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7 今見たことは忘れなさい

 空気が少し湿っている。

 まだ梅雨入りは宣言されていないが、そろそろ梅雨の時季となる。梅雨の間は髪の毛の手入れが大変なので、女性にとってはとても悩ましいものだ。

 紗苗(さなえ)は学校から最寄りの駅までの道のりを歩きながら、そんな事を考えていた。

 これから麗美(れいみ)を助けに行くと言うのに、些か緊張感に欠けているのは紗苗の性格なのかも知れない。紗苗は肝が据わっているのだ。

 紗苗と違って翔太(しょうた)の表情には、緊張が窺える。紗苗はそんな翔太の表情を眺め、小さく笑った。

「会長、どうしたのですか?」

「あ、ごめんなさい。吉村くんの顔を見てたら、つい――」

 翔太が動揺して顔を赤らめる。

「ぼ、ぼ、僕の顔に何かついていますか?」

「いえ、何もついていないけど。吉村くん、緊張してるな――と思って」

 紗苗がまた小さく笑う。

「そ、そりゃ、緊張しますよ」

「そうよね……これから佐藤さんを助けに行くことを考えると、緊張もするよね」

 紗苗は得心したように首を縦に振る。

「いえ、そう言うことではないのですが……」

 翔太が頬を染め、顔を伏せる。

「どう言うこと?」

 紗苗が首を傾げながら、翔太に尋ねた。

「緊張しているのは事実ですけど、それは会長と一緒に居るからです」

「私……そんなに怖い?」

 表情が冷たいとはよく言われるが、私はそんなに相手を怖がらせるような人間だったのか――紗苗が思わず項垂れる。

「いえ、そうではなくて、その……視線が……」

「視線?」

「なんか、恥ずかしいというか、怖いというか。分かってはいましたが、会長と居るとこんなに視線が集まるものなんですね……」

 通りの至る所から自分たちに視線が注がれている。紗苗は衆目を集めることに慣れているが、翔太は慣れていないのかも知れない。翔太も外見は良い方なので、視線を集めることはあるだろう。しかし、今翔太に集まっている視線は違う種類のものに違いない。

 紗苗は、以前清孝が苦笑しながら発した言葉を思い出した。

『真澄もそうだけど、紗苗とこうして一緒に歩くと周囲からの視線が凄いよな。男から嫉妬や憎悪の視線が飛んでくる。今はもう慣れたけどな』

 紗苗は翔太の横顔を眺めながら、清孝と同じような状況になっているのだろうと推測した。


「今更ですけど、僕たちだけで大丈夫ですかね?」

 翔太が心配するのはもっともである。相手は(ずる)い大人なのだ、中学生二人で麗美を助け出せるのか分からない。最悪の事態を想定して手を打つべきだろう。

「そうね。保険を掛けておきましょう」

 紗苗はそう言うと、ポケットからスマホを取り出して口許を緩めた。

 

 



 紗苗たちは二つ隣の駅で電車を降りると、指定された場所へ向かった。

 その場所は駅前にある雑居ビルの一室、三〇三号室。部屋番号から、三階の部屋だと分かる。

 雑居ビルの一階はコンビニエンスストアが店を構え、その横にビルの入り口があった。ビルにはエレベーターもあるが、最上階で止まっている。

「階段で行きましょう」

 紗苗が狭い階段を登り始めると、後に続いた翔太は思わず顔を逸らした。

 階段の勾配が急なこともあり、紗苗の白く形の良い脚が翔太の視界に飛び込んで来たのだ。おまけに、少し屈めばスカートの中が見えそうな状況である。

「か、か、会長! エレベーターにしませんか?」

 翔太が顔を赤くして嘆願した。

 紗苗は後ろを振り返り、横を向いて顔を赤らめている翔太に気付くと、慌ててスカートを押さえる。

「み、みみ、見た……?」

 紗苗が顔を真っ赤にして、睨むような視線を翔太に向ける。

「見てません! 見てません!」

 翔太がちぎれる程の勢いで、首を横に振った。

 紗苗は翔太が真面目な男子で、嘘をつけないことを知っている。生徒会役員として、一年以上関わって来た仲なのだ。見ていないと言うのは本当だろう。

 紗苗はコホンと一つ咳をして、「エ、エレベーターで上がりましょう」と翔太の提案を受け入れた。


挿絵(By みてみん)


 エレベーター内では羞恥で顔を赤くしていた紗苗だが、三階に着くなり表情が引き締まる。

 凛々しさを醸し出す紗苗を見て、翔太も拳を強く握り締めた。

 二人は指定された部屋の扉の前で足を止めると、互いに顔を見合わせて頷く。

 表札には、『芸能事務所キラキラ』と書かれていた。どうやら、紗苗をスカウトしに来た事務所とは異なるようだ。

 紗苗が呼鈴を押すと、少しして応答があった。

「はい?」

「山川です」

 紗苗がそう答えると、ドアが開いた。

 ドアから顔を覗かせたのは、派手な柄のシャツを着た二十代の若い男だった。男は紗苗を見るなり、茫然と立ち尽くしている。

「あの……」

 男は紗苗の声で我に返り、「そっちは?」と翔太に視線を向ける。

「私の友人です。一人で来いとは言われてませんので」

 男はそれ以上追求する事なく、二人を中に入れた。



 紗苗たちは急拵(きゅうごしら)えと思われる応接室に案内された。この事務所が用意されたのは最近なのだろう。調度品が最低限の物しかない。

 紗苗たちが入室すると、応接のソファーに座っていた麗美が顔を上げ、紗苗を見るなり「会長ぉ――」と涙声で叫ぶ。

 麗美の向かい側には、花柄模様の背広を纏った三十代と思われる男が座っていた。なんともセンスの欠片もない、ダサい服装である。この事務所に居るのは、若い男と目の前にいる三十代の男だけのようだった。

「ようこそいらっしゃいました。山川紗苗くん」

 男は和かな表情で紗苗を迎え入れるが、直ぐに表情が固まる。

「何か――?」

 紗苗が訝しげな眼差しを男に向けた。

「ああ、ごめんごめん。君が想定以上の可愛さだったので、ちょっと驚いてました。さぁ、座って下さい」

 男が紗苗たちにソファーを勧める。

 紗苗たちが麗美の隣に腰掛けると、男は名刺を取り出して紗苗に差し出した。

「私は、この芸能事務所の代表をしている谷口と言います」

 紗苗は受け取った名刺を一瞥して、ローテーブルに置く。

「それで早速ですが、彼女がお金を借りていると言うのは本当ですか?」

 紗苗は隣で項垂れている麗美に顔を向けながら、谷口に聞いた。

「ええ、本当です。そうですよね、佐藤さん?」

「はい……」

 麗美が弱々しく同意する。

「佐藤さん、借りた二十万円はどうしたの?」

 紗苗が麗美の顔を覗き込む。

「お金は……受け取ってないですぅ」

「どう言うこと?」

「彼女のプロモーション費やレッスン料として、私たちが立て替えたのが二十万円と言うことです」

 紗苗の疑問に谷口が答えると、翔太が口を挟む。

「ちょっと待ってください。その費用ってタレント側が負担するものなのですか?」

「大手事務所ならいざ知らず、小さい事務所ではよくある話です。こちらもビジネスなのでね。売れるかどうか分からないタレントに投資はできません」

 谷口が諭すように答える。

「ビジネスと言うのは分かりますが、彼女を勧誘する時にそう言う説明はされているのですか? 佐藤さん、どうなの?」

 紗苗が麗美の方に顔を向けると、麗美は首を横に振りながら「あったかも知れませんが、覚えてないですぅ。それにレッスンなんてまだ受けてません」と涙ぐむ。

 谷口が顎で合図をすると、後ろで待機していた若い男がバインダーを谷口に手渡した。

「佐藤さんは覚えてないようですが、このように契約書がありますので」

 谷口がバインダーを開いて、契約書を紗苗に見せた。

 契約書には、事務所が立て替えたプロモーション及びレッスンの費用を麗美が支払わなければならないと記されている。ただ、プロモーションやレッスンの有無に関わらずとなっているのは解せないが、契約書には麗美のサインと母印がされていた。

「佐藤さん、契約書をちゃんと読んでいなかったのですか?」

 紗苗が呆れ顔を麗美に向けると、麗美が紗苗に(すが)り付く。

「ごめんなさいですぅ。芸能人になれると舞い上がって読んでませんでしたぁ。うわあああん」

 紗苗がため息を吐く。

「確かに契約書を読む限り、彼女に支払いの義務が発生するような内容ですね」

「そうでしょう? さて、どうします? 貴方に払えますか?」

 谷口が狡猾な笑みを見せた。

「払えないと言ったら?」

 紗苗が凛とした眼差しを谷口に向ける。

「その場合は、こちらの条件を一つ呑んでもらいましょうか」

「条件?」

「貴方に、私が紹介する芸能事務所と契約を結んで貰います。それで佐藤さんへの請求は破棄しますよ」

「何故、この事務所ではなく、紹介する事務所なのです?」

 紗苗が眉を寄せる。

「私どもでは、貴方を上手に売り出せません。貴方を上手に売り出せる事務所に紹介させて頂きます」

 恐らく、この事務所は芸能事務所とは名ばかりで、麗美のように女の子を騙して金品を巻き上げるか、他の事務所へ斡旋して紹介料を貰っているのだろう。斡旋先も芸能事務所とは限らない。それこそ如何わしい店かも知れない。


「ふざけるな! そもそも、こんな契約書、インチキじゃないか!」

 翔太がローテーブルを叩き、谷口を睨んだ。翔太がこれほど声を荒らげるのは珍しい。

 谷口はそれまでの和やかな表情を一変させ、「生意気なことを言うな。これはビジネスなんだ。契約書にサインした時点で、内容はどうあれ合法なんだよ」と翔太に凄む。

 紗苗が谷口の言葉に静かに頷く。

「その通りですね。でも……」と紗苗は冷たい眼差しを谷口に向けて、「それは、相手が成人している場合ですよね?」と言葉を続けた。

「ぐっ……」

 紗苗の言葉に、谷口の表情が強張る。

「そうか。民法では、未成年との契約は法定代理人、つまり親の同意を得なければならない――そう言うことですね、会長?」

 紗苗は翔太に頷くと、麗美に向かって「佐藤さん、この契約は親の承諾を得ていますか?」と確認する。

「いえ、親には話してないですぅ」

 紗苗は谷口に顔を向け、「この契約書には法定代理人のサインが見当たりません。つまり、そもそもこの契約は成立していないと言うことです」と言い放った。

「会長……」

 麗美の瞳が大きくなる。

「佐藤さんは全く払う必要はないのですよ」

 紗苗が麗美に向かって微笑んだ。



「この小娘がぁ……」

 谷口が身体を震わせている。

 紗苗はそんな谷口を無視するように立ち上がり、「佐藤さん、帰りましょう」と麗美の手を取った。

「おい!」

 谷口が若い男に合図すると、男は扉の前に立ち塞がる。簡単には帰して貰えそうにない。

「何をする気だ?」

 翔太が紗苗たちを庇うように腕を広げる。紗苗はそんな翔太を見て、一瞬驚いた表情を見せてから口許を緩める。

「なあに、生意気なガキどもに世の中の常識を教えるんだよ」

 谷口の唇が卑しく歪んだ。この卑しさこそ、谷口本来の姿なのだろう。

 谷口はいきなり腕を伸ばすと、紗苗たちを庇うように対峙している翔太の髪の毛を掴む。そして、そのまま手前に引くと、バランスを崩した翔太の頭を床に押し付けた。

 翔太が苦悶の表情で谷口から逃れようとするが、頭を強く押さえられていて逃れられない。

「やめなさい! 警察を呼びますよ!」

 紗苗がポケットからスマホを取り出して叫ぶ。

「そうはさせん! よこせ!」

 片膝をついて翔太を押さえ込んでいた谷口が、立ち上がって紗苗のスマホに手を伸ばす。

 紗苗はその隙を逃さなかった。突き出して来た谷口の腕を、担ぐようにして身体を沈み込ませる。次の瞬間、谷口の身体が綺麗に宙を舞った。そして、床に叩き付けられ、鈍い音が部屋に響く。それは一瞬の出来事だった。

 

 谷口は背中を強打しているので、暫くは動けないだろう。脳震盪も起こしているかも知れない。

 紗苗が扉の前にいた若い男に眼差しを向けると、男は両手を上げて首を横に振る。戦う意志はないらしい。

 翔太と麗美が目を大きく見開き、呆気に取られている。

「吉村くん、大丈夫?」

 紗苗が翔太に向かって声を掛ける。

「だ、大丈夫です!」

 翔太が居住まいを正して答える。そんな翔太を見て、紗苗は安堵した。

「会長、今のは何かの必殺技ですか?」

「佐藤さん、あれは柔道の投げ技、一本背負いだよ。あんなに綺麗なのは、僕も初めて見るけど」

 呆然と紗苗を見ている麗美へ、翔太が代わりに答える。

「二人とも……いい? 今見たことは忘れなさい」

 紗苗が人差し指を唇に当て、翔太と麗美に厳命する。そして、小さく息を吐くと、スマホを耳に当てがった。


「お姉ちゃん、聞こえてた?」

 電話の相手は姉の真澄である。

「ええ、バッチリ聞こえてたわ」

 紗苗は真澄に協力を仰ぎ、姉との通話をオンにしたスマホをポケットに忍ばせていたのだ。

 そして、真澄にはここから近い交番で待機してもらい、この事務所でのやり取りを警官と一緒に聞いて貰っていた。これが紗苗が掛けた保険である。

「もう直ぐ、そちらに警官が着くと思うわ」

「分かった。それと、救急車も呼んだ方がいいかも」

 紗苗が呻いている谷口を横目で見て、真澄に伝える。

「また、武勇伝が増えちゃったね」

 真澄がクスッと笑う。

 紗苗が頬をぷぅーと膨らました。

 そして、「私は、そんなもの増やしたくないんだからぁ――!」と心の中で叫ぶのであった。



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