フラーとマーテル
フラーは25才で参謀大学校に入り、修了後はもっぱら参謀として勤務し、少なくとも少佐以上では部隊指揮官を経験しませんでした。せっかく追加教育を受けた士官がリソースとして後方で大事に使われるのは、多くの国でよくあることです。
フラーは戦後も戦車兵総監部に残り、厳しく予算や部隊規模が制限される中で、一種の論客となりました。当初、その主張の基本になったのはPlan 1919でした。高速戦車で敵後方に突入して、司令部など中枢を一突きという構想です。
ところがやはり、中戦車Dの「お気持ち仕様書」を現実にしていくと、当時の技術では仕様書通りの高速戦車がどうしても作れませんでした。試行錯誤の中から、開発に加わったヴィッカース社の中戦車Mk.Iが生まれるきっかけはできたものの、ついに量産に入れる中戦車Dは生まれず、海軍用の3ポンド(47mm)砲を備え対戦車能力も高い(海軍の徹甲弾しかないので他の目標は機銃頼り)中戦車Mk.Iは、90馬力のエンジンで(信頼性は問わないものとして)良好な機動性を発揮しましたが、装甲は6.25mmでした。とにもかくにも完成した中戦車Mk.Iと、小改良を加えた中戦車Mk.IIで、1920年代後半のイギリス戦車兵総監部は未来を探していくことになりました。
第4部分「戦車の誕生(1)」ですでに、人々が戦車に求めるものは色々あったのだという話をしました。似たような話ですが、砲兵だって歩兵だって輜重部隊だって、第1次大戦で車両の活躍を見て、「自分たちも自動車化したい、任務に適した車両が欲しい」と当然考えたのです。
第1次大戦の戦車兵総監部でフラーを補佐する情報参謀だったマーテルは、発想力豊かに、次々にアイデアを出す人でした。機動力と装甲を備えた戦車を軍艦に例えるイメージは、どうもマーテルが盛んに使って、フラーたちに伝染したようです。フラーはこの例えを多用した結果、走行しながら一斉射撃するなど、軍艦にならった戦い方を戦車に求め、後輩のホバートが本当に戦車部隊にそういった訓練をさせて不評を買うなど、悪い影響も残しました。
しかしそれは戦車師団の現物(?)ができた1930年代以降の話で、1920年代のマーテルと言えば、外せないのはタンケッテ(豆戦車)です。自宅のガレージで、自分ひとりで機関銃を前に撃てるだけのひとり乗り戦車を作ってしまったのです。1925年のことでした。歩兵の機械化……もう少し現実的なキーワードを選ぶなら、突撃する歩兵の保護と火力強化を目指したものと考えられます。
ジョン・カーデン退役大尉は、イギリス陸軍に勤める前も後も、次々に広義の自動車を開発しては売り払って次の開発にかかるという人でしたが、やはり小さな自動車会社がうまくいかなかったヴィヴィアン・ロイド砲兵大尉といっしょに会社を興し、カーデン=ロイド豆戦車を誕生させました。射撃と操縦を分担するためふたり乗りに大型化していく過程でマーテル豆戦車の系譜を継ぐモーリス=マーテル豆戦車は脱落し、(改修はあったようですが)フォードT型エンジンで安く快調に走るカーデン=ロイド豆戦車が生き残りました。このベンチャー企業はヴィッカース社に買われ、カーデン(とロイド)はそのまま雇われて、ヴィッカース社の戦車開発を支えました。1935年に彼が事故死したことは、イギリス戦車開発を巡る混乱に、多少の影響はあったのでしょう。しかしそれらは少し後の話です。ここではむしろ、いったん戦車の専門家ではないキャリアに進みかけていたマーテルが注目を浴びて、陸軍の機械化で再び登用される道が開けたことだけを指摘しておきます。
フラーの話に戻る前に、もうひとりご紹介したい人物がいます。そのためには「空軍所属装甲車部隊」という不思議なイギリス軍部隊について触れなければなりません。「RAF Armoured Car Company」で英語版Wikipediaに項目も立っています。
この時期のイギリス軍が抱えた課題のひとつに、Imperial Policingがありました。委任統治領まで増えてしまった植民地で、衰えつつある国力の限りでパックス・ブリタニカを守るのです。といっても友好諸部族ないし現地政府は一定の治安部隊を持っているのであり、求められているのは有事の支援です。ですから航空部隊で(敵機はいないのですからホーカー・ハート、ホーカー・オーダクスのような複座軽爆ないし多用途機が活躍し、爆弾の代わりに籠を下げて空輸までやりました)できるだけ広範囲をカバーし、道路事情が許すならば装甲車部隊が加わって、それらは司令部維持費を節約するために空軍地域司令部の指揮下に入りました。
こうした枠組みで、イラクで装甲車部隊を指揮する経験を積んだのがリンゼー中佐(最終階級は少将)です。その奔走で、他国で言えば増強連隊サイズの実験旅団ができ、車両部隊の諸兵科連合を試すことになりました。大兵団の指揮をやったことがないフラーでしたが、代表的な論客でしたからその旅団長に推されました。ただし演習だけやっていればいい部隊群ではないので、フラーは歩兵旅団長を兼ねることとされました。
ところがフラーは、旅団司令部に特別な追加人員配置を要求して容れられず、中に入ってくれる人があって、ひとまず他の司令部の幕僚になることで収まりました。しかしこんな前歴を残してはその次のポストはなく、1933年に少将で軍歴を終えることになりました。実質的に、実験旅団でのことがフラーの軍歴を閉じたのです。
多くの本では実験旅団設置のことだけ触れられ、何をやってどうなったかは書かれていません。1928年度まで2年間続いた演習では、急造諸兵科連合車両部隊の不出来(寄せ集めながら、工兵隊も砲兵隊も車両で移動できたようです)を示す結果が多数出てきた、とハリスは簡単に触れています。
当時のイギリス陸軍参謀総長は、フラーを旅団長にしようとしたミルンからモンゴメリー=マシングバードに交代するところでした。乗馬が大好きで、それゆえに騎兵支持者であり機械化の障害とも評されますが、長い軍歴のあいだに機械化部隊への態度は変化したようで、気難しいホバートが退任間際のモンゴメリー=マシングバードの協力姿勢に感謝した記録もあるそうです。
ともあれ1928演習年度が終わった後、モンゴメリー=マシングバードは(積極的に行動する諸兵科連合部隊ではなく)戦時生産が整わない開戦初期の半年間を念頭に、戦車隊が歩兵や騎兵による防御戦闘を支援する方策をもっと研究すべきではないかとコメントしました。これはヒトラー政権成立直後のイギリス機甲部隊にある種の化学反応を起こす視点なのですが、それはそのときに。このころまだフランスは歩兵支援くらいしかできないルノー戦車隊をどっさり持っていたのが現実ですから、まあ無難な見方ですね。
この2年間の実験がイギリス陸軍に引き起こしたのは、改革ではなく論争でした。フラーたちは「もっと純粋な機械化部隊でないと連合の意味はない」という趣旨の文書を出し、一部の文書では戦車部隊(支援用の3ポンド砲搭載戦車を含む)と対戦車砲部隊だけをそれに含めました。これに対し、リンゼーの影響を強く受けた陸軍省の文書では諸兵科連合部隊について積極的な記述を避け、戦車部隊は騎兵とともに、旧来の騎兵の役割を踏襲するように書かれていました。
少し先走ると、1934年の演習でフラーの愛弟子ホバートが率いる戦車旅団が歩兵旅団や砲兵旅団と臨時機甲師団のようなものを組み、全体の指揮をリンゼーが取って歩兵師団+騎兵隊と対抗演習をやりました。ホバートが戦車旅団単独での急襲をやりたがるのでリンゼーが折れましたが、歩兵+騎兵を出し抜けるほど猛進できず、渡河地点に強い圧力を受けて臨時機甲師団は意図を達せず敗北とされました。この結果は(ホバートではなく)リンゼーの指揮が拙劣であったとされ、リンゼーは戦間期から第2次大戦にかけて閑職を転々とすることになりました。
陸軍省と戦車兵総監部がバチバチやり合っている間に、騎兵と砲兵もそれぞれの問題と取り組んでおり、両者が交錯して1930年代に新たな展開を見せるのですが、それは次の項で。
カーデンの協力者ロイド大尉のことを、何を読んだのか自分でもわかりませんが「女性のスポンサー」と書いておりました。指摘を受けてググってみると1928年に夫人から離婚訴訟を起こされた公的記録が残っており、間違いなく男性です。ヴィッカース退社後に開発したロイドキャリア(化学戦用車両、のち砲牽引車)はいくつかキットが出ていますね。ご指摘ありがとうございました。