てぬぐいの貴婦人
「不運だな、その方も」
何を仰います。
いいえ、不運ではございません。
初は恭しく頭を下げ、玄関先で夫を迎えた。
説明はあまりにも短く、連れてこられた経緯も半ば強引なものだった。婚礼の祝宴もなければ、結納さえ交わしていない。
それでも初は、夫となったその人を憎んでも、恨んでもいなかった。
◆
「お亡くなりに、なられました」
息を切らして駆け込んできたのは、町医者の助手だった。
初は頭に巻いていた手拭いを外し、流し場で手を洗った。すう、と息を吸い込んだ。それから数秒、目を閉じた。
何も言わない初に耐えかねたのか、助手がもう一度その名を呼ぶ。
「初さん」
「……覚悟はしておりました。時が来ただけのことです」
背筋を伸ばし、初は目を開いた。
「女将さん! しばらくお暇をいただいてもよろしいでしょうか!」
背後で布を力いっぱい揉んでいた恰幅のよい女は、今の会話をすべて聞いていたはずなのに、じろりと初を睨み上げた。
「訳も言わずに暇なんぞやれるかい!」
「母が……ようやくっ……解放、されたので……!」
最後まで言い切る前に、声が震えた。
改めて口にしてみれば、涙というものは呆れるほど簡単に溢れてくる。
女将は大きく息を吸った。
「聞いたね、あんたたち! 初は今日から家へ帰るよ! 文句のある奴は前へ出な!」
荒々しい声だった。けれど、その声はどこまでも優しかった。
初はよく働く。小さな身体で、ひとりで何人分もの仕事をこなす。初がいなくなれば困る者もいるだろう。
だからこそ女将は、誰にも文句を言わせず送り出してやりたかった。初が気兼ねしないように。たったひとりの肉親を失った少女が、仕事のことなど案じずに済むように。
「よし。行ってきな、初」
女将は濡れた手を前掛けで乱暴に拭った。
「あんたはよく頑張った。早く、顔を見せておやり」
「はい……!」
助手に促され、初は仕事場を飛び出した。
時は明治。
異国から入ってくる品や文化に押され、町の景色も少しずつ変わり始めている。
それでも、人間の営みまではそう簡単に変わらない。優しく、厳しく、ときには意地悪で。そんな人々が寄り集まって暮らしているからこそ、小さな町にも確かな活気があった。
初は走った。
走って、走って。早朝に見たばかりの母のもとへ、懸命に足を動かした。
もう息を引き取っている。死に目に間に合うわけでもない。それでも、走らずにはいられなかった。
女手ひとつで初を育て、その無理が祟って長く病に伏せていた母。大好きな母が、とうとう逝ってしまったのだ。
「先生! 初さんです!」
助手が勢いよく戸を開ける。
室内で待っていた医者は、ゆっくりと振り返った。
「――最後まで、しっかりしとる子じゃったよ。すまんの、初ちゃん。死ぬまでは知らせんでくれと、頼まれておったのでな」
母を幼い頃から知っている町医者は、穏やかな顔でその髪を撫でた。
「よう頑張ったなあ、りっちゃん」
律子。
りっちゃん。
それが、初の母の名だった。
貧しい初たちの家へ長年通ってくれる医者など、この人くらいのものだっただろう。律子の父と親友だったという町医者は、随分長いこと母を診てくれていた。
初は母の傍らに正座し、背筋を伸ばした。
泣いてはいけない。
まずは、言わなければならないことがある。
「先生」
短く呼び掛けると、町医者が振り返った。初は深く身体を折り、畳へ頭を下げた。
「ありがとう、ございました。先生も、長いあいだ――お疲れ、さまでした」
ところどころ言葉がつかえた。けれど、そんなことで初を叱る人ではない。
皺の目立つ優しい顔をくしゃりと歪め、町医者は頷いた。
「泣いてよい。よいんじゃ。泣きなさい。初ちゃんも、よう頑張ったな」
ぶわりと感情が膨れ上がった。
お母さん。
おかあさん。
ひとりにしないで。
「う……うぅ、せんせ、わたし……」
とうとう堪えきれなくなった。
ぷつりと糸が切れたように、初は声を上げて泣いた。
このとき、初は10歳だった。
けれど母が長く病んでいたこともあり、いつしか正しい年齢すら曖昧になっていた。初自身もまた、誰かに言われた年齢をそのまま自分の歳だと思ってしまうような暮らしをしていたのである。
◆
母を亡くしてから、3年が過ぎた。
「虹の街に……? 先生、そんなの、わたしには無理です」
13歳になった初に、町医者は言った。
――『虹の街へ行って、働きなさい』。
虹の街といえば、この町より遥かに大きく栄えた、誰もが一度は憧れる土地だった。
夢を持つ者。自由を求める者。仕事を探す者。
さまざまな人間が集まる。
古びた瓦ばかりの初の町とは違い、赤や青、緑といった異国風の色をまとった屋根や看板があちこちに見えることから、いつしかそう呼ばれるようになったという。
「初ちゃん、紹介状はわしが書こう。りっちゃんと違って、初ちゃんはまだ若い。この町にずっとおっても、広い世間を知らんままじゃ」
町医者には、別の思いもあった。
初は物心がついた頃には、すでに病弱な母を支えていた。遊ぶより先に働き方を覚え、自分のことを顧みる暇もなく暮らしてきた。
もう少しくらい、子供らしく。
もう少しくらい、自由に。
そうして生きても罰は当たらない。
長いこと律子の世話をし続けた少女に、少しでも広い世界を見せてやりたかった。
「でも、わたし……旅に出られるほどのお銭なんて……」
「ここにおるじゃろう。財布が」
「先生! わたしは先生のことを、そのような目で見たことは一度も……!」
「おうおう、知っとるよ」
町医者は愉快そうに笑った。
「銭も奉公先も、わしに任せなさい。支度だけしておけばよい」
「でも……」
「りっちゃんがおったら、同じことを言うたじゃろうよ」
その一言を出されてしまうと、初は何も返せない。
ほっほっほ、と笑う町医者を前に、難しい顔をするしかなかった。
自分では決められない。
そう思った初は、奉公先の女将にも相談することにした。
休ませてもらっている身で仕事場へ顔を出すのは気が引けたが、女将は初を見るなり目を見開き、自宅へ引っ張り込んだ。
一通り話を聞き終えると、女将は迷うことなく頷いた。
「あたしは行った方がいいと思うね」
「女将さんまで……。わたしは、この町を出たことすらないのに……」
「だから出るんだよ」
女将の険しい顔が、ふっと和らぐ。
「あんたはずっと頑張ってきた。紹介してもらえるなんて、大したもんじゃないか。あの先生は、見掛けによらず顔が広いからね」
「でも……」
「まだ13だろう。ここしか知らずに一生を終えるなんて、寂しすぎるよ」
初は黙った。
胸の奥に、ほんの少しだけ明るいものが灯る。
虹の街。
行ってみたい。
見たことのない場所を見てみたい。
そんな気持ちは、ずっと前からどこかにあったのかもしれない。
「……はい」
「心は決まったかい」
小さな頃から初を知っている女将には、すべて見抜かれていた。
本当は行きたかった。けれど初は、自分にはそんな資格がないと思い込んでいただけだった。
町医者も、女将も、背中を押してくれる。
きっと初は。
誰かに『行っていい』と言ってほしかったのだ。
◆
行くと決めたからには、支度をしなければならない。
母の葬りはすでに済んでいる。町医者も女将も手を貸してくれた。
あの人たちから受けた恩は、一生忘れないだろう。
数日後。
初は町医者の援助を受け、生まれてから一度も離れたことのなかった小さな町を後にした。
奉公先は、虹の街の片隅にある小さな製糸場だった。
働いているのは、主人夫婦と弟子の少年、それに新しく加わった初だけ。
町医者が昔命を救ったという主人は、その恩を忘れておらず、紹介状を持ってやってきた初を丁寧に迎えてくれた。
奥方は物静かで、いつも柔らかく笑う人だった。弟子の少年も、年下の初を妹のように気に掛けてくれた。
そんな温かな場所で働き始めて、およそ2年が過ぎた頃だった。
◆
「すまない。怪我はないか」
橋の上で人とぶつかった。
尻餅をついた初へ、若い男が手を差し伸べる。
「下を見る余裕がなかった。前しか見ていなかったもので」
一瞬、意味が分からなかった。
やがて、自分があまりに小さくて視界に入らなかったと言われたのだと気付き、初の頬がかっと熱くなる。
15歳になっても、初の背丈はほとんど伸びなかった。
「……失礼いたしました。どうぞ、お気になさらず」
ふん、と心の中だけで鼻を鳴らし、初は立ち上がった。
そのまま男の横を通り過ぎようとして、ふと顔を上げる。
見上げなければ目の届かない青年の顔は、随分と青ざめていた。額には汗が浮かび、今にも倒れてしまいそうに見える。
「……あの」
腹を立てていた頭が、たちまち冷えた。
具合の悪そうな人を前にしてまで腹を立て続けられるほど、初は冷たい人間ではない。
心配の滲んだ声に、青年はゆっくりと首を傾げた。
初は懐を探り、一枚の手拭いを取り出した。
赤橙に染めた、不格好な模様の手拭い。自分で染めたものだった。
「これは?」
「汗をかいていらっしゃいます」
初は両手で差し出した。
「わたしが染めましたので、あまり綺麗な模様ではございませんが……よろしければ、お使いください」
母の律子は、初の父と駆け落ちをする前は地主の娘だったと聞いている。
初の言葉遣いが、周囲の娘たちよりいくらか丁寧なのは、きっと母のおかげだった。
青年は驚いたように初を見つめた。
決して上等とはいえない着物。化粧もしていない幼い顔。
けれど、そこから紡がれる言葉だけは、奇妙なほど丁寧だった。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
「お返しいただかなくても構いません。使い終えたら、捨ててくださっても」
青年の身なりはよかった。
世間知らずな初にさえ、それくらいは分かる。きっと裕福な家の人なのだろう。
本来なら声を掛けることすらためらう相手だった。
それでも初は、つい世話を焼いてしまった。
青年は手拭いを受け取ると、しばらくその色を眺めた。
「捨てるには、惜しいな」
初には、その言葉の意味がよく分からなかった。
◆
それから、およそ1年。
初の働く製糸場へ、あの青年が訪ねてきた。
しかし運悪く、初は奥方の買い出しに付き添って留守にしていた。
青年は初への礼を残し、馬車で去っていったという。
けれど、その『礼』が初の手へ渡ったのは、それからしばらく後のことだった。
退助という、製糸場の弟子の少年がいた。
退助は初に密かな恋心を抱いていた。
青年からの贈り物を受け取ったのも、退助だった。
彼が初に伝えたのは、『前に会った男の人が来ていた』ということだけ。
初もそのときは、『どうしていらしたのだろう』と首を傾げただけだった。
けれど退助にも、やがて故郷へ戻る日が来た。
両親から呼び戻され、縁談が決まったのである。
自分のしたことを抱えたまま去ることに耐えられなくなったのだろう。
16歳になった初へ、退助はようやくすべてを打ち明けた。
「ごめん、初」
差し出されたのは、すっかり色褪せた薄紙の包みだった。
その中には、深い橙色の小さな布が収められていた。
「これは……?」
「ハンカチーフよ」
傍らにいた奥方が教えてくれた。
「西洋の人が持つ手巾のようなものね」
異国の品が少しずつ街へ入ってくるようになった時代。
ハンカチーフなど、初のような娘には縁遠い品だった。
「……綺麗」
思わず、そう呟いた。
初は退助を責めなかった。
「教えてくれて、ありがとう」
むしろ、柔らかく笑った。
それが退助には余計につらかった。
彼は涙を流し、何度も謝った。
どうにかしたかったのだ。
自分のしたことを、少しでも償いたかった。
故郷へ帰る前夜、退助はかつて初を訪ねてきた青年について聞き回った。
そして、ようやく手に入れた話は、ひどく切なく、退助にはどうすることもできないものだった。
青年にはすでに妻がいた。
名を、玲子といった。
初へそれを告げる勇気まで持てないまま、退助は故郷へ帰っていった。
◆
退助が故郷へ帰ったあとも、時は流れた。
人も、街も、時代とともに姿を変えていく。
初は16歳になっていた。
製糸場にも働く者が増え、今では初にも年下の見習いがつくようになった。
穏やかな日々が、この先もずっと続く。
初は何となく、そう思っていた。
だから、洋装の男が突然現れた日のことを、生涯忘れなかった。
「強引にお連れすることを、どうかお許しくださいませ」
男は深々と頭を下げた。
その日のうちに、初は虹の街から連れ出された。
◆
何日も馬車に揺られた末に辿り着いたのは、見たこともないほど大きな屋敷だった。
道中、男はほとんど何も語らなかった。
その男が、初めて事情らしい事情を口にしたのは、屋敷へ着いてからである。
「あなた様からいただいた手拭いを、旦那様は今も大切に保管しておられます」
初は息を呑んだ。
男の言う旦那様が誰なのか。それだけで分かってしまった。
「あの方の……」
「はい」
男は静かに頭を下げる。
「旦那様の奥方様――玲子様は、他の男と屋敷を出られました」
「玲子、様……」
「御家の面目に関わります。奥方様が突然いなくなられたことを、外へ知られるわけにはまいりません」
男の声には苦渋が滲んでいた。
「ですが……それと、わたしと、何の関わりが」
問い掛けながら、嫌な予感がした。
男はしばらく沈黙した。
やがて意を決したように、深々と頭を下げる。
「どうか、お許しください」
初は黙って男を見る。
「貴女様には、玲子様として、この家へお入りいただきたいのです」
意味を理解するまで、少し時間が掛かった。
「……わたしが、玲子様に?」
「左様でございます」
「そんな……だって、わたしは、あの方とは橋で一度お会いしただけで……」
「旦那様にとっては、そうではございません」
男の言葉に、初は顔を上げた。
「旦那様は、あの日のことを忘れておられません」
「……」
「貴女様からいただいた手拭いを、今もお持ちです」
初は何も言えなかった。
そんな話は知らない。聞いたこともない。
初にとって青年は、橋の上で一度出会っただけの人だった。
それなのに。
あの手拭いを。
今も。
「旦那様が、長く忘れられずにいた方だからこそ」
男は言葉を選ぶように続けた。
「わたくしどもは、貴女様をお迎えいたしました」
「……旦那様は、このことを?」
「奥方様の代わりとなる方をお迎えする、ということだけは」
「わたしだとは?」
「存じません」
初の胸が、大きく鳴った。
嬉しいのか。
恐ろしいのか。
腹立たしいのか。
自分でも、まだ分からなかった。
ただ、ひどく不思議なところまで来てしまった。
そう思った。
◆
「不運だな、その方も」
使用人から事情を聞かされた青年は、疲れたように呟いた。
自分の知らぬところで連れてこられ、名も知らぬ男の妻にされるのだ。
不運としか言いようがない。
「俺の都合で人生を変えられるのだ。恨まれて当然だろう」
帰宅した夫を迎えるのは、奥方として当然のことなのだと教えられていた。
だから初は、玄関先で恭しく頭を下げていた。
青年は、顔を見ないまま言った。
「気の毒なことをした。その方には、俺からも詫びよう」
何を仰います。
いいえ、不運ではございません。
初はゆっくりと顔を上げた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
青年の動きが止まった。
目が、大きく見開かれる。
初には、その理由が分かっていた。
――あの日、橋で出会った人。
青年にとってもまた、目の前に立つ娘は、いつか自分へ赤橙の手拭いを差し出した、小さな少女だった。
しばらく。
本当にしばらく、青年は何も言わなかった。
やがて眉を寄せた。
笑っているのか、泣きそうなのか分からない顔だった。
「……名前を」
かすれた声だった。
「君の、本当の名前を聞いてもよいだろうか」
初は目を瞬かせた。
あの日、青年は初の名前を聞かなかった。初もまた、青年の名前を知らなかった。
ただ一枚の手拭いだけが、二人の間に残っていた。
「初、と申します」
「初」
青年が、確かめるように繰り返した。
その呼び方があまりにも大切そうで、初は少しだけ俯いた。
こうして初は、この屋敷で『玲子』の名を受け継ぐことになった。
本来の玲子の代わりとして連れてこられた少女。
名も、立場も、何もかも借り物から始まった。
けれど、青年にとって目の前の娘は、最初から誰かの代わりなどではなかった。
虹の街の片隅で、かつてひとつの恋が芽生えていた。
叶うことなどないまま、いつか砂となって消えていくはずだった恋。
けれど、人の縁とは不思議なものである。
いくつもの季節を越え。
いくつものすれ違いを越え。
その恋はようやく、陽の下で育ちはじめた。
◆
「昔の話をしましょうか」
かつて初と呼ばれていた玲子は、悪戯めいた顔で刺繍を卓の上に置いた。
目の前では、曾孫が興味深そうに目を輝かせている。
「ひいおばあちゃんの昔の話?」
「ええ」
玲子は目を細めた。
「昔々、わたしは『初』という名の娘だったのよ」
「初?」
「そう。貧乏で、小さくて。働くことしか知らない、何も持っていない娘だった」
「それで?」
「それからね」
曾孫はますます身を乗り出した。
玲子は、ゆっくりと昔を思い出す。
病床の母。
口の悪い女将。
優しい町医者。
虹の街。
赤橙の手拭い。
深い橙色のハンカチーフ。
そして。
玄関先で、自分の本当の名を聞いた人。
「ひいおじいちゃんとは、どうやって結婚したの?」
玲子はくすりと笑った。
「それはね。少し長い話になるわ」
これは、昔の恋の話。
ひとりの少女が誰かに送り出され、誰かに親切をして、その小さな親切が長い年月を巡って少女自身のもとへ帰ってきた話。
本来の奥方の身代わりとして、名さえ変えて嫁いだ少女が、そこで初めて自分が誰かの初恋だったことを知る話。
叶うはずのなかった一目惚れが、いくつもの偶然と、いくつもの人の手を経て。
ようやく実を結んだ――二人の、奇跡の恋の話である。




