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グデーリアンのビフォーアフター

 第2次大戦ドイツの快進撃を支えた「電撃戦」は「優れた戦車戦術」とイメージされがちですが、これには皆様ご存じの通り、無数にツッコミが入っています。


 例えば、優れた「戦術」が勝利の決め手ではなかったかもしれません。ポーランド戦は圧倒的な物量差(戦力差に加え、気前良い砲弾消費)、フランスと1941年ソヴィエトについて言えばドイツの反対側の拙劣な命令や組織、合理的な統一指揮/現場の主体的判断の欠如と、戦術以外のことで戦局がはっきり傾いていたようにも思えます。


 ドイツ軍は戦車だけでなく、トラック歩兵、オートバイ歩兵、ハーフトラックにけん引された砲兵、そして(ソヴィエトに対しては数的には微妙なところ、少なくとも質的には)優勢な空軍を動員しました。戦車が間断なく働き損耗に耐え、勝利に大きく貢献したのは確かだとしても、それは「突撃隊戦術2.0」のチームメンバーとしての貢献とみるのが自然でしょう。


 その中でも「戦車部隊の主体的な行動」として、グデーリアンによるスダンの渡河地点確保、南方の峠(制高地)であるストンヌ村の争奪参加(決定的な数日間、砲兵観測地点としてフランスに使わせない)、そして大西洋への躍進という三点セットは輝くものです。ただしこれは、ルントシュテットの明確な禁止を踏み破る命令違反が含まれていたことがカール=ハインツ・フリーザー『電撃戦という幻』(中央公論新社)で解き明かされたのも随分前のことになりました。また、その前に書いたように、それをむざむざ許したフランス軍側にも機能不全なところがありました。数的不利でもバラバラに突っかかってくる大戦初期のソヴィエト軍は、損害をますます大きくする面はあったとしても、1940年のフランス軍が稼げなかった時間を稼いで、その集積としてモスクワ防衛を成し遂げたわけです。


 グデーリアンはポーランド戦で装甲師団があちこちに少しずつ配され、集中使用されなかったことが不満なようですが、装甲部隊はあちこちの要地に先着してポーランド軍の移動と通信を妨げ、国境付近にいたポーランド軍は包囲され、ワルシャワ方向への脱出兵はあっても重装備は置き去りでした。もしもっと集中使用されていても、どこで何が実現できていたかというと、それはよくわからないのですね。包囲してからせん滅するまでは歩兵と砲兵が主に働いたのですし。


 思うに、もしすでに装甲師団5、軽機械化師団4、編成未成装甲師団戦闘団1の装甲部隊が装甲軍レベルで集中使用されていれば、その指揮官は当然グデーリアン大将であったはずで、結局それが悔しいのではないかと思います。


 そんなことも含みにして、ここでは「1931年、グデーリアンがルッツ交通兵総監の参謀長になる前から進んでいた機械化部隊の創建」をそれ以後と区別することをちょっと意識しながら、ドイツ機械化部隊の発展を考えてみたいと思います。


 ドイツが最後に量産しようとしていた機関銃塔装備の軽戦車LK II (Leichter Kampfwagen II) は、わずかに完成していた分が大戦が終わってからこっそりスウェーデンに輸出され、1929年にグデーリアンの最初に触れる戦車ともなりました。もちろん対戦車能力などありませんが、イギリス戦車兵総監部が足踏みをしている間、暗躍するドイツ軍人たちと世界の差は、あまり縮まらずに済んだとも言えます。


 世界が軍縮運動に沸いた1920年代後半、ドイツでは欧米に受けの良いシュトレーゼマンが連立内閣に関わり、ヒトラーのNSDAPも含めて、ヴェルサイユ条約に否定的な政治運動が支持を伸ばせない時期がありました。ヒンデンブルク元帥が大統領になったのは1925年でしたが、ドイツの国政上で軍の存在が際立つようなことは、すぐには起きなかったのです。


 しかし陸軍は1926年に、ソヴィエトのカザンに秘密戦車学校"カマ"を作る合意をまとめ、1929年から開校しました。難産であった新型試作戦車Leichttraktor(軽トラクター)は1930年に完成しました。のちにPAK36として知られる3.7cm対戦車砲は1928年から輓馬用(木製部品使用で低速でしか走れない)の生産が始まっており、それを戦車砲として備えていました。これも、いつの間にかイギリスが追い付かれてしまったことのひとつです。


 どうもドイツの新戦車がなかなか完成しないので、ソヴィエトはイライラしていた時期もあったようです。それでもこの協力で、3.7cm対戦車砲の技術が供与され、それをスケールアップした45mm対戦車砲はソヴィエト軍ライフル師団の主力対戦車砲として、大戦中盤に同口径の長砲身型ができるまで使われました。150mm歩兵砲も売り込まれましたが、もっとシンプルなものを望んだソヴィエト軍は、フランスの120mm迫撃砲を国産化して重歩兵砲に使い、ドイツ軍も真似して国産化しました。いま陸上自衛隊が使っている120mm迫撃砲のメーカーの合併元のひとつ、ブラント社の製品でしたが、もちろん現代の方が高性能です。


 世界大恐慌を経た1930年、ブリューニング内閣が立ちました。この内閣は混迷したドイツ国会で多数派を形成できず、憲法で法律に代わる大統領令を出すことが認められていたのを利用して政治を行いました。ですからヒンデンブルク大統領を通じて、軍部の意向を政府に通しやすくなったのです。すでに第1次大戦の応召兵は年配となっており、陸軍は何としてもヴェルサイユ条約の制限を破って、軍事教練を受けた成人男子を増やしたがっていました。ですから1930年から1933年にかけて、ヒトラーとNSDAPは参加しないが、今までになく再軍備・秘密軍備に熱心な政権が続き、とくに1932年のシュライヒャー政権は条約を破った多数の士官採用に踏み切ってしまっていました。


 こうした背景のもとで1931年、機械化に積極的なルッツ交通兵総監とその参謀長グデーリアンが相次いで任命されたのは、それ自体が機械化部隊拡大への上層部のゴーサインでしたし、ふたりはカマの運営にも関わりました。このころのグデーリアンについては、拙作『士官稼業~Offizier von Beruf~』「第6話 装甲部隊の胎動」で扱いました。


※日本陸軍にも気球兵・鉄道兵・通信兵をまとめた「交通兵」という兵科が存在した時期があり、3つはそれぞれ独立しました。


 1930年2月からルッツの参謀長就任までの1年半、グデーリアンは第3自動車大隊長で、これは装甲車中隊、模擬戦車中隊、対戦車砲中隊、オートバイ中隊から成っていました。本格的な砲兵はいませんが、オートバイ中隊はワイルド7ではないので降車歩兵として戦いますから、諸兵科連合部隊です。


※第1次大戦から、自転車で移動する歩兵部隊は世界中にありました。おそらく騎兵系の部隊をオートバイやサイドカーに乗せたのは、フランスが最初ではないかと思います。ドイツ軍でも騎兵の発展形と考えられていたようで、初期のオートバイ部隊訓練マニュアルには騎兵系の連番がついています。降車戦闘が前提ですから、高価な750ccサイドカーのオートバイ側もふたり乗りで、12人分隊がサイドカー4両で移動しました。


 さて、グデーリアンが創始したものは、実際には何だったのでしょう。Leichttraktorは4人乗りで、後のIII号戦車と比べると、車長が装填手を兼ねているのが違いでした。つまり専任の無線手を置くことはすでに考えられていました。ドイツ戦車は5人乗りに落ち着き、それに合わせた車内レイアウトになってゆくのですが、これもグデーリアン着任前に相当なところまで検討が進んでいました。


 1935年、ヒトラー政権下での再軍備は春以来公然化して、10月には3個装甲師団が創設されました。第2装甲師団長にはグデーリアン大佐が発令されました。グデーリアンの昇進履歴はなかなか特徴的です。


1915年 大尉

1927年 少佐

1931年 中佐(第3自動車大隊長当時)

1933年 大佐

1936年 少将

1938年2月 中将(第16軍団長発令直前)

1938年11月 快速兵大将(快速兵総監発令直前)


 1920年代のグデーリアンは政治的なやらかし言動の影響で教官職が長く、干されたというと言いすぎですが、一回休みを食らっていました。当初は懲罰的な色彩もあった自動車部隊転任が、おそらく自動車大隊長としてようやくプラスの評価を受けました。大佐になる前、ルッツに次いでカマの2代目責任者をやったとも言われます。自動車部隊の創始者というより、最優秀な一期生と見られていたのではないでしょうか。それも、ヒトラー政権成立前からです。


 ヒトラー政権発足当時、まだ装甲部隊と騎兵部隊の関係は詰められないままでした。フランスで騎兵が使うソミュア戦車が対戦車能力のある47mm砲を持っていたことはすでに触れましたが、1933/34年にドイツ陸軍がまとめた総合操典である『軍隊指揮』は、装甲車両に対抗するには「わが装甲戦闘車両を第一とし、さらに対戦車火器および砲兵を充当す」(第754)としています。戦車に対戦車能力をつけると言い切っているのです。拙作『 士官稼業~Offizier von Beruf~』ではこれを、「保有がバレたとき、防御兵器だと言い訳するためじゃね」と解釈したのですが、「砲兵の援護を前提とせず、自分で戦車とやり合わねばならない、騎兵的な戦車運用を考えていた」という解釈もできます。


 ドイツ軍における「装甲師団」「軽機械化師団」「自動車化歩兵師団」の関係は、まさにグデーリアンが本領を発揮した資源争奪バトルに発展していくのですが、それは次回といたしましょう。


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