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エンジンもまた兵器であり、軍政もまた戦場である

 ヒトラー政権下のWehrkreisは慣例として「軍管区」と訳されますが、実際には軍団管区です。例えば第I軍管区司令部のスタッフは第I軍団司令部のスタッフを併任していて、軍管区としての命令は平時にも存在するOKWから、軍団司令部としての命令は参謀本部(戦時動員されるとOKH)から受けました。また戦時になると第I軍団司令部は出征し、一部が残って第I留守軍団司令部(兼第I軍管区司令部)を編成しました。後方なのでOKHから直接命令されることは(大戦末期以外は)なく、第I軍管区の訓練部隊には第I留守軍団を通じて、OKWから戦時に分離した予備軍が命令を出しました。


 平時には軍団司令部はあるが軍司令部はない、というのが当時のドイツの軍制でした。


 軍管区は13個設置された後、オーストリア併合により、第XVII・第XVIII軍管区が新設されました。番号が飛んだ第14~第16はどうなったかというと、軍管区を持たない常設の軍団司令部として、第XIV軍団は自動車化歩兵軍団、第XV軍団は軽機械化軍団、第XVI軍団は装甲軍団となる計画でした。


※オーストリア陸軍の軽[機械化]師団を第4軽機械化師団としてドイツ陸軍に加えた後、1939年7月に第XIX軍団が設置され、第4軽機械化師団と第2装甲師団がその中心となりました。そしてポーランドに勝ってその西端部分をドイツに併合したので、そこには第XX・第XXI軍管区が置かれました。


 今回のお話は、この第14~第16軍団に属した師団群の性格の違いです。


 自動車化歩兵師団の性格を知る手掛かりは、ホスバッハ覚書にあります。1937年11月5日の会議……というより、ヒトラー演説会と質疑応答を、総統付陸軍副官のホスバッハが覚書にして残したのです。ホスバッハ会議というと誤りです。拙作『士官稼業~Offizier von Beruf~』「第17話 入れ替わる役者たち」で扱っています。


 この会議でヒトラーは「軍備増強の効果が国力ぎりぎりまで出尽くし、NSDAPの指導者層もまだ若い1943年から1945年にかけて、英仏と戦争になるリスクを冒しても武力を行使し、オーストリアとチェコスロバキアを併呑する」と述べました。このとき、陸軍総司令官だったブロンベルクは「4つの自動車化師団(vier mot Divisionen)が移動の準備ができて(bewegungsunfähig)いない」と言ったと記録されています。


 ブロンベルクは「装甲師団と軽機械化師団がチェコスロバキアやオーストリアに出払っている間、西部国境で敵の突破に対処できるのは自動車化歩兵師団くらいですが、改編されたばかりで自動車が行き渡っておらず、歩兵師団のスピードでしか移動できませんぞ」と言いたかったのでしょう。つまり自動車化歩兵師団は自前のトラックで移動できる歩兵師団であり、戦線の破れたところに急行する火消し隊として構想されていたのです。開戦当時、普通の歩兵師団の「偵察大隊」は騎兵か自転車兵が主体でしたが、自動車化歩兵師団では装甲車中隊とオートバイ中隊を1個ずつでした。


 1940年5月のフランス戦まで、第XIV軍団は自動車化歩兵師団だけで戦い、スダン突破を図るグデーリアン軍団の西側側面をベルギー軍などから守る役目を果たしました。第XIX軍団は「残り全部」を詰め込んだ性格の軍団で、ポーランド戦から装甲師団も自動車化歩兵師団も混じっていました。1940年6月以降は第XIV軍団も装甲師団が混じるようになり、独ソ戦からは装甲師団と自動車化歩兵師団が混ざった軍団が普通になりました。


 1941/42年の冬、一部の自動車化歩兵師団は戦車大隊を受け取りましたが、あまり対戦車能力が高い戦車はもらえなかったようで、まあ歩兵相手の支援用であったのでしょう。


 さて、第XV軍団と軽機械化師団の話をする前に、ベック大将を中心とする反ヒトラー・グループの話をしておいた方がいいでしょう。ベック大将たちが1938年のミュンヘン会議の時もヒトラーを逮捕する計画を立て実行寸前まで行き、1944年のヒトラー暗殺未遂でも中心となったことはよく知られていますが、だからと言ってこの人たちに英仏への敵意がなかったとも言えません。ベックが士官候補生として採ってもらった原隊はアルザスの野砲兵連隊でしたし、1923年のフランスとベルギーによるルール占領は多くのドイツ士官たちを憤激させ、無力を嘆かせました。ただ、ひとつ前の「グデーリアンのビフォーアフター」でも述べたように、1930年代のドイツには予備役兵のストックがありません。もし英仏と再戦するとしたら、それは20代、30代の軍役経験者がみっしりと溜まってからだ……と思っているドイツ士官は多かったのではないかと思います。


 まあそれは憶測であって、確かなのは、ベック参謀総長が攻撃部隊たる装甲軍団の拡張を嫌い、1938年前後に戦車部隊の集中を妨げるように「見える」構想を推進したことです。増産されてくる戦車で装甲軍団を強化しないで、もっとバラバラに、おそらく支援兵器として配置するのです。まあ、上に書いたように第4軽機械化師団はオーストリア併合の産物なので、騎兵系攻撃部隊たる軽機械化師団の増設が著しかったわけではないのですが。


 ここで軽機械化師団と装甲師団の開戦時編成を比べてみましょう。


         第1軽機械化師団       第1装甲師団

戦車       1個大隊3個中隊 現有57両  2個連隊4個大隊12個中隊 現有241両

※指揮戦車を含みます

自動車化歩兵   1個連隊3個大隊12個中隊   1個連隊2個大隊10個中隊

偵察・オートバイ大隊等

         オートバイ4個中隊 装甲車2個中隊

         重装備等2個中隊

                       オートバイ4個中隊 装甲車2個中隊

                       重装備等4個中隊

砲兵       どちらも10.5cm榴弾砲1個連隊2個大隊6個中隊


 軽機械化師団も自動車化歩兵であるとはいえ、戦車は「持っている」と言える程度の数でしかなく、砲兵火力は歩兵の大隊数に比べると、装甲師団以下ですらあります。歩兵師団であれば歩兵9個大隊に対して砲兵連隊の10.5m榴弾砲は9個大隊あって、これに15cm重榴弾砲が3個大隊加わるのです。


 軽機械化師団は自分自身で戦線を突破するのでなく、歩兵と砲兵に突破してもらった戦線を快速で抜けていくための追撃師団なのです。それを軍団単位でやろうというのですから、大決戦のためだけの軍団とも言えます。この花形部署を、まさにグデーリアンは戦車兵主導の装甲師団(軍団)のために分捕りたかったし、騎兵科は渡すまいとしたのです。


 ところがチェコスロバキアを巡って英仏との緊張が高まった1938年8月、ベックはヒトラーの強硬路線に反対して陸軍将官たちの辞表を取りまとめようとして失敗し、辞任するしかなくなりました。そして11月、前回のお話にあったように、大将に昇進したグデーリアンは快速兵総監となったのです。


 快速兵とは何でしょう。戦車兵はすでに対戦車砲兵を含むものとされ、おそらく自動車化部隊を手放したくない歩兵科との妥協で、歩兵師団の対戦車砲の半分は歩兵連隊に分属し、「歩兵科対戦車砲兵」として歩兵科が訓練・人員配置していました。戦車兵に騎兵を加えたものが快速兵であり、騎兵の訓練や操典編集をつかさどる騎兵総監も快速兵総監に従属することになりました。グデーリアンはこの指揮権のないポストを嫌がったようですが、これは戦車兵の騎兵に対する最終的な主導権確立でした。そして開戦時にはまだ転換が済んでいなかったものの、開戦を待たず、軽機械化師団を装甲師団に転換することも決まったのでした。グデーリアンはこの軍政上の大仕事を終えると、上で述べた1939年7月の第XIX軍団設置に伴い、初代軍団長としてさっさと転出しました。


 開戦当時のドイツ装甲師団は、創設時に構想された軽戦車だらけの編成から、いくらかIII号/IV号戦車が届き始めたこともあって、どんなタイプの敵とも戦える編成へと変わり始めていました。おそらくドイツの初期構想は、「持っているものをとりあえず全部入れる」イギリス大陸派遣軍のmobile division構想(イギリス第1機甲師団が実際に編成されたのは1937年11月)に惑わされていたのでしょう。


 しかし砲兵火力も歩兵の人数も少なめな編成は、自分で敵戦線をこじ開けるためには火力不足でした。1940年のフランス戦までに、ドイツ装甲師団は自動車化歩兵を1個大隊増やし、15cm重榴弾砲1個大隊(3個中隊)を持つようになりました。


 さて、戦間期ドイツの話を閉じる前に、「ドイツの装甲兵員輸送車」「ドイツの地上支援」の話をしておくべきでしょうね。それは次回に。

※ハウスはドイツのI号戦車を、「カーデンロイド製の兵員輸送車から派生」したと書いています(110頁)。これはたぶん、I号戦車A型が設計される前、1931年にヴィッカース=カーデン=ロイド社の軽牽引車3両が購入され、I号戦車A型の足回りは相当程度これをパクったとされる話に起因します。時期から考えて、購入されたのはヴィッカース・ライト・ドラゴンのMk.Iあたりで、この車両なら車体後部にイギリス軍の兵員がわんさか乗った写真もあります。砲の牽引車に砲員が乗っていることは世界各国でよくありますよね。

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