは、安定した友好的政府の確立がなければ、わずかな年月で失われてしまいます。もちろんそれは、軍人が頑張ってどうにかなる問題ではないのです。
ハウスの第7章は1945年から1972年までを扱いますが、例によって国別になったり、トピックス別になったりします。ここからしばらく、ハウスはソヴィエト軍の変化を追います。
核兵器を持たずアメリカに対抗せざるを得なくなった終戦直後、ソヴィエトは軍容を縮小しつつ、戦車部隊を再整理しました。ソヴィエトが1942年から終戦まで戦車「軍団」や機械化「軍団」を師団の代わりに持ってきたのは、おそらく、「集中攻撃のあと大規模突破の戦果を拡大する部隊」という戦間期の「作戦術」から来るイメージを持ち続けていたからでしょう。そしてもちろん多数の戦車旅団や重戦車連隊が様々なレベルの司令部に協力し、ローカルな突破を拡大し、追撃していたのです。
ハウスは書いていませんが、大戦末期にすでに、「型落ち」したSU76自走砲が軍直轄部隊から歩兵師団の砲兵連隊に下げ渡された例があったようです。様々な自走砲や牽引車両が新しいソヴィエト戦車師団を固め、やや遅れましたが装輪式や装軌式の装甲兵員輸送車も現れました。小さな車両に細切れになった歩兵たちが車両故障などでばらばらになるのを防ぐため、1950年配備のBTR-152(後部乗員17名)や1954年配備のBTR-50(後部乗員20名)など、2個分隊相当を運べる大型の車両も使われました。
ソヴィエトが核を得ると、かつての大規模な軍直轄砲兵の弾幕は戦術核兵器に取って代わられ、核兵器使用後の地域に前進する部隊は放射能防護を兼ねた装甲車両を中心に、しかしかつてよりも小規模に分かれて前進することが想定されました。
1945年以降の「機械化師団」はできるだけトラック化したライフル師団であり、その戦車自走砲連隊は、中戦車か重戦車2個大隊と自走砲1個大隊を持つもので、さらに各機械化[ライフル]連隊には戦車1個大隊がつけられました。おそらく兵員を車両で放射能から保護することを考えた編成になっておらず、フルシチョフ時代(つまりジューコフ国防相時代)に入って、自動車化ライフル師団に改組されました。歩兵を縮小するとともに、すべてを密閉された車両に載せる方向で改編されたと想像しますが、細かい資料がマイソフの手元にはありません。残ったライフル師団は(多くが廃止された後)、1957年に自動車化ライフル師団に一斉転換しました。
キューバ危機が去って、1964年にフルシチョフも失脚しました。「柔軟反応戦略」というコンセプトは「相互確証破壊」のジョンソン政権に先立ち、ケネディ政権から提唱され始めましたが、核の使用時期をさぐりつつ通常戦争が行われるなど、核戦争から始まらない戦争をソヴィエトも考え始めたと思われます。それは通常ミサイル、ロケット、砲兵といった火力投射兵器との諸兵科連合を再構築することであり、すでに空挺輸送兵器として導入されていたヘリコプターと空軍(の戦術爆撃)もその現代的な協力相手に加えるということでした。
ロシア語版Wikipedia「自動車化ライフル師団」によると、1980年代の自動車化ライフル師団の3個自動車化ライフル連隊はそれぞれ、3個ライフル大隊と1個戦車大隊(MBT)を持ち、それとは別に戦車連隊には3個戦車大隊(MBT)と砲兵隊(自走榴弾砲18両)を持ちました。
※砲兵「隊」はдивизион(≒division)です。例えば日本海軍が「小隊」と呼んだ、戦隊中の主力艦2隻ペアのことをロシア語ではdivisionと呼んだようです。砲兵中隊( батарея≒battery)より大きく、大隊には及ばない規模なのでしょう。
第27部分「嗚呼中間管理職」で触れたように、ハウスは大戦中のソヴィエト軍団先遣隊が積極的な行動も許された諸兵科連合部隊であったことを強調します。いまや全ての歩兵がAPC、ソヴィエト末期にはIFVに乗っていましたから、自動車化ライフル連隊の戦車大隊と連隊内で、かつての軍団先遣隊のような諸兵科連合部隊が組めるのでした。しかしそれが試されるのは、歴史がもう少し動いた後になりました。




