75 My name is
暗い部屋の中で隣のベッドから寝息が聞こえてきたのをしばらく聞いてから、音を立てないようにそっとベッドから体を起こした。今のメリッサは神経を張りつめているだろうから、眠りは浅いはずだ。大きな音を立てれば多分、起きてしまう。
(睡眠薬が効いているから大丈夫だとは思うけど)
メリッサが持ってきてくれた食事は、ほとんど喉を通らなかった。「お腹が空いた」と言ったのはメリッサに部屋を空けさせる為の方便だったわけだから当然とはいえ、しかしメリッサは食べられない私に特に何も言わなかった。緊張しているのだと判断されたのかもしれない。
メリッサが卓を片付けてくれている間に湯を借りて、後に入浴したメリッサを待っている間に睡眠薬を混ぜ込んだお茶を淹れた。元々苦みのあるお茶だから、多少薬で苦さが増したところで誤魔化されてしまう。
疑われることなく口にした姿を見た時は、胸がじくりと痛みを訴えた。
(私は誰かを騙してばかり)
窓から差し込む月明かりしかない暗い部屋の中、ベッドに腰かけたまま隣で眠るメリッサの顔をしばし見つめる。薬の力を使っても、夢の中ですら穏やかとは言えない僅かに顰められた顔をしていた。
ごめんね、と胸の内でだけ何度目かわからない謝罪を呟く。
許されるなんて思ってない。後でメリッサはきっと怒るだろう。恨まれるかもしれない。
それでも、私は。
(死なせたくない)
部屋履きに足を入れて、ゆっくりと立ち上がった。
ベッドの上に掛けてあった、踝まである厚手の長袖のゆったりとしたガウンを手に取った。この期に及んでも尚、体型を誤魔化すための服が手放せないことに苦い笑みが浮かんでしまう。しかし理由はそれだけではなく、夏とはいえ夜はかなり冷え込むせいでもある。
そんな言い訳をしながら、脹脛丈の白いシャツタイプの寝間着の上に羽織った。
部屋の扉を見やり、だけど足が竦む。
外からは物悲しげな虫の声が微かに響くだけで、大半は寝静まっている頃合い。こんな時間に一人で部屋を出たら、扉脇に控える衛兵は怪訝な顔をするに決まっている。
だけど兄の部屋へ赴くのだと告げれば、単なる兄の御手付きだと思って何も言わずに送り出してもらえるはず。今までは侍女を連れてきていなかったらしい兄がわざわざ侍女を連れてきたということは、そういうことだと思われていてもおかしくはない。
(兄様には、変な誤解をさせることになって申し訳ないけど)
しかし私の正体が知られれば誤解はすぐに解ける。ほんの一時だけだから目を瞑ってほしい。
そんなことを考えながらも、一歩目が躊躇して踏み出せない。体は動かないくせに心臓だけは激しく踊っていて、忙しない心音を響かせて私の覚悟を掻き乱す。無意識に震える拳を固く握りしめると、自分を落ち着かせるために空気を吸い込んだ。細く長く震える息を吐き出してみる。
(取引するために、今の私に差し出せるもの)
けして多くはない。
取引というのは、相手が求めるものがなければ成り立たない。これまでの兄との会話を思い返して、兄が望んでいたものを自分の胸に思い起こす。
(兄様も平穏無事な生活がしたいって、そう言っていた)
私が兄に平穏な生活を望んでいると告げた時に、兄も「私もそれがいい」頷いた。そこに嘘は見えなかった。「それが案外難しい」とぼやいていたぐらいだ。
ならばこのまま事を公にして、大事にして国の内部を乱したくはないはず。今なら最低限で抑えられるかもしれない。
一斉粛清を狙っているならともかく、私に接する兄を見ている限りでは、そのために私を利用するようには見えなかった。多少の同情はしてもらえるんじゃないかと思うのは、甘すぎるだろうか。
(でも、多くを望み過ぎてはいけない)
私が支払える代償で、どこまで助けられるかを見誤ってはいけない。
「それぐらいならば目を零してやってもいい」と思われる範囲でなければ、誰も助けられずに終わってしまう。欲張り過ぎてはいけない。
(……だから大人は、助けられない)
メル爺や乳母のメアリーには、考える力があった。立場的に逆らえなかったにしても、選んだ時点で責任を負っている。
だから、助けられない。
そこまで考えれば、どうしたって先に進む覚悟が揺らぐ。
(だいたい、私の仮定が合っているという保証もない。ここで動くことは早計かもしれない)
読み違えている可能性も勿論ある。まだ気になる点は残っている。
たとえば伯父はあれほどの暴走を、本当にエインズワース公爵に知られず成し遂げられるだろうか?
エインズワース公爵も噛んでいなければ、あそこまで出来ないのでは?
だけどエインズワース公爵が、私に対してそんなことをする理由がわからない。
そしてわかったところで、どちらにしても詰んでることに変わりはない。伯父は目を付けられている。逃れることは出来ない。そう遠くない未来に、私の存在は明らかにされるだろう。
そこまでいってしまったら、それこそ本当に誰も見逃してはもらえない。
(それに私は、兄様に償わなければいけない)
助けてもらったときに、罪は清算するべきだとあれほど強く思ったことを忘れたわけではない。
向けられる愛情が嬉しくて、心地よくて。まるで夢の中にいるみたいだったから、ついずるずると先延ばしにしてしまっていた。
けれど本当は、それらは私なんかが与えられていいものではなかった。
音が立つほど奥歯を強く噛み締めて、込み上げる焦燥のままに叫び出したい衝動を必死に堪える。
(こんなことになるぐらいなら、もっとはやくに手を打っておくべきだった……っ)
本当は、自分に出来ることはあったのに。
いつも誰かに助けてもらおうとするばかりで、出来ることから目を逸らしていた。
(だけどもう綺麗ごとなんて言ってられない。失くしたくないなら、私が守らなきゃ)
どんな手を使っても。
(生きていてほしいんだよ)
振り返って、眠りの中にいるメリッサの姿を見つめる。
強張った顔は、とても良い夢を見ているようには見えない。夢でも現実でも、いつだって私達を取り巻くのはどうしようもない世界だ。こんな場所で生きている方が苦しいかもしれない。
だけどそれでも尚、生きていてほしいと願ってしまう。
だって死ぬのは、本当に怖い。一度死んだ記憶がある私だからこそ、この胸に刻み込まれた絶望を知っている。
別に死んだからと言って、地獄に行くわけじゃない。天国があるわけじゃない。ただ、存在が消えていくだけ。
でもそれは自分という存在が硫酸で出来た底なし沼に溶けて、崩れ落ちていくかのような恐怖だった。繋がりは強制的に断ち切られ、それまでの自分の努力が、感情が、なけなしの生きた意味すら、すべてがなかったことにされてしまう。
あの絶望。
思い出すと軋んで潰れそうになった胸を膨らませるために、僅かに息を吸い込んだ。
「私の名前、覚えていてね」
吸い込んだ息を吐息に代えて、その中に小さな囁きを溶け込ませた。聞こえていないとわかっていても、なんとなくそれだけは言っておきたかった。
そういえばメリッサは結局、人前以外では私のことをアルフェンルートと呼んでいた。愛称を使われないことを他人行儀だと感じていたけれど、今はそれでもいいかと思っている。正しく私の名前を憶えていてくれると言うのなら、メリッサが忘れない限り、きっと私はそこに存在し続けることが出来るから。
(名前がこんなに大事なものだとは思わなかった)
ふと、昔聞いた話を思い出す。
たとえば物を数える時、死んだ後に食べ残った部分を言うのだと聞いたことがあった。
魚なら尾だから一尾。鳥なら羽なので一羽。牛や馬は頭が残るから一頭。
そして食べるところがない人は、ただ名前だけを残す。だから人を数える時は、一名。
だけど私は、どうしてもかつての自分の名前が思い出せない。
どれだけ記憶を手繰り寄せても、今も尚。ゲームのキャラクター名だとか、そういう至極どうでもいい知識や記憶は残っているのに。あだ名も、好んで使っていたハンドルネームすら思い出せない。自分も含め、そこに生きた人達の名前だけは、どうしても思い出せないまま。
そしてもう誰も、かつての私の名を呼ばない。
私の名前を知らない。
私自身すら、自分の名を忘れてしまったのだから。
……『死ぬ』というのは、きっとそういうことだ。
誰からも忘れ去られていく。確かにそこにいたはずなのに、それがなかったことになっている。
存在を根底から否定されるようなそれは、とてつもない恐怖だった。時折、今の自分がかつての自分だと思っているものは、ただの逃避から生まれた妄想の産物ではないのかという疑惑すら浮かんでくる。
そんなことを考えるほどに、一度死んだ自分は不安定な存在になっていた。
(今ここにいる私も、かつての私そのものというわけじゃないし)
前の私を思い出したばかりの時は、私はここに生まれ育った私を忘れていた。けれどあれは、故意にそれまでの自分の意識を沈めていたからだ。
あの時は、何もかも放り出して、逃げ出してしまいたかった。
それでも今こうして今と昔の私が溶け合っているのは、結局、私は前の私にすべて投げて、見ないフリをする己の無責任さが許せなかったからだ。何も見捨てられなかった。
生き延びてしまったのなら、そして死の恐怖を知った今、もう一度やり直してみるべきだと思った。死ぬつもりなら、もっとどうにかできるんじゃないかと必死に足掻いた。
その内、以前は切り替えていた感覚のあった自分が、いつしか自然に重なって溶け合って存在していた。
最初はそれまでの自分達の人生は、画像編集ソフトでいえば別個のレイヤーとして存在していたのに。デジタルで絵を描いたことがある人ならばよくわかると思うけれど、ふと気づいたときには、うっかりレイヤーを統合させていたらしく2枚を切り離せない状態になっていた。歪ながらも、一枚の絵になっていた。
そうやって、今ここにいる私になっている。
今となってはかつての私も含めて私になっているとはいえ、それでも喪失感は拭い去れない。名前を呼ばれないと言うのは、存在が認められていないのだと言われているようなものだから。
でも呼ぶべき名前も、もう憶えていない。
私には、今の名前しか残っていない。
(それすら、このままだと手放すことになりそうだけど)
それでも少しでも長く、ここにいた形跡を残していきたいと願ってしまう。
その為にも、私は足掻かなきゃ。
竦む足を叱咤して前へと踏み出した。
一歩進むごとに足元から崩れ置いていくかのごとき恐怖に抗って、音を立てないよう静かに足を進める。小さく息を吸い込んでから、扉に手を掛けてゆっくりと開いた。
開いた扉の先の廊下は部屋より幾分か明るい。とはいえ、暗いことに変わりはない。等間隔に置かれたランプ代わりの蓄光石はぼんやりとした淡い光を放つだけ。
「どちらに行かれるのですか」
「!」
だから扉脇に控えていた人間が、黒い制服に身を包んでいることに気づくのに遅れた。
弾かれたように顔を上げれば、そこにいるはずのない人の姿に苦い気持ちが喉元まで湧き上がってくる。
(ほらね、メリッサ。やっぱり逃げられはしないんだよ)
夜の護衛はランス伯爵邸の私兵に任せていると言ったくせに。実際、今までは任せていたのかもしれないけど、こういう時に限って外さないのだから嫌になる。
しかしこうして警戒させる態度を昼間に取ってしまった私が悪いわけで、言ってみれば自業自得。
いっそ笑い出したい衝動に駆られて、実際に微かに自嘲の笑みが浮かんだ。
「兄様の元に連れていってもらえますか」
クライブ、と呼びかける自分の声は、震えてはいなかっただろうか。




