戦争が終わって軍縮は生まれた
「世の中の在り方」を変えようと思えば、世の中の多くの人々に、今までの生き方・暮らし方を変えさせねばなりません。意見が合わないなら、屈服させて強制しなければなりません。こうしたことは、宗教的情熱に浮かされた戦争では常に起きますし、1848年の「諸国民の春」のように、(同床異夢であっても)掛け声を合わせて熱情的な蜂起が連鎖することもあります。
第1次大戦から10年余り、アメリカ・ヨーロッパを中心として、世界を軍縮・戦争防止に向けた政治運動の波が襲いました。婦人参政権の獲得がこの時期に並行して実現していたことは、偶然ではないでしょう。男性に独占されていた政治の打破として、国家の最もマッチョな部分である軍事を掣肘しようという発想は自然です。アメリカの禁酒法に代表されるように、アルコールや麻薬の禁止・制限に向けた運動も、こうした「世直し」の潮流に数えることができるでしょう。
日本は1918年の米騒動の後、男性だけとはいえ普通選挙法が成立する一方、治安維持法が国民を縛り始めたのも1925年でした。細かいことを言えば、社会を安定させるために内務省社会局が物価問題に取り組み、中央卸売市場や公設小売市場の設置を後押ししました。欧米に渦巻いた「世直し」の潮流は、横目に社会主義革命を見て、革命によらない社会改良(少なくとも、安定)を模索したものであったでしょう。まあ社会改良には至らぬまでも、日本もロシア革命の波及を気にかけていたのは間違いありません。
1928年のパリ不戦条約をはさんで、ワシントン・ロンドンのふたつの海軍軍縮条約が結ばれたことは皆様ご存じかと思いますが、1932~34年に陸軍軍縮を巡るジュネーブ一般軍縮会議が行われたことは、日本代表も(連盟脱退後も)参加していたにもかかわらず、あまり語られることがありません。成果なく失敗したからでしょう。
ドイツはこの会議で、再軍備を認めてくれるよう繰り返し要求しましたが、結局認められませんでした。イギリスはすでに、すっかり戦災と戦費でビンボになったこともあり、陸軍の予算をきりきりと削っていました。これはイギリスの戦車政策に大きな影響を与えましたから、項を改めて述べたいと思います。アメリカも例によってというべきでしょうが、平時の陸軍はすっかり縮めてしまっていましたから、「削る余地のあるのはフランス陸軍くらい」だったのです。当然、「フランスには代わりに何をやるのか」が問題であり、その候補としては「アメリカのさらなる戦時負債減額」または「有事にフランス防衛に手を貸すという英米の確約」くらいしかありませんでした。フーバーも世界大恐慌の処理を巡って追い詰められ、ルーズベルトに大統領選で負けるところでしたから、気前よく振舞うことができなかったのです。
この協議を破談にしたのは、直接的には1933年のヒトラー政権成立に始まる各国の軍備増強であったとしても、「まとまらないままそこまで引っ張った理由」はといえば、「平和への貢献が政治的得点につながる世界の潮流があったから」止められず、しかし合意を実現させる負担をイギリスもアメリカも引き受けようとしなかったからです。そのことは拙作『士官稼業~Offizier von Beruf~』の「第11話 何も決まらない夏」「第12話 シュライヒャー政権と第二次再軍備計画」で描いた通りです。 https://ncode.syosetu.com/n6209gw/11/
こうした圧力で、フランスがすでに持っているものを減らすことは、おそらくありませんでした。買ってくれる国があれば売り付けたいルノーFT17戦車の不良在庫や(忌々しい日本陸軍の国産化決定!!)、M1897野砲はそのままでした。しかしFT17戦車や後継軽戦車には誰が見ても対戦車能力がないところ、対戦車能力を備えた重戦車の開発と配備が遅れに遅れたことは、国際圧力の影響もあったかもしれません。それほどではないとしても、新鋭の47mm対戦車砲や、その長砲身型を備えるソミュアS35騎兵戦車はもう少し早く登場し、数が揃ったかもしれません。ただ、ドイツが条約違反の装備を持っているのはおそらくいくらかバレていたとしても、持っていることを見つかれば即アウトな戦後開発兵器の戦車を大量にため込むことは考えにくいし実行もしづらく、フランスの「対戦車能力の向上」が戦間期に進まなかったのはむしろ当然のように思えます。
フランス陸軍にとってもっと大きな障害はおそらく、国民にとっての陸軍不信でした。普仏戦争での不首尾を国民が覚えているかはともかく、徴兵年限3年の精兵たちが敗北のあげく1917年には反乱寸前の雰囲気を醸し、大戦末期の若年徴募兵たちが勝利をつかんだ[ように国民からは見える]のですから、政府はとうとう1928年には徴兵年限を1年としてしまい、1935年まで2年に戻さなかったので、予備役兵士の兵質を落とす結果となりました。その「2年目兵士がほとんどいない」常備師団も本土には20個師団しかおらず、1930年代のドイツに強く出られない一因となりました。
イギリス機械化部隊の話は長くなるので項を改めるとして、イギリス空軍の話をしておきましょう。結果的に効果がなかったのであまり語られませんが、イギリスはまずツェッペリン飛行船で、次いでゴータ複葉爆撃機で、ロンドンなどへの本土爆撃を受けました。それこそ小説のように、日曜に人々が集まった教会へ爆弾が降ってくるようなこともあったのです。大戦後半に首相となったロイド=ジョージは、本土防空の責任が陸軍航空隊と海軍航空隊のいずれにあるのかはっきりしない状況が気に入らず、陸海軍を押し切って空軍を独立させてしまいました。
ロイド=ジョージは政敵の多い人でしたから、平時になると連立解消どころか自由党の分裂まで招いてしまい、戦間期は保守党内閣と、保守党が最も多く議席を持つ連立内閣が政権担当する時期がほとんどになりました。そしてこれらの内閣も、次の戦争は爆撃目標など細かいところはともかく、互いに大型爆撃機を駆使したものになるというビジョンを持ち、空軍、海軍、陸軍の順に予算面で重視する傾向がありました。ドーバー海峡を渡らせなければ、陸軍の出来不出来はフランスやベネルクス諸国の運命にだけ関係することで、本土は守られます。
海軍には空母艦載機の「海軍艦載機航空部隊(1924年から空軍のfleet air arm、1939年から海軍所属となりair branch of the Royal Navy)」があり、空軍沿岸警備軍団の水上機・飛行艇などがあるので、陸軍も地上支援専門部隊を作ってくれるよう希望していましたが、空軍は事実上ゼロ回答を貫き、第2次大戦における地上支援任務のほとんどは戦闘機軍団の一部が行いました。ずっと先のことまで言えば、敵陣地であれ戦線後方の移動妨害であれ、高い生残性を見込めるのは爆弾やロケット弾を積んだ戦闘機しかなく、地上との通信についてもバトル・オブ・ブリテン期間の蓄積もあって、器材・人員が充実しているのは戦闘機軍団であったのです。
※お気づきのように、イギリス空軍のcommandもいくらか「兵科」としての性格を持ちますが、司令部としての戦闘命令も出しますから、多くの先例にならって「軍団」と訳します。
1940年のイギリス大陸派遣軍は指揮系統に諸事情がありすぎ、陸軍と空軍の連携は限定的でした。ロンメルが北アフリカで暴れ始めたころ、日本参戦によって中東にいたイギリス航空部隊の相当数がビルマなどに引き抜かれてしまいました。ですからイギリス空軍の地上支援システムは本土の実験部隊で試されたことをもとに、モントゴメリーの時代になってから北アフリカでようやく確立し、持ち帰られて大陸反攻に使われることになりました。