騎兵は死なず(と日記には書いておこう)
さてそのころ中東では。
ハウスの著作で「第二次アルマゲドン会戦」と呼ばれている戦いは、日本語版Wikipediaでは前後の期間も含め、「メギッドの戦い」という項目で解説されています。英語版では「Battle of Megiddo (1918)」です。
すでに西部戦線の大勢が決していた1918年9月、イギリス連邦軍のエジプト遠征軍はエルサレムを奪取し、ドイツ・アジア軍団と将軍たちの支援を受けたオスマン帝国軍を北に押し、戦線は現在のテル=アビブからエルサレムの北20km前後まで東西に延びていました。
オスマン帝国側の戦線東半分は山地であり、その東にヨルダン川が南北に走っています。イギリス軍はこのヨルダン川渓谷に沿って攻めるという欺瞞情報を流し、海岸沿いに戦線を打ち破る計画を巧みに隠しました。
オスマン帝国軍を指揮するザンデルス将軍はガリポリの英雄でしたが、1917年以降に進化(深化)した西部戦線の塹壕戦はせいぜい伝聞として知るだけでした。第2防衛線を敷いていなかったことは傷口を広げる結果となりました。
イギリス連邦軍はクリーピングバラッジなど最新の砲兵戦を仕掛け、海岸に近い部分のオスマン帝国戦線に大穴を開けると、歩兵は北東方向へ押して突破部側面を支え、騎兵師団と装甲車部隊がハイファへ向けて海岸を北進し、一部は山道を越えて、北東の鉄道中継地点を狙いました。オスマン帝国軍部隊は大規模に降伏し始め、10月にかけてベイルート、ダマスカスなど近隣主要都市が次々に陥落する端緒になりました。
(空軍の有効な地上支援の下)騎兵と装甲車が目覚ましい活躍を見せた戦いでした。ハウスはこの勝利体験が、軽戦車だらけのイギリス機甲部隊(第2次大戦序盤)を作り出し、騎兵と装甲車だけでピューっと行けてしまったことで、機甲部隊の諸兵科連合軽視にもつながったと考えているようです(80頁)。
さてどこから突っ込みましょうか。まず第4部分「 戦車の誕生(1)」で触れたように、当時の装甲自動車はどこでも走れるものではありません。テル=アビブから港町ハイファ方面へ、比較的良い道路が延びていたことは装甲自動車に好都合であったでしょう。イギリス騎兵連隊は戦間期に機械化旅団へと改編されていきますが、最初の2個連隊が装甲車装備になった後、何年も機械化が止まってしまいました。インドやアフガニスタンのように、道路事情の悪い地域の治安任務は、当時の装甲自動車には無理だったからです。
やがて再開された騎兵連隊の機械化は、軽戦車と各種キャリア(のちユニバーサルキャリアに一本化)がカギになりました。それは戦間期事情として後に取り上げたいと思います。
二点目。第5部分「 戦車の誕生(2)」で触れたように、突破後の追撃は騎兵が典型的に負う任務であり、「メギッドの戦い」でもそうでした。しかしその一方、決戦において有力な敵戦列に突撃をぶちかまし、勝利を決定する「決戦兵科」としての騎兵を求める軍人も、世界中にいました。このことについては別の文脈で、何回か取り上げています。
あたらしい軍事戦略のはなし ep.4 威力偵察と騎兵(後) https://ncode.syosetu.com/n5589fm/4 ep.8 騎兵の機械化と脱皮 https://ncode.syosetu.com/n5589fm/8
例えばワーテルローの戦いでは、プロイセン軍出現直前に敢行され、統制なく深入りしてバラバラになってしまったアックスブリッジ中将の突撃、プロイセン軍を視認して決戦をすぐ挑むしかなくなったナポレオンの命によるネイ元帥の騎兵突撃がありました。18~19世紀であっても、騎兵突撃は成果なく失敗すること、成果はあっても損害が甚大であることがよくありました。
騎兵が主導する諸兵科連合部隊が戦車や装甲車を加えたとき、決戦への介入を旨とする重騎兵としてふるまうか、(偵察と)襲撃・追撃を担当する軽騎兵を演じるかは、その国や軍での通念と歴史に影響されます。フランスやドイツでは重騎兵への志向が残り(しかし第2次大戦では諸事情で実現せず)、アメリカには重騎兵の伝統が全く存在せず、イギリスは歴史と政治的支援者に事欠かない騎兵連隊を機械化する泥沼にはまって、そこのところを詰め切れないまま大戦に突入したようです。
三点目。第1次大戦ではよく見られたことですが、後方へ侵入したイギリス空軍機が地上を機銃や小型爆弾で盛んに攻撃しました。砲兵の隊列など見つけようものなら、まず先頭車両と最後尾車両を撃破し(どちらかに指揮官がいることが多く、全体への退避命令が出せなくなるため、独断で退却できない車輛群は立ち往生します)、反復して攻撃を加え壊滅させました。後者の戦術は、第2次大戦の地上攻撃部隊でBf109E戦闘機に乗っていたパイロットの回想にも、まったく同じものが出てきます。
この地上支援がなぜ再現できないのか……という不満は、特にJu87急降下爆撃機に強い印象を与えられた第2次大戦のイギリス軍人に広く見られました。第2次大戦の話はいずれするとして、ここでは「第1次大戦にあって、第2次大戦ではなくなってしまった事情」にだけ触れておきます。
第1次大戦の飛行機は、遅かったのです。滞空時間が長く、風防がなくても搭乗員が耐えられました。だから複座機の後部搭乗員が旋回機銃で空戦をやり、地上も撃ち、なんなら小型爆弾を足元から持ち上げて投げることすらできたのです。遅いので、戦場での滞空時間も長く取れました。
風防の中にいると、前方以外を撃つには旋回銃塔の類が必要です。動力銃塔で速く回すことはできても、飛行機自体が速く飛んでいると、人間にはうまく狙いが付けられません。全世界の航空部隊が同じような夢を見て、十三試陸戦(のち月光に発展)や、世界に冠たる駄っ作機デファイアント戦闘機が生まれましたが、しばらく「もっぱら動力銃塔で戦う戦闘機」とともに「前に撃たない地上攻撃機」の系譜は途絶え、ベトナム戦争期になってAC-47のような鬼っ子が生まれるのを待つことになりました。
※第2次大戦前半に使われたイギリスのハンプデン(ハムデン)爆撃機は吹きっさらしの後部銃座のために電熱服を装備し、電熱服に故障があるときは機長判断で任務を中止してよいことになっていました。
エンジンパワーが上がって大型爆弾を積めるようになりましたが、大型爆弾を抱えたまま着陸すると危険ですから、当てもなく敵を探しに行く任務は非効率になります。
第2次大戦期の地上攻撃は、急降下爆撃・ロケット弾・大口径機関砲といった「高速の機体から狙いがつけやすい」武器、地上部隊や先行偵察機との報連相、そしてもちろんそれを支える通信組織と器材といった、航空機高速化時代への新工夫に支えられたものでした。もちろんJu87そのものも含めて、多くの低速な地上攻撃機が、高速な敵戦闘機や進歩した対空火器に狩られるリスクを負って任務に就いたのですが。
第四に、もちろん、オスマン帝国軍の機動力や通信能力の劣位、そして数的劣勢がイギリス連邦軍に「西部戦線では望むべくもないチャンス」を作り出したことも確かです。強ければだいたい勝つのです。