てぬぐいの貴婦人
「不運だな、その方も」
何を仰います。
いいえ、不運では有りません。
初は恭しく頭を下げて、玄関先で夫を迎えた。
説明は短く最低限で、連れてこられたのも強引だった。婚礼の祝宴もすっ飛ばし、結納も済ませていない。それでも、初は夫となる相手を憎んでも恨んでも居ないのである。
「お亡くなりに、なられました」
息を切らして走って来たのは、町医者の助手だった。
初は頭に巻いた布巾を外して流しで手を洗う。すうっと息を吸い込んで、数秒間目を閉じた。何も言わぬ初に町医者の助手が堪らず名前を呼ぶ。
「初さん」
「……覚悟はしておりました。時期が来ただけのこと」
背筋を伸ばして目を開き、初は毅然とした態度で声を張り上げる。
「女将さん!暫く休みを頂いても宜しいでしょうか!」
背後で布を力の限り揉んでいた恰幅の良い女性は会話を聞いていたにも関わらず、じろりと初を睨み上げた。
「どうしてか言わないと暇はやれないね!」
「母が、漸くっ……解放、されたのでっ!」
涙声になっていた。
改めて口にしてみると、こんなにも簡単に涙とやらは出てきてしまう。
女将は大きく息を吸った。
「聞いたねアンタ達!初は今日から家に帰る!納得出来ない奴は出てきな!」
女将の口調は荒々しく、それでいて優しかった。
初はよく働いて、ひとりで何人分もの仕事をこなしている。初が居なくなることで、都合が悪い人間も居るだろう。それでも女将は全員を納得させてから、初に充分な休みをやりたかった。
せめて初が気兼ねしないように、送り出してやらなければ。たったひとりの肉親が、居なくなってしまったのだから。
女将はもうそろそろ五十半ば、随分元気が良いのだなと助手は密かに思っていた。
「よし!行ってきな、初。アンタはよく頑張った。早く顔を見せておやり」
「はい……!」
助手は初を連れて建物を後にする。
時は明治、外からの影響を受けて、この町も徐々に色を変えていく。
そんな中でも変わらないのは人間臭い住民達。優しく、厳しく、時には意地悪。しかし、そんな人間達だからこそ――ここまで町は活気を見せる。
初は駆けた。
駆けて、駆けて、早朝に見たばかりの母の元へと懸命に向かった。
既に息は引き取っている。
死に際に間に合う訳でもない。
だが、走らずにはいられなかった。
女手ひとつで初を育て無理が祟って病に伏せた、大好きな母がついに息を引き取ったのだ。
「先生!初さんです!」
助手は無遠慮に初の家のドアを開けて入っていく。
室内で待っていた医者はのろのろと振り返った。
「――最後まで、しっかりしとる子じゃったよ。すまんの、初ちゃん。死ぬまで知らせないでくれと頼まれておったのでな」
初の母を子供の頃から知っている町医者はとても穏やかな表情で初の母の髪を撫でた。
「よう頑張ったな、りっちゃん」
律子――りっちゃん。
初の母の名前である。そもそも初のような貧乏平民のところに通ってくれる町医者なんてこの人しか居ないだろう。母の父と親友だったという町医者も随分と長い間、母の面倒を見てくれた。
正座をして、背筋を正す。初は涙をぐっと堪える。
「先生」
短く呼びかけると、町医者は初へ振り返る。同時に助手も振り返ったが、初はそれを確認する前に、身体を折って頭を下げた。
「ありがとう、ございました。先生も、長い間――お疲れ、様でした」
つっかえてしまっていたが、礼儀を欠いたからと言って初を叱るような人でもない。皺の目立つ優しい顔をくしゃりと歪めて町医者は頷く。
「泣いてよい、よい。泣きなさい。初ちゃんもありがとうな」
ぶわり、と感情が高ぶる。
お母さん、おかあさん。
ひとりにしないで、おかあさん。
「う、うう、せんせ、わたし……」
ついに堪えきれなくなった。ぷつりと糸が切れたように、初は大声を上げて泣いた。
当時、初は齢十歳。
見た目には十二・三の頃に見えているが、母が病に倒れてから母は初の正しい年齢さえ分からなくなってしまい、初もまた言われたままの年齢が自分の年齢だと思うような時世だった。
「虹の街に……?先生、そんなのわたしには無理だよ」
――十三になったのだから、虹の街へ行って働きなさい。
町医者はそう言った。
虹の街と言えばこの町よりも随分大きく栄えている誰もが憧れる街である。誰かは夢を持ち、誰かは自由を求め、誰かは仕事を探して、虹の街に行くのである。その街が虹の街と呼ばれる所以は各家の屋根の色にあった。虹色とは言えないが、この町のように暗くは無く明るい屋根をしているのだ。
「初ちゃん、紹介状は書いてあげよう。りっちゃんと違って、初ちゃんはまだ若い。この町にずっと居てもしあわせにはなれないだろうよ」
町医者の思惑は別のところにあった。
初は物心がついた時には既に母が衰弱していて、楽しい時間をするより先に働きに出るようになった。もう少し、子供らしく――自由な時間を過ごしても罰は当たらないではないか。長年、律子の世話をして自分の事など顧みなかった初に少しでも良い思いをさせたやりたいというのが本心だった。
「でも、わたし、銭も持たないで……」
「ここにおるじゃろう、財布が」
「先生!わたしは先生のことをそんな風に思った事は一度も……!」
「おうおう、知っておるよ。銭も奉公先もまかせなさい。りっちゃんのことが落ち着いたら、出発の準備を始めなされな」
ほっほっほ、と笑った町医者に、初は難しい顔をするしかなかった。
自分では決められない。
そう思った初は奉公先の女将さんに聞いてみることにした。休ませて貰っている身で作業場に顔を出すのは気が引けたが、女将さんは目を見開いて初を作業場の隣の自宅に呼び込んだ。
女将に相談し終えた初は、どうすれば良いかを伺う。しかし、女将は頷いて虹の街行きに賛成した。
「あたしは良いと思うけどね。初はずっと頑張って来たんだ。紹介して貰えるなんて凄いじゃないか。あの先生はそれなりに人脈があるみたいだからね」
「女将さんまで……わたしは町を出たことが無いのに……」
「だから出るんだ。まだまだ若いあんたがここで一生を終えるなんて寂しすぎるよ」
女将はきつい顔をにっこりと和らげて初に笑いかけた。初は徐々に自分の気持ちが虹の街に向かい始めていることに気が付いた。
「……はい」
「心は決まったかね」
初を小さい頃から知っている女将には初の気持ちは見抜かれていた。
本当は行きたかったのだ。虹の街に。けれども初は自分にその資格が無いと思い込んでいた。しかし、町医者も女将も初の背中を押してくれる。
本当のところ、誰かに背中を押して欲しかっただけなのだ。
行く、と決めたからには準備をしなければならない。
初は家に帰ってすぐ、小さな箪笥から荷物を取り出した。
母の遺体は町医者が丁寧に葬ってくれるらしい。お世話になった恩は一生忘れられないだろう。
――数日後、初は町医者の援助で小さな小さなこの町を出た。
奉公先は街の片隅にあるとても小さな製糸工房だ。従業員は僅か三名、二人の夫婦と弟子の男の子。町医者が昔救ったという旦那さんはひどく町医者に感謝をしていて、その紹介で呼ばれた初をそれは丁寧に受け入れてくれた。奥方はおとなしく、やんわりと笑う女性だ。弟子の少年も初の事を妹のように思ってくれた。
そんなあたたかい製糸工房で働き出して、約二年が過ぎた頃――。
「すまない。怪我は無いか」
渡り橋で誰かにぶつかった初はそんな声で身を起こした。
「下を見る余裕が無かったのだ。前しか見ていなかった」
初の身長は全く伸びず、青年の身体の三分の二にも満たなかった。小さい、と言われているのだと気が付いた初は顔を真っ赤にして立ち上がる。
「失礼致しました。お気になさらず……!」
ふん、と心の中で鼻息を荒くして初は青年の前から退いた。そして、ふと顔を上げる。見上げなければ見られなかった青年の顔は随分と疲れていて、今にも倒れそうだった。
「……あの」
かっとなっていた頭が冴える。顔色の悪い人を相手に腹を立てるほど、初は冷たい性格をしていない。
心配を孕んだその声音に青年はゆっくり首を傾げた。
ごそごそとポケットから、初は手ぬぐいを取り出す。初が染めた赤橙の変な模様の手ぬぐいに、青年は目を丸くした。
「これは?」
「汗が、出ています。わたしが染めたものですので、模様はきれいではありませんが……どうぞ、お使いになられて下さい」
初の母、律子は父と駆け落ちする前は地主の娘だったと聞く。
初の言葉遣いが平民のそれより幾分が綺麗なのは母のおかげなのだろう。現に、青年は驚いたようで初を穴があくほど見つめる。
服装はそこそこだが、化粧も何もしていない顔。身形に気を使える程に稼ぎは良くないのであろう。そんな少女が紡ぐ言葉とてもきれいで礼儀正しい。
「ありがとう。受け取らせて貰うよ」
「返す必要は御座いません。使い終えたら捨てて下さっても構いませんので」
青年の身形は良く、知識の浅い初でさえもすぐに見て分かるほど。
お金持ちの息子だろう。
そんな人に声を掛けるのは恐ろしかったが、初はつい世話を焼いてしまっていた。
それから一年が過ぎた頃、初が働く製糸工房に青年はやって来たのだ。
しかし運悪く初はその場におらず、奥方の買い出しに付いていっていたのである。
青年は初にお礼を残し、馬車で去っていったという。――しかし、それを聞いたのは初が十四になってからだった。
退助という少年は初に恋心を寄せていた。
青年の贈り物を受け取ったのは退助で、青年が来た事しか初の耳には入って居なかったのである。その時は「どうして来たのだろう」としか思っては居なかったが、退助の両親が退助を村に呼び戻し――退助の縁談が決まると、漸く退助は初本人にそのことを打ち明けた。
すっかり色褪せて茶色くなってしまった薄紙に包まれていたのは深い橙のハンカチーフ。手ぬぐいしか知らぬ初に奥方がこれはハンカチーフと言うのよと教えてくれた。西洋文化が少しずつ浸透して来ていた時代、ハンカチーフは平民にとってとても素敵な贈り物だった。
退助は申し訳なさそうに初にそれを渡したが、初は退助を責めることなくそれを受け取りやさしく笑った。
教えてくれてありがとう。
その言葉に退助は涙を流して罪悪感に身を捩らせる。――どうにか、したかったのだ。
退助は己の行いをどうしても帳消しにしたかった。
田舎に帰る前夜、退助は青年について聞きまわり、やっと手に入れた情報はとても悲しく切ないものだった。
青年は既に婚姻し、奥方が出来ていた。
初にそれを知らせることなく、退助はすごすごと田舎に帰った。
時は流れ、時代は動き、大きく街が変化する。
初は十六になっていた。
製糸工房も従業員が数人増え、初にも見習いがつくようになった。
そんな穏やかな日々の中、突如として現れたのは洋装の柔和な男性。
「強引に連れて行くことを、どうかお許し下さいませ」
深々と頭を下げて、その男性は初を拐った。
数日間ずっと馬車に揺られ、大きな屋敷に辿りついた。
そこで初めて、男性は口を開いた。
数日なにも語らなかった彼はぽつりと零すように話しだしたのである。
「あなたが染めた手ぬぐいは、今もずっと飾られたまま。旦那様の奥方様は不埒な輩と駆け落ちをして、旦那様を捨てたのです」
初は知る。
彼の言う旦那様が、あの日出逢った青年だと言うことを。
「どうか、お許し下さい。貴女様を影にして、奥方様に仕立てることを」
帰宅した旦那を迎えるのは、奥方として当然のことだ。
使用人から逃げた妻の代わりになれそうな女性を連れてくると青年は聞かされていた。
玄関先で頭を下げ、自身を迎えた女性の顔も確認せず言った。
「不運だな、その方も」
名も知らぬ相手の奥方に仕立て上げられるのだから、と。
初はゆっくりと顔を上げる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
初を見た青年は、驚きに目を見開いた。
――彼女は、いつかの小さな少女。
顔を見るまでわからなかった。青年は眉をぐっと潜め、泣きそう顔をして笑った。
「名前を、聞いても良いだろうか」
虹の街の片隅で、ひとつの恋が芽生えていた。
それはどう足掻いても、叶う事なく砂になるかと思われた。
しかし、いくつもの歳を経て――その恋は、ふわりと芽吹く。
昔の話をしましょうか。
玲子は悪戯めいた顔で刺繍をテーブルに置いた。
かつて自分は“初”という少女であり、ここには拐われて来たのだと。
ひい孫は興味深そうに目を輝かせて聞いている。
これは、昔の恋の話。
一目惚れが成就した、二人の奇跡の恋の話だ。