1 私は立候補しません
本作は、「カッコつけて申し訳ありません」(N0513IC)の山川紗苗を主人公としたサイドストーリーです。本作の前に「カッコつけて申し訳ありません」を読まれると、より分かり易いと思います。
身体が凍えるほどに、二月の風は冷たかった。雪が積もっていないから余計にそう感じるのかも知れない。
まだ登校するには早い時刻の所為か、通学路を歩く学生はそれ程多くはなかった。この時間帯は、駅へ向かう社会人の方が多い。
冷たい風が少女の頬を撫でる。山川紗苗は白い吐息を漏らすと、首に巻いてあるマフラーに顔を埋めた。
可愛さと凛々しさが共存する紗苗に、衆目が集まるのは当然と言えよう。ただ、紗苗はそんな視線を気にする素振りを一切見せない。
紗苗は空を見上げ「早く暖かくならないかな……」と独り言ちた。
紗苗が横断歩道の手前で立ち止まり、信号が青に変わるのを待っていると、後ろから若い男たちの会話が耳に入る。
「なあ、前の子、可愛いかも?」
「ばーか。後ろ姿じゃ、判断できないだろ。それに、中学生じゃないか?」
「そうだな。まあ、後ろ姿の可愛い子なんて、実際イマイチなのが多いからな」
失礼な男どもである。他人の容姿を評価する自分たちは、どれだけ優れたルックスだと言うのだろうか?
青信号に変わり、紗苗は横断歩道を渡り切ると不意に立ち止まった。紗苗の後ろを歩いて来た男たちは怪訝な表情を見せる。
紗苗は振り返ると、冷ややかな眼差しを男たちに向けた。制服から近くの高校に通う男子生徒だろう。男たちが、紗苗の凛とした麗しさに目を見張る。
紗苗は、暫くその男たちに蔑んだ眼差しを向けていたが、何事もなかったように再び歩き始めた。
「おい、あの子って……」
「ああ、翠川中のクールビューティーだな。間違いない」
男たちは、暫く立ち止まって紗苗の後ろ姿を眺めていた。
紗苗が学校に着いて下駄箱を開けると、足元に封筒がバサバサと落ちる。今朝は二十通くらいだろうか。昨日、紗苗が下校した後に投函されたのだろう。紗苗は足元に散らばった封筒を眺めて、ため息を漏らした。
紗苗は内履きに履き替えると、足元の封筒を拾い上げ、廊下に備え付けられているゴミ箱に全て捨てる。
「毎日毎日、本当にどうにかならないかしら。もう――」
ゴミ箱に捨てた封筒を眺めながら、紗苗が再びため息を漏らす。担当教師に相談しても、笑うだけで取り合って貰えなかった。下駄箱に鍵を付けようか真剣に悩むところである。
「会長、相変わらずの人気ですねぇ」
紗苗の背後から、そんな声が響いて来た。紗苗が振り返ると、生徒会役員の佐藤麗美がニヤニヤと笑みを溢している。
「人気でも何でもないわ。私にとっては、嫌がらせと同じですよ」
幾度となく下駄箱に投函しないよう注意しても、全く収まる気配はなかった。読まれないと分かっているのに投函し続ける彼らの神経が、紗苗にはまるで理解できない。
「ラブレター貰って、そんな事言うのは会長くらいですよぉ」
麗美はそう言うと、ゴミ箱へ捨てられた封筒に「君たち、安らかに眠りたまえ」と合掌した。
「佐藤さん、何やっているのです。行きますよ」
紗苗が眉を寄せて催促する。
「待って下さい、会長――」
麗美が慌てて紗苗の後を追った。
紗苗は、この翠川中学校の生徒会長の任に就いていた。この中学校では、半期毎に生徒会役員選挙が行われるが、紗苗は前期後期と二期連続で当選している。それだけ、生徒に人気があるのだ。
人気の一番の理由は、その見目麗しい容姿だろう。栗色のミディアムヘア、長い睫毛に褐色の大きな瞳、小さな桜色の唇、一つ一つのパーツが整っている。
学力は常に学年トップでありながら、運動も出来る、文武両道の才女なのだ。
ただ、凛とした雰囲気であまり笑みを見せないことから、紗苗は『翠川中のクールビューティー』と呼ばれている。
紗苗は生徒会室の扉の前まで来ると、鞄から鍵を取り出して解錠した。紗苗はいつも朝早く登校して、ホームルームが始まるまで生徒会長として執務している。
生徒会書記の麗美も、ほぼ毎日紗苗に付き合っていた。麗美は紗苗と同学年であるが、クラスは異なる。二人は友達ではなく、あくまでも生徒会役員同士の関係である。少なくとも紗苗はそう認識していた。
「会長、今月は生徒会役員選挙ですけど、やはり立候補しないのですかぁ?」
麗美が残念そうな顔をしている。
「立候補はしませんよ。受験勉強もしなければいけませんし……」
紗苗はそう言って自席に座ると、書類に目を通した。
「えー、なんか残念ですぅ。会長ほど生徒会長が似合う女性は居ないのに……」
「何故、女性に拘るのです? 生徒会長が似合う男子は居ませんか? 例えば吉村くんとか」
吉村翔太は副会長の任に就いている男子である。
麗美は露骨に厭そうな表情を見せた。
「吉村副会長は、顔と家柄は申し分ないのですけど駄目です。当たり前過ぎます。それに、吉村副会長は――」
麗美はそこまで言って、口を閉じる。
「吉村くんが、どうしたの?」
「いえ、あの……、吉村副会長は好きな女の子がいるので」
「それが、会長の器と関係あるのですか?」
「関係ありますよぉ。会長は全校生徒から憧れる存在でなければ駄目です。恋に溺れているようでは、支持が得られません」
「そ、そんなものですか……」
紗苗は少し気恥ずかしくなった。紗苗も素振りは見せていないが、最近まで従兄に恋心を抱いていたのだ。
「それに女性の生徒会長だからカッコいいと思うので、男子はやはり駄目です」
「じゃあ、佐藤さんが立候補したらいかが?」
紗苗の言葉に麗美が一瞬固まる。そして、満更でもない笑顔に変わるが、首を横に激しく振った。
「私なんて無理ですよぉ。私は、会長にもう一期続けてもらいたいです」
「何度言われても、私は立候補しません」
紗苗はそう言って、手元の書類に視線を戻した。紗苗が立候補しないのは、受験勉強をしなければならないと言うのもあるが、今は何に対してもやる気が起きないのだ。紗苗は平静を装っているが、ある事をキッカケに未だ気持ちの整理がつかない状態にあった。
「そろそろ、ホームルームの時間ですね」
紗苗は麗美にそう告げて席を立った。
「それ、きーくんのバレンタインチョコ?」
休日の午前中、紗苗はキッチンでチョコレートを湯せんしている姉に尋ねた。
「そうよ。やっと堂々と渡せるようになったからね。うふふふ」
真澄が嬉しそうに答える。
姉の真澄と従兄の沢村清孝が付き合い始めたと、紗苗の耳に噂が届いたのは先月のことだ。真澄は小さい頃から清孝の事が好きで、それがやっと叶ったのである。
妹としては二人を祝福してあげたいところだが、紗苗も清孝に想いを寄せていた事もあり、複雑な心情だった。
「紗苗は手作りチョコ、贈らないの?」
真澄がボウルに入ったチョコをゆっくりと掻き混ぜながら、紗苗を見る。
「私は彼氏いないからね。きーくん以外には義理チョコも渡すつもりないから、市販品で十分」
「清孝も手作りの方が喜ぶと思うけどなぁ。一緒に作る?」
「手作りだとお姉ちゃんと比較されるから、遠慮しておきます」
真澄の料理の腕は、比較にならないほど上手い。紗苗の技量では、惨めになるのが目に見えている。
「そう……」
真澄は少し寂しそうな表情をした。妹と一緒にチョコ作りをしたかったのかも知れない。
紗苗は少し申し訳なく感じて話題を変えた。
「お姉ちゃんって……、ポニーテールの髪型、好きだよね?」
「私が好きと言うか、清孝が好きな髪型なのよ」
真澄はそう言って頬を緩ませる。
「そうだったんだ……」
姉は好きな相手の好みに、自分を合わせていくタイプの女性だ。私にそんな器用さは無い――紗苗は自分のミディアムヘアをギュッと掴みながら、唇を噛んだ。
「もしかして、お姉ちゃんが楽器を始めたのも……」
真澄は中学三年の時にベースギターを弾き始めている。スポーツ万能な真澄が、高校では運動部でなく軽音楽部に入ったのが、紗苗としては不思議だった。
「清孝の好きな音楽、ロックのことをもっと知りたくなったからかな。バンド女子と言うのに憧れたのもあるけど……」
真澄が小さく笑う。
「一途なんだね……」
紗苗がポツリと呟く。
「何か言った?」
「ううん、何でもない」
紗苗が話を切り上げて自室に戻ろうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、清孝だわ。紗苗、悪いけど鍵開けてくれる?」
「はいはい」
紗苗としては、まだ気持ちの整理が出来ていないので、なるべく清孝の顔は見たくなかった。でも、自然に振る舞わなければいけない。
「よう、紗苗――」
ドアを開けると、清孝が笑顔を見せた。服装はカジュアルだが、普段よりおめかししている。今日はこれから、真澄とデートなのだろう。
「きーくん、おはよう。今日はお姉ちゃんとデートですか?」
清孝が頬を染める。そんな清孝の顔を見て、紗苗の胸にチクリと痛みが走る。
「きーくん、学校ではあまりイチャつかない方がいいですよ」
「な……、イチャついてないぞ」
「そうですか? 翠川高校のバカップルと評判が立ってますよ」
紗苗はそう言いながら、清孝にスリッパを用意する。
清孝と人気者の真澄の交際が発覚した際、翠川高校男子生徒は阿鼻叫喚の様相を呈したと聞く。ところが、不思議と二人を引き離そうとする動きは見られなかったようだ。
「お、お前は、一体何処からそんな情報を得ているのだ?」
「さあ、何処からでしょうね?」
胸の痛みを悟られないよう、紗苗は精一杯の笑みを見せた。
目を通して頂き、ありがとうございます。本作は十話程度の短い小説で考えております。
それと遅筆の為、次話投稿をお待たせすることもあると思いますが、ご容赦ください。