71 はじめてのおつかい
クライブの冗談は笑えなかったけれど、茶化してくれたおかげで少しだけ冷静さを取り戻した気がした。
ただ冷静になった分、後悔と羞恥が一気に込み上げてくる。
(私はいったい何を言っているのっ)
いますぐ穴を掘って埋まりたい。出来れば頭を抱えて力いっぱい叫びたい。情緒不安定にも程がある。
しかしこのところ甘やかされて嬉しい気持ちと、向き合わなければならないこととから逃げている罪悪感と、考えなければならないことがせめぎ合っているのだ。些細な切っ掛け一つで、なんとか保っている感情は簡単に決壊しそうになる。
(……とっくに限界なんだろうな)
それに加えて、厄介な感情まで自覚させられた。
ただでさえいっぱいいっぱいだから、気づかないフリをしたままでいたかったのに。
恋はするものではなく、落ちるものだとはよく言ったものだと思う。まるで落とし穴に嵌った気分。しかも落ちた拍子に足を挫いたかのように、簡単に這い上がれそうにないところが性質が悪い。
一文字に引き結んでいた唇がへの字に曲がっていく。
すると、私の手を掴んだままだったクライブの手に力が入った。
私に視線を向けていなくても、視界の端で表情の変化を読み取っているのだろう。おかげで迂闊に変な顔も出来ない。手を繋がれているせいで、物理的に距離を取ることも不可能。
(というか、なぜ手を繋がれているの)
僅かに眉を顰め、チラリと視線を繋がれている手に向けた。
大きくて硬い掌。その手に包み込まれていると、自分の手との差異が際立ってしまう気がして緊張する。それを差し引いてもゼロ距離であることに心音が落ち着かない。掌に変な汗も滲んでくる。
「クライブ。手を離してほしいのですが」
「もう町ですし、はぐれたら困ります。辛抱してください」
我慢できずに言ってみたが、笑顔で訴えは封じられた。
こういう時のクライブは、私の言うことなんて聞いてくれない。
よく考えたらこういう時に限らず、言うことを聞いてもらった覚えがなかった。思えばクライブの言動に振り回されてばかりいる気がする。
(なんでこんな人を好きになったんだろ)
……いや、考えるのはやめよう。
もしこれで好きなところまで認識してしまったら、自ら落とし穴を掘り進めるようなもの。
それにクライブの言う通り、林道を抜けた先に町が見えていた。こんなことを考えるより、今は目先のことを考えた方が気も紛れる。
そう、今の私の目的は兄のおつかい。
私を気遣っておつかいに出してくれたのだとわかっている。けれど頼まれた以上は期待に応えたい。
顔を上げ、兄の部屋のテラスから見えた茶色の屋根が並ぶ様を前にすれば、素直に感嘆の息が漏れた。
王都はレンガ造りの茶系の家が多いけれど、ここの壁は白い。2階建てが主で、色彩と建物の作り的に統一感がある。思ったよりもこじんまりとした町だ。1、2日で歩いて回れてしまいそう。
王都のように、すれ違うのにも神経を使うほどの混雑はない。人はゆったりと歩いている。とはいえ、観光名所だけあってそれなりの賑わいは見せていた。地元民の方が多そうだけど、浮足立って店を覗いている身なりのいい人は観光客っぽい。
「どこか見たい場所はありますか?」
物珍し気に周りを見渡していたら、クライブがそう声を掛けてきた。
「本屋に行くのですよね?」
「本屋に寄ったら両手いっぱいに本を買われそうなので、先に見たい場所があればお連れします」
「特にありません。本屋がいいです」
気遣ってくれるのは有り難いけど、本屋にしか興味はない。それに兄に頼まれた以上、最優先すべきは本屋。
そこで、ふと気づいた。
「そういえば、これで何冊ぐらい買えるのでしょうか?」
肩から掛けていたショルダー型の財布を引き寄せて、歩きながらクライブに中を見せてみる。
中には金貨が1枚入っている。ちなみにこの国では紙幣が十円と百円、銅貨が千円、銀貨が一万円といったところだったはず。そして私の記憶が正しければ、金貨1枚は銀貨10枚に相当する。
本屋のおつかいに10万円……?
本は高い方だと記憶しているけど、こんなに必要? 実のところ、現金を触るのは初めてだったりする。そして私は平民の物価がわからない。
一応、図書室で流通経済の本にも目を通している。ある程度の相場は把握しているつもりだったけど、頭に入っている単位は各領が取り扱うレベルなので桁が違うから参考にし辛い。
クライブは律儀に「失礼します」と断ってから、財布を覗いた。そしてちょっと呆れた顔をした。
「お好きな本を40冊は余裕で買えると思います」
予想外の返事に絶句した。そんなに持ち帰れない。
クライブが呆れた顔をしたのは、お金を持たせ過ぎってことなんだろう。兄は一体何を考えているのか。持ち合わせが金貨しかなかったの?
「素朴な疑問なのですが、平民は一般的に月に何冊ぐらい買えるものなのですか?」
「本が好きな方なら、月1、2冊と言ったところではないでしょうか」
世間一般を参考に考えると、4、5冊見繕えば十分だろう。持ち帰ることを考えても重量的に限界もある。
頭の中でそう算段をつけている間に、クライブに促されて本屋に到達していた。
「ご期待に沿えるかわかりませんが、ここが本屋です」
「わあ、……ちいさい」
店の前に立つと、感嘆の声と素直な感想が口から零れてしまった。隣でクライブが「図書室と比べないでください」と苦笑する。
想像していたより遥かに店は小さかった。店内は6畳ぐらいしかなさそう。
店先には手に取られやすい新聞っぽいものが並べられていた。覗き込んだ店内には書棚が両壁に設置してあり、真ん中にも書棚がひとつある。店内の通路は人とすれ違うことは不可能な狭さ。中を一周しても、多分20歩もない。
「僕は入り口に待機しています。ごゆっくりどうぞ」
店内を確認したクライブが気を利かせてそう言ってくれた。お言葉に甘えて、一人で踏み入る。
他に客がいればクライブも付いてきただろうけど、今は私しかいない。きっと一緒に入ったら圧迫感が半端なかった。
店の奥の椅子には、人のよさそうな丸眼鏡のおじさん店主が座っていた。けれど彼は景色のように溶け込んでいる。
古めかしい書棚にはそれなりに本が埋まっていた。普段は見られない平民向けの本が並んでいるのかと思うと期待は高まる。いっそこれぐらい狭い店の方が、あれやこれやと目移りしなくて済みそう。
さっきまでそれどころじゃなかったのに、我ながら現金だと思う。
こんな風に心を浮き立たせていてはいけないのに。でも本を見ると、どうしても心が現実から遠のいていく。
(本は、現実を忘れさせてくれるから)
本を見ると条件反射で、現実から目を背ける癖がついてしまっている。
ずっとこれが自分の心を守る方法だった。紙とインクの匂いに包まれると、少しだけ楽に呼吸ができる気がする。
とりあえず流行っていそうな本ということで、店先の新聞もどきを手に取った。さらりと斜め読みしただけでも、平民の時事問題な話が載っていて面白い。
ざっと眺めて、埃が被っていない場所に手を伸ばす。その中でも日に焼けていない本を選んで、パラパラと中を見た。新しいということは入れ替わりが激しいということで、それだけ誰かが手に取っているということである。
そのうちの数冊と、店主がお勧めしているように置かれている本も手に取る。専門書は城で間に合っているからあえて外した。
そうなると、残ったのが地域情報溢れる新聞。流行りものを紹介している冊子。儲かるための教え的な店主おすすめ本……どこにでもあるんだなぁ、こういうの。それと人気らしい娯楽小説。漫画は残念ながら存在しない。
店内は平民向けの本の取り揃えが結構あった。即ちこの領の平民は、文字を読むことが問題なく出来るということにも感心する。
(もうちょっと何か欲しいな)
これだけ偏った本だと、兄が純粋に楽しめるか不安が残る。
足を進めて店の突き当たり、一番奥の棚へと向き直った。すると視界の端で静かに座っていた店主が身じろぎした。なぜか私を凝視する視線を感じて、そちらに顔を向ける。
(そういえば普通は1、2冊しか買わないんだっけ)
両手に抱え込んでいるから、持ち逃げすると疑われているのかもしれない。
「後で買わせていただくので、置かせていただけますか?」
「あ、ああ。もちろん。預かっておくよ」
おじさんはこくこくと頷いて、安堵を滲ませて笑った。盗人に見られたのかと思うとショックだけど、万引きは死活問題だ。常に疑ってかかるのも仕方がない。
本を渡して身軽になったので、改めて奥の棚に向き直る。
(なんでここの棚だけ、本に紐が掛かってるの?)
立ち読み防止? でも店主に一番近いところにある棚なのに。そんなに重要な記述でもしてある本なの? パッと見、そんなに立派な装丁でもないのに。
それとも本を開いたら、本の世界に吸い込まれてしまう的な……この世界には魔法なんてないはずだけど、私という謎な生まれをする人間もいるからわからない。そんな呪術的な本が町の本屋にあるのも怖いけど。
首を傾げながら、並んでいる一冊に手を伸ばした。
「あー! それはいかんッ!」
「へっ!?」
しかし指先が触れようとした途端、店主が発した鋭い声に驚いて肩が跳ねた。えっ、ほんとに呪いの本なの!?
動揺している一瞬の間に、床を蹴る足音が聞こえた。唐突に背後から伸びてきた手に視界を塞がれる。
「ッ!」
「あなたにはまだ早い!」
クライブの焦った声がすぐ傍から聞こえた。
いきなり暗くなった視界に驚いて蹈鞴を踏んだ体は、どうやらクライブの胸に当たる形で止まった。腰に回された腕で、強引に方向転換までさせられる。
そこでようやく、私の目を塞いでいた手が離された。いきなり怒鳴られるし、一瞬、暴漢かと焦ったせいで心臓がバックンバックンと跳ねている。
なぜこの人はいつも軽率に私を抱えるかな!? 距離が近すぎるッ!
「なにをするのですか!」
「申し訳ありません。ですが、そこは駄目です。見てはいけません」
「なぜですか」
私を後ろから羽交い絞めにしたクライブを振り仰いで睨んだ。クライブは顔を強張らせながら少し目を泳がせる。
その挙動不審な態度から、ようやく合点がいった。
(あ……っ。まさか、あれはエロ本!?)
あるんだ!?
あってもおかしくはない。
この世界では性交渉は婚姻してから。成人している場合は許嫁の段階でフライングもあるらしいけど、貴族の場合は特に厳しい。平民はどうなのか知らないけど、似たようなものだと思う。花街に行くにしても、お金がなければ難しい。
思い至って、自分が触れようとした本が成人向けだったという事実に頬が熱を持つ。
どうやらそれで、私が理解したのが伝わったらしい。クライブが気まずげに咳払いしてから解放してくれた。私も若干どころでなく気まずい。目のやり場に困る。
自分でも前の時は成人指定の本を買ったりも、していたのだけど。でもあれは言ってみればファンタジー。推しがイチャイチャしているのが見たかっただけ。この手の、いかにも実用的な使用が目的じゃない。
どちらにしろ、男性のそういう部分は見ないようにしてあげるのが礼儀と言える。わざとじゃないけど、踏み込んで申し訳なかった。
……でも、ちょっと待って。
今の私は、兄のおつかいで来ている。そしてクライブは私を男で、弟だと思っている。
ならば、私がすべき選択は。
「……兄様に買っていってさしあげるべきでは?」
「あなたはそんな気を回さなくていい!」
「ですが」
「いりません! あんなものを買わせたとあっては、本気で殴られます!」
「兄様がそんなことで私を殴るとは思えません」
むしろ、なんて気が利くんだと感謝してもらえる気がする。あの兄にエロ本を差し出すのは、ちょっと、気持ち的にすごく複雑ではあるけど。
でもこういう時じゃないと、気楽にこんなもの読めないはず。休みぐらい羽を伸ばしてほしい。もしかしたら兄も花を買いに行くことがあるのかもしれないけど、足繁く行けるとも思えない。
こういうのって男の人にとっては生理現象なのだろうし。エロ本ぐらいの夢は見させてあげるべきでは。私、そういうのは理解ある方だと思う。
真面目に言ったつもりなのに、クライブが苦々しく口元を歪めた。
「殴られるのは僕ですッ」
「だから兄様がそんなことなさるわけがないと言っているではないですか。怒りますよ」
さっきからクライブは兄をなんだと思っているの。
眉を顰めれば、クライブが片手でこめかみを押さえて「とにかく駄目です」と怖い顔をした。引く気配は一切ない。
(そんなに怒ることじゃないと思うのだけど)
男同士なら、こういうことに理解があるのが普通なんじゃないの? そんなに私は子供に見えてる?
しかし14歳なのだから、そんなに早いとも思えない。
ラッセルだって、私が以前は図書室を一人で徘徊していたと聞いて、そういう意味での苦言を呈した。その手のことを知っている前提で話された。
(でもよく考えたら、ここで性教育って受けたことない)
思えば、前の記憶があるからリアルにわかるだけ。
男と女が一緒に寝たら子供が出来る的なことは聞いたけど、どういうことをするのかという具体的なことは誰にも聞かされたことはない。
本来なら、乳母が教えていくべきことだったのだと思う。だけど乳母もメル爺も、当然関わることのなかった母からも教えられなかった。セインとメリッサも、私にその手の話はしない。
私にそういうことが起こることなど、きっと想定されていなかった。
そして誰もが、安易に触れられない問題だと捉えて先延ばしにしてきた感もある。
……私は男にも女にも、どちらにもなれないから。
「お嬢さん」
不意に、横から声を掛けられた。
タイムリーな呼びかけに驚いて肩が跳ねる。声の方に顔を向けて、反射的に身構えた。
私を呼んだ店主は少し気まずげな顔に控えめな笑みを乗せ、1冊の本を私に差し出していた。
「お嬢さんには、こちらをおすすめします。いま若い娘さんたちの間で人気の話でして、この本の方が楽しんでいただけるでしょう。そちらはちょっと、あの、アレですので」
どうやら店主も私にエロ本を買わせるわけにはいかないと思ったらしい。こんな本を買わせるなんて、と後で家人に怒鳴り込まれても困るからだろう。
最初に奥の棚を見た時にやたら視線を感じたのも、思えば万引きの警戒ではない。若い娘がいかがわしい本を見ようとしたことに動揺していたに違いない。ちょっと恥ずかしい。
しかし今差し出されているのは、淡いピンクの文庫サイズの薄い本。装丁は安っぽいけど、表紙に花が描かれていていかにも女性向けなデザイン。
そんな本を勧められても、立場的に困惑してしまう。
(私の本を買いに来たわけではないのだけど)
女性向けの恋愛小説もあるんだ?
思えば前も、あの時点で千年以上も前に紫式部が宮廷でイケメンが女をとっかえひっかえする恋愛小説を書いて流行ってたぐらいだから、この世界にあってもおかしくはない。人間の本質などそれほど変わらない。
(気になる)
しかし、これを私が買ったら怪しいことこの上ない。まだエロ本の方が兄に理解してもらえる。
(でも兄様は流行ってる本がほしいと言ったわけだから)
ならば女性に流行っていることも、知りたいのでは? どう見ても女性向けの恋愛小説を兄が読む姿は想像出来ないけど。
差し出された本を見て固まっている私を見て、店主が「実はうちの娘も毎日繰り返し読んでいます」と微笑む。なんという魅惑溢れるセールストーク。心を揺さぶられる。
「クライブ。兄様には、まだ決まった女性はいらっしゃらないですよね?」
「え? ええ。いらっしゃいません」
唐突な私の問いに、クライブは困惑を見せつつも頷いた。
「わかりました。でしたら、そちらも買って帰ります」
「なぜそうなるんですか」
「流行っているということは、これが世間一般的な女性の嗜好ということです。女心を知るのに都合がいいでしょう? 知っておいて損はないです」
「なるほど……一理あります」
私が適当に嘯いた言い訳に、クライブは驚いたように目を瞠った。そしてひどく納得した顔で頷く。
これで納得されたことに内心では慄きつつも、素知らぬ顔で会計を済ませた。
そう、これは兄の為。兄なら小狡いテクニックなど使わなくても、笑顔一つで女性の心を鷲掴みにするだろうけど。
けっして、私が読みたいから買ったわけじゃない。
……後でちょっと貸してもらえないかなって、下心もないわけではないけど。