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79 夢の欠片


 ひやり、と熱を帯びていた頭に冷たい感触を感じた。

 誰かの手が私の頭を擡げて、氷嚢を取り替えてくれたのだと気づく。熱で朦朧としている頭に冷たさが流れ込んできて心地いい。

 でもメリッサじゃない気がした。そっと頭を元の位置に戻す手の優しさに懐かしさを覚えた。


「……お母、さ……」


 子供の時、熱を出して寝込んでいると母の手がそっと氷嚢を取り替えてくれた。それは勿論、今の母ではなくて前の母だけれど。心は大人になっているはずなのに母を呼ぶなんて恥ずかしくもあるけど、その手は思わず呼び止めたくなるぐらい似ていた。

 一度離れた手が、声に気づいたのか汗で額に張り付いていた前髪を優しく梳いて撫でつけてくれる。少し冷たい指先が心地よかった。

 重い瞼をなんとか持ち上げたけれど、うっすらと開いただけの目では霞んでよく見えない。まだ夜なのか周りは暗い。ランプに小さな火が灯されているのようだけど、部屋全体がわかるほどではなくおぼつかなかった。諦めてもう一度目を閉じる。

 悪夢ばかりを見るから眠るのは怖いのに、熱の籠った体は貪欲に睡眠を求めてくる。

 それとも、ここはまだ眠りの中?


(夢、見てるのかも)


 見るのは悪夢ばかりだったけれど、今度は随分と都合のいい夢。


(あれから、どうなったの)


 頭が熱に侵されてぼんやりするせいか、うまく思い出せない。考えが纏まらない。


(湖、飛び込んで……兄様に、女だって知られてて、それで)


 自分勝手な言い訳をいっぱいして、小さな子どもみたいにみっともなく泣きじゃくった。

 そこからがうまく思い出せない。

 否、どこまでが現実で、どこからが夢なの。

 気づいた時にはベッドの上で、全身が悪寒に襲われていた。熱が上がっていくことを知らせるように、肌はシーツに触れるだけでも痛いほど敏感になっていた。今も吐き出す息は荒く、熱い。全身の骨と関節が高熱に苛まれて軋んで痛む。

 足手纏いになった上、庇われていただけの私が、ちょっと夜の湖を泳いだだけでこの体たらく。

 このところあまり食欲もなかったし、悪夢ばかり見るから眠りも浅くて体力も落ちていたとはいえ、情けなさで目頭が熱くなる。こんなところで呑気に寝込んでいる場合じゃないのに、私は何をしてるの。

 焼けるように熱い喉から絞り出した「ごめんなさい」が兄に届いていたか、不安が残る。

 何度か繰り返したはずだけど、ちゃんと声になっていた?

 大きな手に宥められて、「今は何も考えずに眠っていろ」と優しい声で言われてしまった。その後で兄が誰かと話す声が聞こえたけれど、眠りに飲み込まれてそれはすぐに遠のいた。

 泥のように眠って、悪夢を見て、僅かに起きて、また眠って。これが数時間なのか、数日なのかの時間的感覚すらあやふや。明けない夜の中にいるかのよう。

 やっぱりまだ夢の中なの?

 私ははやく、目を覚まさないといけないのに。


「……あやまらないと」


 うわごとのように擦れた声で呟く。

 早く起きて、ちゃんと謝らないと。

 この先どうなるのかわからない。あれが夢でないのなら、兄は私だけが抱えなくてもいい問題だと言ってくれた。けれど、手放しで誰もが無罪放免とはいかないことぐらいはわかる。

 まだ動けるうちに、謝らないと。

 謝らなければならない人はたくさんいる。兄に後で改めてちゃんと謝るのは当然として。


(メリッサ……)


 大切で、大好きな乳姉妹。

 きっとたくさん考えて、勇気を振り絞ってくれた。一緒に逃げてくれるとまで言ってくれた。

 私は、そんな彼女の心を踏み躙る選択をした。

 きっと怒らせたし、何よりひどく傷つけた。そして私の選択は、メリッサから母親であるメアリーを奪ってしまうものでもあった。場合によってはマッカロー伯爵家も無くなる。謝っても謝り足りない。

 それから、セイン。

 離れている間に勝手な真似をしてしまった。血が繋がっているというだけで、巻き込む形になってしまった男の子。しかも私は残されるメリッサのことも頼むつもりだった。

 最後まで、迷惑をかける気でいた。

 メル爺にも。

 覚悟をしていると言われていたけれど、切り捨てる真似をしてしまった。汚い部分を共謀させる気でいたし、心のどこかで最期まで一緒に付き合ってほしいという甘えもあった。

 ラッセルは私の元に来て日が浅いから、と後回しにしてしまった感がある。

 命まで懸けてくれた人なのに。真摯に私に向き合ってくれた彼に、助ける為とはいえ嘘を吐かせるつもりでいた。ある意味それは、彼にとっては死ぬより酷な事だったかもしれないのに。

 あと、そう。ニコラスとオスカーにも謝らなければならない。

 襲われた時に手を貸してくれたのに、私達は助ける価値もない人間だった。とんだ無駄骨を折らせてしまったのだから。

 ランス伯爵夫妻にも気を遣わせてしまったようだし、それとデリック。

 こんな立場の私が、彼にはえらそうなことを言ってしまった。失望させてしまったはず。キラキラした目で私と見つめてきた彼を、私はまっすぐに見返せなかった。私は彼の信用に足る人物にはなれなかった。

 あとは。


「……クライブ」


 口にすれば胸がギシリと軋んだ。熱のせいだけでなく、目頭が熱くなる。


「あやまらなきゃ」


 ずっと騙していた。

 素知らぬ顔をして皇子だと偽っていた。本来私に向けられるはずのない好意を、騙して受けてしまっていた。

 後悔と自分に対する嫌悪感で胸が苦しい。込み上げてくるごちゃ混ぜな感情が抑えきれない。目尻から堪えきれなかった感情が涙となって零れ落ちていく。

 謝らなきゃ。

 謝らなきゃ。

 謝らなきゃ。


(――でも謝るのって、ずるい)


 謝罪するということは、許してほしいと思っているから。

 謝ってすっきりしたいという、加害者側の自己満足に過ぎない。

 許したくない相手から謝られても、相手は嬉しくもなんともない。それに謝罪してくる相手を許さないのは、自分の心が狭いのではないかと思わせてしまいかねない。迷惑にしかならない。

 ……じゃあ、どうすればいい?

 わからなくて、ボロボロと情けなく涙が零れる。その目尻に優しく指先が触れるのを感じた。零れていく涙を布でやんわりと拭われる。

 やっぱりこれは、夢なんだ。目を閉じたまま、お母さんみたいな手に甘えるように、ぐしゃりと顔を歪める。


「……あやまりたぃ」


 こんなの自分の我儘だとわかってる。謝られても、相手が困る。クライブは私の顔など見たくもない可能性は高い。あれほど心を砕いてもらっていたのに、騙していたのだから。

 私自身、顔を合わせるのは怖い。

 騙していたのかと糾弾されると思うと怖い。

 侮蔑に満ちた瞳で見られるのは怖い。

 それでも――。



 目尻を拭っていた手が離れた。

 そうそう都合のいい夢は続かないらしい。離れていく気配がして、遠くで扉が開く音がした。暗がりの中に一人、取り残されてしまう。

 喉が嗚咽でひくつくせいで息苦しい。うっすらと目を開いたものの視界は涙のせいで歪む。

 やっぱりこれは夢で、きっとこれから怖い何かがやってくる。何度も見た夢と同じで、これだけ体が動かないなら、また走っても走っても前に進まないに違いない。

 捕まって、殺されて、またその繰り返し。

 ぎゅっと目を閉じる。心臓が竦み上がる。夢の中だって怖いものは怖い。

 案の定、再び静かに扉が開く音がした。頭は熱で朦朧としているくせに、忍ばせた足音が近づいてくるのを耳が拾い上げる。

 不安と恐怖で高鳴った心音が耳のすぐそばで鳴り響いているみたい。高熱のせいで体を強張らせる力もなく、ただベッドの上で何度目かわからない死を待つのみ。

 ただ今までの夢と違って、その気配はひどく遠慮がちだった。ベッド脇まで来たのに動く様子がない。顔の近くで風が動いたのを感じたけれど、私に触れてくることはない。


(……?)


 いつまで経っても襲い掛かってくることはなくて、重い瞼をなんとか持ち上げた。

 僅かな灯りとぼやける視界の中、ゆっくりと死神の輪郭がはっきりとしていく。そこに見慣れた人の形を作る。


「クライブ?」


 思わず驚いて呼んだ声は擦れた。

 謝りたいと言ったのは私。だけどいくら夢でもこんな都合よく現れるなんて考えてもいなかった。全身が心臓になったみたいに、ドクドクと大きく脈打つ音が響く。

 それに謝らなければならないとは思っていたけれど、いざ顔を合せれば全身が竦み上がる。夢だとわかっていても。


「ごめ、なさ……っ」


 咄嗟にそう言ったものの、擦れてうまく声にならない。

 反応が怖くて反射的に顔を逸らしかけた。だけど私を見下ろす表情は私が予想していたものじゃなくて、視線を逸らし切ることが出来なかった。

 だって、どうして。


(どうしてクライブが、泣きそうな顔をしてるの)


 謝った私を見下ろして微かに唇が戦慄く。何と言ったらいいのかわからなかったのか、結局その口が開かれることはなかった。何も言われなかったけれど、恐れていた糾弾もない。

 ただ痛みを受けたように眉間を寄せて、奥歯を噛み締めているのか唇を強く引き結んでいる。私を見つめる表情からは、ひどく後悔が滲み出していた。

 まるで、もっと早くに気づいていればよかったと言いたげな。自分の不甲斐なさを、悔いるかのような。


(やっぱりこれ、夢なんだ)


 だってこんなに私に都合のいい展開、あるわけない。

 想定外過ぎる反応をするクライブを見上げて、なんだ、と少しだけ強張っていた心から力が抜けた。胸を占めるのは僅かな安堵と落胆。

 それと、こんな夢を見てしまう罪悪感。


(なんて、悪夢)


 こんな夢を見てしまったら、現実に戻った時に夢との差異で更に苦しむことになるのに。いまだけ優しくて甘い夢を見ても、なんの意味もないのに。


「……だましていて、ごめんなさい」


 意味などないはずなのに、唇からは謝罪が零れ落ちた。

 現実では言わせてもらえないかもしれない。夢であっても縋りたかった。

 ひどく小さな声になってしまったけれど、ちゃんと聞こえたのかクライブが僅かに肩を震わせた。私に都合のいい夢みたいだけど、いつ責められるかわからない。それが怖くて逃げるように目を閉じた。


「気にかけてもらえる資格なんて、なかったのに」

「っそんなことはありません! 僕らがもっとはやくに気づいていれば、こんなことにはならなかった。そうすればアルト様が苦しむことなんてなかったんです……!」


 即座に悔しげな声音で言い返されたけれど、夢にしても出来過ぎて言葉が出てこない。

 私は、こんなこと言われたかったの?


(うん……。言われたかった)


 救い上げてくれる言葉が、喉から手が出るほどに欲しかった。


「ちゃんといわなければいけないのは、私の方でした」


 視界が暗闇に包まれると、熱の籠った頭が一層ぼんやりとしてくる。真っ当な思考が溶かされていき、会話が成り立っているかすら曖昧になっていく。持て余している感情だけが胸で燻る。


「でも、こわしたくなかった……。ここにきてから、ずっと、夢をみてるみたいでした」


 朦朧としたまま、うわごとのように言い訳にならない言い訳を口にした。


「……夢を、みていたかった」


 ここに来てから、否ここに来る前から、夢を見ているようだった。

 女だと絶対に知られるわけにはいかなくて、それでいて私は時折女の子のように扱ってもらえることが、嫌ではなかった。困ったと思いながらも、それはどこかくすぐったくて、喜んでいる自分もいた。ふわふわと夢の中を歩いている心地だった。

 クライブには怖い思いもさせられたし、困った人だと思うこともよくあったけれど。

 でも誕生日プレゼントをくれて、私が生まれてきたことを祝ってくれた。

 他の人達と違って擦り寄り目的でなく、家族でもない私の周りの人以外から祝われたのは、あれが初めてだった。

 その日に脈絡もなくキスされた時は当然驚いたし、怒りもしたけれど。だけど心の片隅では、女の子として見られたことに浮き立ってもいた。知られたらいけないというのに、馬鹿みたいに浅はかに、嬉しいと思ってしまう自分もいた。深く考えないように必死だった。

 そして約束したとおり、私が助けを求めた時に手を貸してくれた。私の大事な人達を迷わず助けてくれた。

 私と母は、別物だといってくれた。

 ちゃんと私自身を、見てくれていた。偽っていた身でしかなかったけれど、それでも。


(必要だって、言ってくれた)


 偽りの自分に向けられたものだとわかっていたけれど、それでも。


(嬉しかったの)


 罪悪感に押し潰されそうな反面、どうしようもなく喜んでいる自分もいた。一時だけでも、救われたように感じていた。

 熱くて苦い感情が胸いっぱいに込み上げ来て、せっかく止まっていた涙が閉じた瞼を抉じ開けて溢れてくる。

 向けられる優しさが本当の私に向けられるものであればいいのに、と夢に見た。ありえない夢を見た。まるで麻薬みたいに、中毒性のある甘ったるい夢を手放せなかった。このまま夢の中にいたかった。

 でも夢は必ず醒めるもの。とっくに夢の時間は終わっていた。


「でももう、現実に、もどらなきゃ」


 そう呟いたものの、暗がりの中にいるせいか、意識は再び襲ってくる睡魔の中に飲み込まれていきそう。夢の中なのに眠たいって、ひどく不思議な気分。どろりとした闇に体を掬われて、内側から眠りが侵食してくる。

 おかげで口から紡がれる言葉は、きっとまともな発音になっていない。

 眠りの中で見る夢は甘ったるい夢のままでいてくれるみたいで、零れ落ちた涙を躊躇いがちに拭われるのを感じた。

 さっきの柔らかい手とは違う、硬い指先。町で繋がれた時に感じたのと全く同じ。その手の質感と人肌の熱があまりにリアルで、余計に泣きそうになってしまう。

 これが現実なら良かったのに。

 今度こそ目が覚めたら、逃げることは出来ない。向き合わなきゃ。どんな結末を迎えるとしても、それが私の義務。

 でも、その前に。


 まだここは夢の中だから、最後にあと一言だけ。


 ちゃんと言葉になっていないだろうから、ちょうどいい。

 吐息に混ぜて、夢の欠片をここに置いていく。


「私……、クライブに――」


 報われないことなんてわかっていたけど。相手にされなくても。冗談めかしてでもいいから。




 ――あなたに「好き」と言える女の子に、なってみたかった。





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