3 好きにして下さい
ソメイヨシノの蕾が、膨らみ掛けている。
温暖化の影響なのかは分からないが、年々開花の時期が早まっていると言うのは本当なのかも知れない。
紗苗は公園の桜の木を眺め、新学期となる頃には満開になるのだろう――と思いを馳せる。
公園を通り抜け大通りに出ると、待ち合わせ場所のファミリーレストランが見えた。
紗苗は少しでも目立たないようにと、キャスケットを深めに被り顔を隠す。ただその程度で、紗苗の可愛さを隠しきれないのは言うまでもない。
ファミリーレストランの前に着くと、紗苗は緊張した面持ちで中に入った。
「おひとり様ですか?」
近づいてきた給仕係に、紗苗は「人と待ち合わせをしているのですが……」と答えて店内を見渡す。
奥の席で手を振っている苑子を見つけると、紗苗は自分に見惚れている給仕係に「見つけました」と告げた。それから、キャスケットを目深く被り直し、手を振って微笑んでいる苑子の席に向かう。
「紗苗ちゃん、やはり貴方は凄い子なのね」
店内中の視線が紗苗に集まっているのを眺めて、苑子はニヤリと笑みを溢した。
「紗苗ちゃん、呼び出してごめんなさいね」
紗苗は苑子の熱い眼差しを受け流すと、向かい側に座る。そして、キャスケットとコートを脱ぎながら「山吹さん、話というのは何ですか?」と単刀直入に切り出した。
「まあ、そんなに慌てないで。奢るので、何か頼んでいいわよ」
苑子が紗苗にメニューを渡す。
紗苗がメニューを受け取り苑子を一瞥すると、苑子はそれに応えるように笑みを返した。
紗苗は、学校帰りやプライベートでもファミリーレストランやファーストフード店などには殆ど入らない。入口で珍しく緊張したのもそれが理由である。今日もどの様な服装で来たら良いのか、一時間ほど悩んでいた。
紗苗はメニューを開き、思わず頬を緩める。紗苗の瞳にはメニューが豪華な絵本のように映ったのだ。
「あまり、こう言う場所に来ないの?」
紗苗の表情を観察していた苑子が笑みを漏らした。
「そ、そうですね……」
紗苗はバツが悪そうに緩んだ頬を引き締める。生徒会長と言う立場もあるが、そもそも一緒に出掛けるような友人がいない。
「ゆっくり選んでいいわよ」
紗苗は再びメニューを眺めると、チョコレートパフェを頼んだ。カロリーが気になるところであるが、『山川家は太らない家系である』と紗苗は自分を安心させる。
紗苗が頼んだパフェが届いたところで、苑子が口を開いた。
「ここだけの話にして欲しいのだけれど、今度新しい雑誌を出すことになったの」
紗苗はパフェスプーンを口に咥えながら、苑子に眼差しを向ける。
「それでね、あなたに表紙モデルをして欲しいの」
「は……い?」
紗苗は思わず咥えたパフェスプーンを落としそうになった。
「私がですか?」
「そうよ」
「そんなの無理です」
「どうして?」
「私、まだ中学生ですよ?」
「大丈夫よ。ティーンエイジャー向けの雑誌だから」
苑子が瞳を輝かせて、「引き受けてくれないかしら?」と念を押す。
芸能界に憧れる女の子であれば、歓喜で飛び上がるところであろう。相手は大手出版社の人間なので、小娘を騙して何か企んでいるとも思えない。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何かしら?」
「何故、私なのですか?」
「以前あなたを一目見た時、あまりにも美少女でびっくりしたの」
「私が……、美少女?」
紗苗が首を傾げる。
「自覚がないとは言わせないわよ?」
笑いながら言う苑子に、紗苗が表情を変えないでいると――
「嘘でしょ? 全く自覚してないの?」
「確かにクラスメイトから、可愛いとか美人とか言われることはありますが、自分が特別そうだと思ったことはないです。私よりも可愛くて美しい女性を、何人も身近で見ていますので」
紗苗はそう説明してからパフェを一口頬張る。濃厚な生クリームとチョコレートのハーモニーが口腔に拡がり、紗苗は満足そうに頬を緩めた。
「確か、あなたにはお姉さんが居たわね。お姉さんも美少女そうね」
苑子が思い出した様に囁く。紗苗が何かを言おうとすると、それを遮るように店内に騒めきが起こった。
紗苗が入口の方に顔を向けると、真澄が友人たちと入って来るのが見える。衆目が真澄たちに集まっていた。
真澄が紗苗に気付くと少し驚いた表情を見せた後、微笑みながら紗苗たちの席まで歩いて来た。
「紗苗がファミレスなんて珍しいわね」
「お姉ちゃん……」
真澄は紗苗の向かいに座っている苑子を一瞥してから、「あ、邪魔してごめんなさい」と苑子にも軽く会釈して友人たちが座っている席の方に戻って行った。
「あなたのお姉さん? あなたとタイプは違うけど、同じくらい可愛いわね」
苑子が真澄の後ろ姿を微笑みながら眺める。
姉には華がある。私と異なり優しさに溢れ、明るい雰囲気を醸し出している――紗苗は常々そう思っていた。
「今、私がモデルの話断ったら、姉を口説こうなんて考えてませんよね?」
紗苗が苑子を軽く睨む。
「か、考えてないわよ」
苑子が狼狽える。紗苗はため息をつき、「申し訳ありませんが、モデルはお受けできません」とパフェを綺麗に食べてから断った。
図書館の自習室での勉強は、とても捗る。
本当は自宅で勉強したいところであるが、春休みと言うこともあり、清孝が頻繁にやって来るのだ。ある程度吹っ切れたとは言え、完全に立ち直っている訳ではない。
紗苗は自分が弱い人間だと改めて認識し、ため息をつく。
「あれ? 会長!」
紗苗が声の方へ顔を向けると、翔太が驚いた表情をして立っていた。
「吉村くん、ここは学校じゃないので、その呼び方は遠慮してもらえる?」
「あ、ごめん。山川……さん」
翔太は慌てて言い直す。そして、「山川さんは図書館でよく勉強するの?」と緊張した声で尋ねた。
「春休み中は……通うかもしれないわ」
紗苗は姉の真澄と清孝のイチャつきを思い浮かべて、ため息を漏らす。
「山川さんは――」
翔太が矢継ぎ早に質問して来るので、紗苗は隣の席を軽く叩く。
「隣りに座ったら? 立ったままだと目立つから」
翔太は周囲から視線を感じて顔を赤らめ、紗苗に促されるまま隣の席に座った。翔太は呼吸を整えてから紗苗の表情を窺う。
参考書を眺めている紗苗の横顔に、翔太の心臓が跳ねる。整った鼻梁に長い睫毛、白く透き通る肌に桜色の唇――
「それで、何か聞きたいことがあったのでは?」
紗苗が参考書に視線を落としたまま、翔太に確認する。
「あ、えっと……、山川さんは何処の高校を受けるのかなぁと。やっぱり、お姉さんと同じ翠川高校?」
「それを聞いてどうするの?」
「ど、どうもしないけど……」
翔太が少し狼狽えた。
翠川高校も進学校であるが、紗苗の成績であればもう少し上の高校でも余裕だろう。紗苗は、翔太が何故そんなことを知りたがるのか不思議に思った。
「話はそれだけ?」
紗苗が顔色を窺うように眼差しを向けると、翔太が顔を赤くして視線を外す。
「吉村くん。顔赤いけど、熱でもあるの?」
「え、いや、ね、熱はないけど……」
「そう、それなら良いけど……」
紗苗はそう言ってから時計を確認して、「私はそろそろ帰りますね」と席を立った。
「今日、『モデルになりませんか?』って誘われた――」
夕方、帰宅した真澄が上機嫌な声で紗苗に向かって報告してきた。
姉ほどの可愛さなら、スカウトされても何ら不思議なことではない――紗苗はそう思い、「良かったね」と軽く受け流す。
「ほら、この間紗苗がファミレスで会っていた綺麗なお姉さんに、偶然声掛けられてね……」
リビングのソファーに座ってテレビのニュースを見ていた紗苗は、思わず咳き込む。
「ちょっと待って。あの人、お姉ちゃんにも声を掛けてきたの?」
紗苗は頭を抱えた――偶然ではない。計算ずくで姉に接触したのだろう。
「それで、お姉ちゃんは何て答えたの?」
「私は、彼氏が居るので無理ですと断ったわ。だって、アイドルは恋愛禁止なんでしょ?」
「いや、アイドルじゃなくモデルとしての勧誘では……それに、その人出版社の人だから」
「え、そうなの? 急いでたから、詳しく話を聞かなかったんだよね」
真澄は舌をペロリと出した。
「あの人は、大手出版社の人で、今度新しい雑誌を創刊するからと表紙モデルを探してるの。それで、私も声を掛けられたんだけど」
「ふーん。で、紗苗は断ったんだ?」
「私モデルに興味ないし、受験勉強や生徒会の活動もあるから……」
そう言いながら、紗苗はソファーの上で膝を抱える。
「紗苗が表紙飾ったら、お姉ちゃんは鼻が高いな」
「モデル……、やらないわよ」
「紗苗可愛いのに……」
「お姉ちゃんだって可愛いでしょうに」
「私の可愛さは、清孝だけのものなの♡」
「はいはい、そうですね」
紗苗がそう言ってからため息をつくと、真澄は悲しげな表情になった。
「紗苗、ごめんね……」
「お姉ちゃん、突然どうしたの?」
真澄の表情を見て、紗苗が狼狽える。
「紗苗も清孝のこと好きだったんだよね……?」
真澄の言葉に、紗苗は目を見開く。
姉は気付いていたのだ。明るく振る舞っていたが、私に申し訳ない気持ちを抱えていたのだろう――
「何言ってるのよ。私がきーくんに抱いていたのは、兄としての気持ちなの! 恋愛感情とは違うわ」
もう終わったことなのだ。今更、姉を困らせるつもりは無い――
紗苗はそう言って満面の笑みを見せた。
「どう言うことですか?」
紗苗が不機嫌な感情を隠さずに言い放った。
「姉を口説かないって、言ってませんでしたか?」
「そんなこと言ったかしら?」
苑子が公園のベンチの背もたれに身体を預けながら、空を仰ぐ。紗苗はそんな苑子を横目で睨んだ。
これだから、大人は信用ならない――
「紗苗ちゃんが表紙モデル引き受けてくれるなら、これ以上お姉さんには近づかないわ」
苑子が瞳を輝かせながら、紗苗の顔を覗き込む。
「…………」
紗苗が黙り込むのを見て、苑子はバックからチケットを取り出し紗苗に見せた。
「そ、それは!」
紗苗の顔色が変わる。
「引き受けてくれるなら、このプレミアム試写会の招待券をあげるわ」
苑子が差し出したチケットは、今春一番の人気作品と噂されている映画だ。父の再婚で突然義妹が出来た少年の恋愛物語で、人気若手俳優のキャスティングにも注目が集まっている。
紗苗はこの映画の原作が大好きで、観たい映画の一つだった。好きな映画を一般公開前に、それも只で観れるのなら、こんな素晴らしいことはない。
「うう……」
「実はね、この映画のヒロインに抜擢された新人の子が、表紙モデルの第一候補だったの」
「え?」
「話題性はあるんだけど、私はそう言うのに頼りたくないのよ。確かに可愛い子ではあるけど、私は圧倒的な美少女を求めているの」
「私、圧倒的な美少女じゃありませんよ」
「あなたは、間違いなく圧倒的な美少女よ。美少女オタクの私が言うのだから間違いありません」
紗苗は自慢げに話す苑子を見て、小さく笑った。
「でも、うちの学校は特別な理由がない限り、アルバイト禁止ですよ?」
「それは大丈夫。学校から許可は貰っているわ。詳しくは言えないけど……」
苑子の抜け目なさに、紗苗は舌を巻く。――校長の弱みでも握っているのかしら?
「そこまで手を回しているとは……」
紗苗は肩の力を抜くと小さく息を吐く。
「分かりました。好きにして下さい」
「本当に? やった!」
苑子が勢い良くベンチから立ち上がる。
何か新しいことを始めれば、少しは前に進めるかも知れない――紗苗は晴れ上がっている空を見上げて呟いた。