第一話「先生」
「先生、宜しくお願いしますよ〜」
「そんな事を言われてもしょうがない。無いものは無いのだ」
ひらひらと手を動かし、つれない仕草で編集を追い返す。
締め切りを過ぎて、はや五日。原稿は未だに白紙である。
黄土色のジャケットを腕に抱え、編集の男『木島』がとぼとぼと帰ってゆく。
冴えない丸い厚ぼったい眼鏡をかけ、開襟シャツを几帳面に一番上の釦まで閉じた生真面目な性格の若き輩である。多少、締め切りを過ぎたくらいで長芋を擦り混ぜたような物言いで催促されたとて、出ない物は出ないのだ。
基本、締め切りなぞ設定する方が可笑しい。そのような代物ではなかろうが。
とは言え、向こうも商売である。私のような偏屈に付き合い、都合よく作品がある時のみ商いをしておっては早々に社が潰れてしまうのであろう。
「やれやれ…」
どうにもこうにも合間見れぬ。
作家と編集なぞ水と油の関係だ。混じり合わぬ訳であり、そこをなんとか上手く付き合ってゆくのが編集としての腕の見せ所ではないのか?
あの男はその辺りが下手だ。
等と、余り愚痴ばかり吐いていても、かく言う私もそろそろ日銭を稼がねば、食い扶持が底を付いてしまう頃合いだった。
出せば売れる、書けば売れる。と言われても、そこに矜持が無ければ、私にとって作品を産み出す意味が見い出せない。
私は作家だ。
物書きだ。
人の醜聞を暴いて、ゴシイプ記事を書く記者ではないのである。
産まれ出る作品に一筋の煌めきが宿らねば、世に放つ意味など無いのが道理であり、残念ながら今の手持ちの手札ではその片鱗すら見出せないのだ。口惜しい事に。
自分の納得し得ぬ塵など晒せる訳が無い。
時は明治から大正に移り変わり、新しい時代の風が吹こうとしているのに。それに相応しい作品を創り出せずして、どうしてくれようかといふものよ。
「ふぅ…」
ふと、煙草が恋しくなり、一服しようと縁台に出た所、庭の垣根からなんとなく見覚えのある嫌な帽子を見かけた。
気のせいであって欲しいと願っておったが、玄関の方角からガラガラピシャと戸の開く音が聞こえ、野太い低い声と恰幅のいい草履の擦り音、妻の応対する様子が聞こえてきた。
「やあ、先生。お元気ですかな」
「どうも」
煙草を燻らせ、やって来た男と相対する。
カンカン帽子を頭に乗せ、半袖の白シャツを黒ズボンにだらしなく突っ込んで、ズボン吊りで止めている。首元にかけた手拭いで汗を拭きながら、男は妻の用意した麦茶を勢いよく飲み干していた。
「いやぁ〜暑いですな」
「いかにも」
「日が落ちても、こうも気温が下がらぬと身体がしんどくてたまらないですわ」
男の名前は『三好』。この地域を束ねる庄屋の頭領である。同時にこの居館の所有者でもある。
粗暴ではあるが、決して土足で人の踏み込まれたくない領域に入らない分別を携えたこの男に、多くの者が慕うのは当然と言えば当然であった。
私は好きではないが。
「君がここに来るという用事はひとつしかなかろう。あいにく手持ちが心許ない。もう少し待ってはくれまいか」
「先生に家賃の催促なぞ、半分諦めておりますわ。そんな人を守銭奴みたいに」
「違うのか?」
「アタシだってね、人の真心くらい持ち合わせております。第一、人の欲する物が読めねば商いなぞやって行けませんよ」
「そうなのか」
「そうですそうです。いやあ、しかし暑い。すみません珠代さん。麦茶をもう一杯もらえますかな」
「ふむぅ、なら…今日は何をしにここへ?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに男は手に持っていた箱を開ける。
「コレ…ですわ」
「将棋…か。これはまた薄い盤だな」
「そう。珍しいでっしゃろ?これなら、持ち運びも出来ますし、指したい時にすぐに指せる。先生、お相手願います」
「一局だけだぞ」
「へへっ。いいですとも」
唐突に始まった一局に、普段なら疎ましく思うものの、パチリ、パチリと駒を指す音に思案中の話の思考を混ぜて耽ってゆく。
妻の用意した麦茶と一口大の西瓜をつまみながら、将棋指しに一興を興じる。
「手堅いですな、先生」
「そうかね。では、これならどうだ」
「ほほう、ほうほう…!なるほどなるほど!?そう来ましたか!」
「常套だけでは面白くあるまい。今日は違う手で行かせてもらう」
「そうは言っても、ふむ…こりゃいかん」
「どうした?君の番だぞ?手が止まっているではないか」
「ちょっと待って下さいよ。うむぅ、考えさせてもらいますよ」
「好きなだけいいぞ」
盤を挟んで、うんうん唸る庄屋を待ちながら、満足気に麦茶をすする。
気晴らしに…と、将棋を指し始めたが、これはこれで中々の好都合である。読み合いに合わせて場面の整理がつくし、手を動かすのがいいのか発想が浮かぶ。なにより、編集への言い訳が立つ。
例え原稿が出来ずとも、付き合わせたこの男のせいにして仕舞えばいい。
庄屋は熟考を重ね、何度かの競り合いをした後、いよいよ終盤に差し掛かる。
こちらの優勢で進めてきたこの対局も終わりが近づいてしまえば、呆気ない。
手を詰め、差し合いの読みをしている最中、不意に閃く。
打ち筋を?まさか。物語に決まっておる。
あれやこれやと思う度に、原稿に書き留めたくて仕方なくなる。
さっさと手仕舞いにして切り上げるか。
私は読み合いの末、一番早く終わらせる筋に駒を打った。勝ち負け等この際、どうでもよい。
「おや、先生。いいんですかい?そこで」
「うむ、問題ない」
「そう言うならいいですがね」
庄屋は私の読み通りに駒を打つ。
対局は十数手の後、私の負けで勝負を終えた。
「うむ、なかなかの一戦であった。では、これにて」
「いや、先生。ちょいと待って下さいよ。あの一手。あたしゃ納得がいきませんがね」
「うん?何の事だ」
「何もこうもないですよ。あたしのこの目だって節穴じゃあありませんからね。明らかに手を抜いたでしょ」
しまった。こうなると長い。
愚痴愚痴と講釈を聞かされ、うんざりしている所に間の悪い事に妻が夕食の有無を聞きに来た。
もちろん庄屋も快諾し、夕食まで顔を突き合わせる羽目になってしまった。
それからも、小一時間は喋っていたのであろう。私はせっかく思い付いた事柄が抜け落ちてしまわないように、必死であった。まったくこの男はこういった所がタチが悪い。熱くなるとこちらの都合等お構い無しだ。
やっと納得したのか、ようやっと重い腰を上げて庄屋は帰って行った。
胸焼けしたような腹の虫に、大きくため息をついて、私は伸びをする。いやはや散々な目にあった。
煙草を一本、燻らせた後にようやく書斎に向かい、原稿に取り掛かる。
ばさりと用紙の束ねる包みを出して書き始めを考える。
何事も最初が肝心だ。
上手い書き出しさえ拵えて仕舞えば、後はするすると読み進める事が出来ようものぞ。
しかし、時間を置いて熱が冷めてしまったのか、上手い具合に思い付かぬ。
何度も書き、くしゃくしゃに丸めてはごみ箱に放り捨てる。
思わぬ所で弊害が出た。やはりあの時、書き進めるべきだったのだ。
あたまを掻き、せわしなく万年筆を机にぶつけ、一文を捻り出す。ようやく出た初文は最高とは言いがたいが、物語を進めるには充分であった。
つらつらと書き進めてゆく。途中、妻から風呂の催促があったが、そのような物、構っていられん。素っ気無く断り、原稿と対峙する。
夜も更け、夜食の握り飯を齧り、悶々と原稿用紙に墨を重ね続ける。
途中、詰まっては立ち上がり、部屋の中を徘徊しながら唸る。
丸めた原稿用紙は既に山となってごみ箱から溢れておる。焚き火の火付には丁度よいだろう。
無駄と思うならば、自身で試して見ればいい。何事も無く、書き損じもせずに原稿を進められるなぞ、奇跡のような事柄だ。
何度も繰り返し、数歩戻っては進めてゆく。
この間、見つめるのは自分の内側だ。見えるようで見えないその在り方をギリギリの所で拾い上げてゆくのだ。
他人に邪魔をされてはそのギリギリの境界線が見えなくなる。
延々と自分との戦いが続くのだ。
時間の概念も消え失せ、日常の生活もままならなくなるが、そのような些細な事はどうでもよい。
作品だ。ただ、作品が完成すればよい。他はいらぬ。
さらに夜も更け、難所とも言うべき場面に取り掛かる。
足りぬ箇所に手を入れ、さらに捻り、考え抜く。
如何せん、彷徨こうが捏ねようがにっちも察知もいかぬ。部屋の中でのたうち回るその姿は、側から見れば気でも違えたかと思われる程だ。残念ながら、正気である。正気のまま、狂気に触れなけばならぬから、タチが悪いのだ。思考の奔流に身を任せてその流れを繰り上げるのだ。それを無謀と言わずして何と言おうか。
うんうん唸っておると、不意に天啓めいた思考の繋がりにより絶妙なる文節を思い付く。
はたと原稿用紙に飛び付き忘れまいと書き殴る!
すらすらと書き進める内に、構築の洗練度合いが増してゆくのを感じた。揺蕩うような儚さ。それを掴み取った今、せわしなく動くこの筆の速さよ!うむ、間違いない!
確かな手応えが、確信に変わる。これだ!これこそが私が今、求めていた物だ!
大抵、勢いで書き上げた文なぞ、一晩寝かせて、翌日、冷静な視線で見れば稚拙たる散々な文章である事もままあるが、これは違う。
素晴らしい!
我ながらよくぞこの一節を思い付いたものだ。
流麗な流れに棹さす短き言の葉。この一文によって美しい情景がさらなる輝きを放っている。
文句なし。誰がこの一節に薀蓄くれようか。
これを下劣と評する輩は、読み書きのなんたるかすら分かっていまい。
夜も白ばんできた頃、ようやく第一稿を書き上がった。
美しき一文によって、大変に満足のゆく出来に仕上がった自負がある。誇らし気に胸を張って私の作品だと言い放てようぞ。うむ。素晴らしい。
何度か読み返して、気になった箇所をさらに手を入れてゆく。この作業で小説の体裁を整えるのだ。疎かには出来ぬ。
ふむ、もう少し書き足した方がよき場面が出て来た。寝かしても構わぬか。それとも一気呵成に書くべきか。
腕を組み、しばし悩み、そして寝る事にした。
書き足しもそこまで時間はかかるまい。目覚めたばかりの頭の冴えた頭で描いた方がすんなりと済みそうではある。
「――これは参ったな…」
寝支度を済ませ、いざ寝ようと布団を敷いたのはいいが、日もすっかり上がり、燦々(さんさん)と照り返って部屋の中すら明るくなっている。さしもの私もこの中では眠る事が難しい。
渋々、窓を開けてガタついた雨戸を閉めていると、来客の声が聞こえて来た訳である。
本当に、勘弁してくれ。
「すいませーん!!ちょいと!誰かおりませぬか!」
「はいはい、あら。こんにちは」
「やぁ、奥さん。悪ぃんだが、近くの材木屋で事故があってよ!人手が欲しいんだわ!」
「まぁ、大変」
声の主は大工の平八。家の近くに住む気っ風のいい若い衆だ。何度か世話になっておるし、協力してやりたいのは山々だが…。
「やぁ、どうしたんだい?」
「あっ、旦那!大変でさぁ!夜中の強風で材木屋が倒壊しちまって、積み木崩しになってんです!皆で手分けして片付けてるんですが一向に終わらなくて」
「それは大変だ」
大変だ。そんな力仕事に駆り出されたら、ただでさえ徹夜明けの弱った身体に鞭を打つ事になる。
「平八君。私としても手伝いに迎いたいと願う気持ちはある。しかし、私を見たまえ。生憎、今しがた原稿を書き上げたばかりで一睡もしておらん。
この蚊蜻蛉がさらに弱ったような状態の男が役に立てるとでも思うか?君ならどう思う?」
「あちゃー、それは間の悪い話ですわぁ。先生が頼りと思って来たもんですが…」
「すまないね。残念ながら役に立てそうにない」
「困ったなぁ、他に当てがあればいいんですけどねぇ」
「私が行きますわ」
「奥さん…」
「お前…」
「力仕事が出来なくとも、掃除や他の作業もありましょう。女手が一つあると大分、違ってきますよ」
「お、奥さんがいいのなら… 頼んます!!」
「すまないな」
「いいえ、貴方はお休みになさって下さい。こちらは私が面倒見ますので」
「そうか。それなら、その言葉に甘えるとするか」
私はそれだけ言うと、のそのそと寝室に戻って行った。正直な所、眠気が限界でもあった。
――後日。
材木屋は大事もなく撤去され、平八が礼の挨拶に伺ったらしい。
私は編集が来るのを今か今かと待ち侘びている。
「先生。たしかに。お疲れ様でした」
「うむ」
原稿用紙の束を茶封筒に仕舞い、編集の『木嶋』がにんまり顔で帰ってゆく。
木嶋にとっても今回の原稿は満足の行くものだったようだ。当然だ。私にとっても稀に見る傑作に仕上がったといふ自負がある。
書斎から玄関を抜け、木嶋の頭が垣根を通りすがるのを見届けて、私は原稿明けの儀式に参る。
「おーい、『アレ』を持って来てくれ」
「はーい、今出来ますので」
妻が運んで来たのは、鯛をまぶした『冷やし茶漬け』である。
私は大漁祈願、部数が伸びるのを期待して毎回この茶漬けを啜る。
不思議な事にコレを食った後の作品は、よう売れる。
いつしか、この儀式が恒例の行事になっているのだった。
「うむ、いい塩梅である」
私は満足気に頷き、また新たなる作品の制作に着手するのであった。