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さらば戦車兵総監部

 第2次大戦初期のドイツ優良歩兵師団がそうだったように、第1次大戦時のイギリス歩兵師団は、騎兵連隊の分遣隊をもらって偵察任務につけていました。しかし前の項でご説明した事情で、騎兵連隊そのものがぐっと少なくなり、人を手伝っている余裕もなくなりました。前大戦から師団のほうで自転車中隊を組むなどして偵察隊を補っていたのですが、イギリス本土の危機が去った1941年1月になって偵察総監部(Reconnaissance Corps)ができ、歩兵師団の偵察隊整備が本格化しました。


 歩兵師団偵察大隊は、装甲車部隊(おそらくユニバーサルキャリアの補用あり)とトラック歩兵から成り、トラック歩兵は排除すべき敵が見つかったとき応援に出るものでした。選抜と訓練により、軽装備であっても積極的・攻撃的な態度が求められました。むかしハセガワが1/72で発売していたハンバー偵察車や、さらにその下位版2輪駆動のハンバー軽偵察車のように、イギリス陸軍は固定武装のない装甲車を多数生産していましたが、当初はこうした車両があてがわれ、次第に砲を備えた車両に変わっていきました。大戦途中から中隊などの名称を騎兵風に(カンパニーからスコードロンへ)変更し、偵察大隊も偵察連隊となりました。本部中隊(支援火器含む)と3個偵察中隊という構成は変わりませんでした。大戦末期に、機械化総監部に統合されて騎兵の仲間入りをしました。


 多くの騎兵連隊は、大戦が始まると巡航戦車やアメリカ戦車を装備しました。先の話になりますが、1944年のグッドウッド作戦に参加した騎兵たちは、自分たちがドイツ軍防御陣地への重騎兵突撃をやらされた気分であったかもしれません。いくつかの騎兵連隊は装甲車装備のまま、機甲師団や軍団司令部に配属されて偵察任務に就きました。


 さて、戦間期イギリス戦車部隊をめぐる最後のお話は歩兵戦車と巡航戦車の件なのですが、このお話は戦車兵総監部の末路……ええ、末路と関係があります。第12部分「フラーとマーテル」に書いたように、実験旅団の件以来、戦車兵総監部は「我が戦車兵と共同行動できる歩兵や砲兵はいないし要らん」という態度を見せ始めたのです。しかしこれは「陸軍全体に車両装備の恩恵を分かち合う」という暗黙の大前提に反していました。


 戦車兵総監部をハブって、別の枠組みで機械化を推進する方向へ、陸軍全体がそろそろと模索を始めました。Master General of the Ordnanceというポストは陸軍省側のもので需品総監といった響きがあり、中断した時期もありますが、初任は1415年です。参謀総長ら陸軍首脳と陸軍大臣ら政府首脳の最高会議だったArmy Councilにも出席権があります。1934年にこのポストに就いたのが、第7部分「カンブレー戦の位置づけ」でフラーたちの上官、戦車兵総監部初代指揮官として登場したエレスでした。すでに(工兵)中将でした。このエレスが着任間もない1934年、ヴィッカース社に「現代水準の装甲を備え歩兵支援ができる戦車」を依頼して、機銃装備ではありましたが、歩兵戦車マチルダIへの道が開けました。試作車完成は1936年でした。ちなみにこれも、フォードV8エンジンです。


 このエレスの依頼が、参謀本部の耳打ちによるものだと書いてある本もあります。つまりヴィッカース6トン戦車を、より本格的な戦車の代わりにはならないとして戦車兵総監部が支持しなかったのも不採用の一因になったので、戦車開発の長すぎる空白に参謀本部が業を煮やしたのだというのです。ヴィッカース6トン戦車と同じ1928年に完成した17トン余りのA6戦車は、予算の関係で試作が中断され、1929年にA6から別の改良を加えた中戦車Mk.IIIも開発中止となっています。こうした開発ラインに戦車兵総監部はまだ期待をかけていたのでしょう。


 たしかにヒトラー政権が登場して、イギリス陸軍は早急に大陸派遣軍の構成を決め、それに合わせた軍戦備をする必要がありました。1935年にモンゴメリー=マシングバード参謀総長が署名した「The Future Reorganization of the British Army」という文書があって、そこに示される大陸派遣軍の構成には歩兵4個師団と、それを支援するarmy tank battalion4個大隊が含まれていました。ここに歩兵戦車が来るわけです。


 この文書には大陸派遣軍の残りとして、mobile divisionが挙げられていました。この機動師団は「装甲車2個連隊、機械化騎兵旅団1~2個(おそらく2個)、戦車1個旅団、自動車化騎砲兵2個旅団、その他支援部隊」という構成でした。いままでのご説明から、それぞれのイメージはだいたい浮かびますが、このままだと装甲車と軽戦車とキャリア、そして(まだ動く限りで)紙装甲の旧式中戦車という構成になってしまいます。ここで巡航戦車が、その空白を埋めることになりました。


 1928年に陸軍省にThe Mechanised Warfare Boardという陸軍諸機関と関連産業界の会議ができ、Sydney Capel Peck少将が着任しました。ペック少将は砲兵系で技術一般に明るく、軍事代表団などで国際交渉もこなしてきた人ですが、特に車両に詳しいわけではありません。このとき、ペックは陸軍省のDirector of Mechanizationに併任されました。陸軍省の機械化に関係する技術研究部門を統括する立場であったようです。1933年に退役していますがDirector of Mechanizationの後任者はわかりません。1936年になって、A.E. DavidsonがDirector of Mechanizationとなりました。第2次ボーア戦争で蒸気牽引車部隊の現地指揮を執った人のようです。


 1936年、マーテルはその下でAssistant Director of Mechanizationに任じられました。1936年にソヴィエトを視察してクリスティー型転輪に魅かれ、クルセイダー巡航戦車につながる開発ラインを推進しました。大戦が始まるころ前線指揮官に戻りアラスの戦いに参加しましたが、フランス脱出後は機械化総監部指揮官として後方で過ごしました。


 最初の巡航戦車となった「Tank, Cruiser, Mk.I」は1934年に仕様提示され、1937年に量産契約が結ばれました。クルーザータンクという正式名称が1937年についたのであれば、それは海戦になぞらえるのが好きなマーテルの仕業であったかもしれません。「バトルタンクを買ってもらえない時代の巡洋艦戦車」といったニュアンスの。


 その実質的な内容はマーテルの着任前、1934年に参謀本部がヴィッカース社に提示した「中戦車シリーズと同等の紙装甲でいいから同等の砲(1934年11月に新式で少し有力な2ポンド砲に変更)を積み、速度は譲らず、しかしどうにか安く」という仕様に表れていました。もう欧州情勢はいつ火が付くかわからず、しかし1928年以降、試作車がどれもこれも予算超過が明らかで開発中止になっていたのです。


 もしもっと早く命名され、命名にマーテルがかかわっていないとしたら、これは「騎兵にふさわしい快速戦車」というニュアンスであったかもしれません。わらわらと誕生した騎兵系機械化部隊が巡航戦車とアメリカ戦車で衣替えする半面、戦車兵総監部系の戦車連隊は、もっぱら歩兵戦車をあてがわれるようになってゆくからです。もちろんバレンタインやチャーチルのように、順次歩兵戦車の中でのグレードアップはあったのですが。陸軍の総合的な機械化に協力しない態度を取った結果、それを指導する実権は他の組織とポストに移されました。戦車兵総監部は孤立して、戦時にも20個連隊が4個増設されるにとどまり、1939年4月には機械化総監部の傘下に入ることになりました。



付記 ハウス99~100頁に、ブロードという指揮官(Sir Charles Noel Frank Broad)が出てきます。1929年から30年代前半にかけて戦車関連の重要なポストを占めましたが、同僚との口論が多いなど参謀本部の評価を低くする言動がありました。トドメに不運であったのは、1941年にビルマ戦域で指揮官をしていたことで、敗走の責任を公式には問われなかったものの、1942年に退役して以後呼ばれない結果になってしまいました。最終階級は中将。

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