49 タイムリミットまで、あと
図書室通いの後に散歩代わりに中庭を突っ切り、鍛錬に向かうラッセルと別れて医務室へと入る。
今日は部屋の中に治療中の人がいた。しかも3人もいる。
見た感じ大した怪我ではないようで、内2人は立たされた状態で説教を受けている。何をしたのかわからないけど、しばらくかかりそう。
それを横目に勝手知ったるなんとやらでガラスコップを拝借し、熱中症対策用に作り置きしてあるスポーツドリンクを注いだ。
水に砂糖1杯とひとつまみの塩、あればレモンを入れるだけで完成する、お手軽スポーツドリンクである。
昔、夏になるとよく作っていたのを思い出してレシピを提供したら、常備されるようになったらしい。
それを手に、メル爺の邪魔をしないようにベッドを区切るように引かれたカーテンの奥へと引っ込んだ。窓際の介添え用に置いてある椅子に腰を下ろす。
燦燦と降り注ぐ眩しい太陽の下、聞こえてくるのはけたたましい蝉の鳴き声。
訓練広場から響く剣の弾き合う音と掛け声、それとメル爺の読経のような説教。
案外、騒がしい。でも。
(平和だなぁ)
近頃、ラッセルに護衛されるのもかなり慣れてきたと思う。
ラッセルに秘密がバレてしまったというのに、あれから信じられないことにものすごく平和な日々を送っていたりする。
おかげで時折、夢でも見ているんじゃないかと思うことがある。
しかし日に日に照り付けが増す夏の日差しと暑さは紛れもなく現実であると告げていて、ちゃんと生きているのだと実感させられる。
暑いのは煩わしいけど、今はそれすら愛おしい。
平穏無事に生きていられるって、本当に素晴らしい。
(このまま私が辺境行きになるまで、平和に過ぎていけばいいのだけど)
そう考えて、すぐに顔を顰めた。
こういう考え方をすると、良くないフラグが立ちかねない。「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ」レベルにまずいフラグになりかねない。
よし、考えるのはやめよう。
とりあえず現状、自分に出来ることはおとなしくしていることぐらいだ。
「こんにちは、アルト様」
「!」
溜息を吐き出した途端に窓の向こうから声を掛けられ、ビクリと背筋が震えた。
恐る恐る顔だけ振り返れば、いや振り返る前から声でわかってはいたけれど、すっかり見慣れた姿が視界に入る。
またおまえか! と言いたい気持ちを飲み込んで「こんにちは」と口にする。
つい先ほどラッセルとクライブの話をしていたばかりなので、顔を合わせるのはちょっとどころでなく気まずい。
クライブが話しかけてくるのは、単なる監視だとわかっているけど。
でも天気の話ぐらいしかネタがないことはわかっているはずなのに、なんでこんなに話しかけてくるのか……
『――あの方は殿下のことがお好きですよね』
ふと、脳裏に先程ラッセルに言われた言葉が過っていく。
(っあれは、そういう意味じゃないから!)
思い出すと、「あー!」と大声で叫んで思考を振り払ってしまいたい衝動に駆られる。
ラッセルもそういう意味で言ったわけじゃないとわかっていたのに、変に過剰反応してしまった。
いやでも、これに関しては仕方ないと思う。
でもほんとに、今はそれどころじゃないから。これに関しては深く考えたくない。
部屋を片付けるのと同じように、頭の中のもやもやも丸めて物理的にゴミ箱に捨てることが出来ればいいのに。
「気配を消して近づくのはやめてください、クライブ。驚きます」
今にも立ち上がって逃げ出したい衝動を抑え込み、極力平坦な声を出した。
毎度のこととはいえ、私を驚かせるのが趣味なのではないかと疑いたくなってくる。
医務室ではまだメル爺が説教する声が響いているとはいえ、聞えないよう声を潜めればクライブも声を落とす。
「堂々と話しかけたら嫌がられるのはアルト様ではありませんか」
「目立ちたくないのです」
本当に、頼むからそっとしておいてほしい。
エインズワース公爵に歯向かうような真似をしたものの、今のところは平穏に過ぎている。その場しのぎで適当に頼んでいた氷も、毎日欠かさず届けられる。
これまでと変わらない関係のまま、日々が過ぎていっている。
だからこそちょっと怖いと感じないわけでもない。
(エインズワース公爵家から帰ってきて以来、セインのテンションが低い気がするし)
元々セインのテンションは低いから、ほんの僅かな差ではあるけれど。
でも向こうで何か言われた可能性は高い。セインは何も言わずに普段通り接してくれているものの、ちょっと気にかかっている。
だからこそこれ以上、普段と違う状況になるのはいただけない。
今は出来るだけ静かにしているのが得策なのだ。
仏頂面をすると、クライブがちょっと苦笑いをした。
「アルト様が目立たないでいるというのは、立場上ちょっと難しいと思います」
「私は静かに暮らしていると思うのですが」
「それはそうなのですが、どうしたって目を引きますから。先程も階段を踏み外されていたでしょう。足元はちゃんと見て歩かないと駄目ですよ」
そんなところから見ていたのかと、ぎょっと息を呑む。
というか、足を踏み外したのはだいたいクライブのせいだから! 突っ込まれたら困るから言わないけど!
「随分ラッセルと仲がよろしくなられたのですね」
「ええ。ラッセルはいい人ですから助かってます」
ちょっと妄信的な部分があるから違う意味で心配ではあるけど、今となっては私の頼れる味方の一人。
頷けば、クライブがにこやかに微笑んだ。
「それならよかったです。最初の頃はお顔の色が優れなかったので、合わないのかと心配していました」
けれど向けられるその笑顔に、なんとなく妙な既視感を覚えた。
この笑顔、前にも見た覚えがある。いや、笑顔自体は結構よく見ているのだけど、そうではなくて。
にこやかなのに、なんだかいつもと少し違う。
妙に胸のあたりがゾワゾワさせられて落ち着かない。まるで顔に、張り付いているみたいな……
(そうだ。最初の頃、よく見た)
笑ってるけど、笑ってない顔。
(なぜ!?)
思い至ると同時に愕然とする。
一体どうして。今の会話で、どこにそんな顔になる必要があった?
以前は私に近衛を付けられたことを、我が事のように喜んでいたはずなのに。意味がわからない。
頭の中は混乱の嵐だけど、条件反射で本能が危険を察知したのか、ギクリと心臓が竦む。
「でもまだ少し、お疲れ気味ではありませんか?」
クライブは小首を傾げ、緑の瞳がこちらの心の底を探るように見つめる。
反射的に固まっていた私に向かって、窓越しに手が伸びてきた。
その手が頬に触れて、指先が輪郭を辿るように撫でていく。
「!」
その指先からもたらされる熱に、背筋にぞわりとしたものが走り抜けた。
(なっ……んで、またこの人はっ!)
どうしてそういうことをするかな!?
「暑いので、体が追いつかないだけです…っ。クライブも暑いでしょう!? そんな黒い制服を着ていたら、暑さでどうにかなります」
そうだ、きっとそのせいだ! 熱にやられてどうにかなっているとしか思えない。
「大丈夫、まだ口は付けていません。これでも飲んで、頭を冷やすといいと思います」
上擦りそうな声を必死に絞り出して、恐ろしいほど真剣な顔で咄嗟に持っていたガラスコップを突き出した。
ガラスコップの中には私がお裾分けしている氷も入っているので、まだ冷たいはずだ。
これでも飲んで、頭を冷やして。むしろ頭から被ってもいいぐらいだと思う。
「ありがとうございます」
押し付けるように渡したそれを、クライブは目を丸くして受け取る。
クライブからしたら、いきなりそんなことを言い出した私の方がおかしく見えたのかもしれない。
でも今のは、クライブの方が完全におかしかったから。その距離感、本当にどうにかならないの。
「おいしいですね。これが噂の飲物ですか」
手が離れていったことに安堵の息を気づかれないように吐いたところで、素直に飲んでいたクライブがそう口にした。
「噂なのですか?」
「医務室に行くと、珍しい飲み物が提供されると聞いています。それ目当てで来ている者もいるはずですよ」
「だからあんなにメル爺が怒っているのですか」
やけに説教が長いな、と思っていた。今もまだ続いていたりする。
飲物目当てでわざわざ小さな怪我を作って来たのだとしたら、怒られて当然だと呆れてしまう。薬だってタダではないのだ。
「それは水に砂糖一杯と塩をひとつまみ入れているだけです。クライブに渡した分はレモンも入っていますが」
「そんなに簡単に教えてしまっていいものなのですか?」
「秘密にするようなものでもありません。こういう汗を掻く時期は特に、各自で作ってまめに飲んでもらった方がいいものです」
驚かれたけれど、知られて困ることでもない。外で訓練している者が多いから、余計にそう思う。
砂糖は高価とはいえ、かなり普及してきている。体力を維持するためには必要経費だろう。ここは井戸水を使っているから、汲み上げたばかりなら氷が無くても冷たく飲める。
言いながら、視線を訓練広場の方へ向けた。
ここからだと緑の垣根があるので見えにくいが、僅かな合間から鍛錬に励んでいる姿が窺える。
この炎天下で訓練している割に、声も出ているし動きもだらけては見えない。鍛え方が違うと言えばそれまでだけど、皆かなり元気だ。
確かに日本の夏と違って、雨上がり以外は湿度も低くて空気はカラリとしている。日陰に入れば、結構涼しい。
でもこっちは見ているだけで暑い。
喉仏がないのを隠すためにシャツの首元を緩めることも出来ないし、胸を潰すための厚地のジレも脱げない。しかも体力がないので、夏の暑さはかなり堪える。
「それにしても皆、この暑さの中でも元気ですね」
「もうすぐ祝祭日ですから、余計に元気があるのだと思いますよ」
感嘆を通り越してぼやくように呟いた声を聞きとめて、クライブがそう口にした。
「祝祭日……?」
「城下で大きなお祭りがあるでしょう。この時期は浮かれている者が多いです」
驚いた顔で「忘れているのですか」と言われて、思い出した。
夏の祝祭――いわゆる、お盆。
祖先を讃え、鎮めるための儀式。王宮では王が祭祀を執り行うが、そこまで大っぴらにするものではない。静かに厳かに行われる。
正式な国の行事の為、成人前の私が参列することはない。
けれど城下では、それが大きなお祭りになっているとは知っていた。
でもそれどころじゃなかったし、なにより城下で祭りがあろうとも、自分の立場では行けるわけじゃないのですっかり頭から抜け落ちていた。
でもよくよく思い返せば、これって、アレだ。
(ゲーム終盤にあったイベントの祭りじゃない!?)
思い至ると同時に、無意識に握りしめた掌に冷たい汗が滲む。
そうだ。思い出した。忘れていたわけじゃないけど、そうか、コレがそうなんだ。
(クライブルートだと、ヒロインとこの祭りに出かけて、それで……それがバッドエンドの分岐点!)
ヒロインと祭りに出かけて、そこでヒロインがクライブを引き留めればラブイベント発生。だがその間に、第一皇子が暗殺されてしまう。
そうなった場合、クライブは復讐に駆られて私を殺害する。
引き留めずにいれば城に戻ったクライブが、第一皇子の暗殺を阻止出来る。
そして確か、凶手が掴まってそこから芋づる式に第二皇子派の仕業ということが明るみに出て、私は処刑だったはず。
もし私がゲーム通りのルートを辿るのならば、どちらもデッドエンド。
思い至ると同時に顔から血の気が引いていく。心臓が、ドッ、ドッ、と強く早く脈打ちだした。
今年の話ではない。まだヒロインは出てきていないので、年齢から換算すると来年の話だ。
勿論ヒロインがクライブを選ばなければ、また未来は分岐して別の結末になるはずだけれど。
でも、もう来年の話になるのだ。
つまり、タイムリミットまであと1年しかないということになる。なる、はずだ。
でももし、万が一にも。
今年も祭りにクライブが行ってしまえば、例えば別のご令嬢と同じ状態になったりしたら。
恐れていた事態が繰り上がる可能性もないわけじゃ、ない。
「クライブも、誰かと一緒に行くのですか……?」
恐る恐るそう問いかけて、息を詰めてクライブの顔を伺う。クライブは驚いたように目を瞠った後、苦笑いをした。
「行きませんよ。僕はその日は護衛の任に付きますから」
その言葉に安心するような、しないような。
でもご令嬢と出かける予定がそもそもないというのなら、一応はそのルートをたどる可能性は低い、と考えてもいいのだろうか。
とはいえさっきラッセルが、クライブがたまに令嬢に話しかけられているのを見ると言っていた。
あまり第一皇子側と関わりのないラッセルでもたまに見る程度だから、実際には令嬢達との交流頻度はもっと高いと考えた方がいい。
その中には仲が深い人も、いるんじゃないの。
「どうしても」と可愛く強請られたら、断り切れずにそちらを優先したりしない?
「でも、誰かに誘われていたりするのではないですか?」
そう考えると妙に胸が詰まって、息苦しくなる。
「誘われても行きません。ああいう日は客が多いので、抜けるわけにはいかないです」
じっと緑色の瞳を見つめれば、クライブの表情は僅かに困惑は見せたものの、口からははっきりと否定の言葉を告げられた。
それに対して、ほっと安堵の息を唇から漏れる。胸の軋みも、少しだけ和らいだ。
でも今年はそう言うけど、来年はもしヒロインとそういう関係になったら、彼女を優先するのだろう。
この兄様第一主義のクライブが、ほんのわずかな時間でも彼女を優先する。
それほどまでに気に掛ける女の子が、現れるかもしれない。
(そうなったら、私は……)
和らいだはずの胸の軋みに再び襲われて、やけに息苦しい。呼吸の仕方を忘れてしまったみたい。
心音が耳のすぐそばで鳴り響いているようで、思考を掻き乱していく。
「アルト様は、僕が誰かと一緒にお祭りに出掛けるのは嫌なのですか?」
「いやです」
不意に耳に届いた問いかけに、一も二もなく頷く。
……しかし頷いてから、はたと気づいた。
(なに、今の質問!?)
顔を上げれば、目を瞠り、言葉も失くしてただ私を凝視するクライブと目が合った。
や、あの、ちょっと待って。
(違うっ。違うから! そういう意味じゃないから!)
クライブが行ってしまったら、私が死んでしまうから嫌なのであって! それだけで!
……それだけの、はずで。
それ以外など、あってはならないわけで。
「あの……仕事は、ちゃんとしてもらいたいだけです。兄様を、守っていただかないと困るので。兄様を最優先にしてほしいのです。今年も、あと来年も」
息を呑んだまま固まっているクライブに、声を絞り出してしろどもどろに訴える。
とにかくここは、誤解しないでほしい。
でもついでに来年も、と釘を刺してしまったのは、私の立場を考えれば仕方ない。こう言っても、おかしいことではない。たぶん。きっと。
「ええ、それは勿論。当然です」
私の言葉にクライブがやっと口を開いて、頷いた。
それに安堵する間もなく、クライブは小首を傾げて「ですが……」と躊躇いがちに続ける。
「アルト様にお誘いいただいた場合は、また別ですが」
「……は?」
思わず、ぽかんと口の開いた間抜け面になってしまった。
いや、あの、何言っているの? 誘うわけがないでしょう。なぜ私がクライブを誘って、そんな場所にいかねばならないの。
(なんなの!? それはどういうつもりで言っているの)
いや、私の言い方も悪かったのだとは思う。思うけども。
きっとクライブはなかなか外に出られない弟分に同情して、そう言ってくれているだけなんだろう。
そう、頭の片隅では理解している。
でも言われた言葉を反芻すると胸の奥が熱くなって、恥ずかしさを覚える。
それでいて、焦燥感に押し潰されそうな息苦しさも同時に存在する。
(どう答えたら正解?)
きっと何を言っても不正解にしかならない。
正しい解なんて、弾きだせない。
「誘わないですよ……? 私の立場では、行ける場所ではありませんし」
咄嗟に切り返した言葉は、クライブが望んだものかどうかはわからない。
言いながら顔を伏せてしまったから、どんな顔をしているのか見えなかった。見られなかった。
でも物理的に考えても、無理な話だ。
兄のことを差し引いて考えても、王族が庶民が派手にお祭り騒ぎをしている場所になど、安易に足を踏み入れられるわけがない。それぐらいの分別はついている。
だからこう答えた私は、間違っていないはず。
……それなのに、チクリと胸を刺す痛みが残った。
「それは、そうですね」
降ってくる言葉は、あっさりとしたものだった。クライブとて私にああ言われたら、そうとしか返しようがないだろう。
たとえばもっと、「行ける立場ならよかったです」とでも言っていれば、もう少し違ったかもしれないけど。
(でもどう言ったところで、私がクライブと行くことはないのだから)
それに落胆しかけている自分からは、目を逸らす。
「少し残念です」
だから自分の耳に届いた言葉は、ただの優しい社交辞令に違いないのだ。




