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104 それが私の名前になる


 ハンカチの隅に刺繍し終えて糸を切る。


(これでいいかな)


 3日かけて出来上がったハンカチを確認し、丁寧に畳んでリボンを掛けた。

 誕生日祝いに欲しいと言われたもの。だけど今困っているのなら、出来るだけ早く渡してあげた方が助かるはず。

 そんな思いに急かされて、午前の勉強と昨日の午後にリズと会っていた以外の時間は制作に費やしていた。思った以上に掛かってしまって、時計を見ればいつも医務室に向かう時間になっている。

 ハンカチをポケットに入れて急いで立ち上がる。ラッセルに声をかけて訓練広場に向かった。外は今にも降り出しそうな曇り空だけど、まだ雨は降っていない。雨だと訓練は中止になるので、撤収する前に届けたい。


(本当に日用消耗品のハンカチでいいのかな、とは思うけれど)


 強いて言えば、近衛宿舎住まいだから他の人の物と混ざらないよう、姓の頭文字だけ刺繍してある。それ以外は至って普通のハンカチ。

 それでも人に贈り物をする時って、反応が気になってそわそわする。喜んでくれるのを、つい期待してしまう。

 ちょっと緊張しつつ医務室の前でラッセルと別れ、クライブがいそうな場所に目を向けた。しかし、いつもならすぐに目に入る背の高い人物が見当たらない。


「アルフェ様? クライブを探されてるなら、今日は非番ですよ」


 きょろきょろと視線を巡らせて探していたのを見かねたのか、広場にいたニコラスに声を掛けられて息を呑んだ。

 そうだった!

 うっかりしていた。そういえば事前に休みだと聞いていた。早く渡してあげようと思う気持ちばかりが膨らんで、変に焦ってしまったみたい。

 肩透かしを食らって嘆息を吐けば、ニコラスが気を利かせて続ける。


「御用でしたら呼んでまいりましょうか?」

「そこまでの用ではありませんから……」


 いないのは残念だけど、休みを邪魔するほどではない。また明日にでも……

 そう思いかけたものの、空を覆う暗い雲を見て迷う。雲は厚く、確実に雨は降りそう。雨が長引けば明日の鍛錬は中止になるかもしれない。そうなったら、また渡すのが伸びてしまう。

 横に振りかけた首を止め、ニコラスを伺う。


「ニコラスも確か宿舎住まいでしたね。クライブに渡していただきたいものがあるのですが、頼んでも良いですか?」

「それは勿論かまいませんけど」

「ありがとう。では、これを渡しておいてください。なるべく早い方がいいでしょうから」


 頷いてもらえたので、ポケットから取り出したハンカチを差し出した。

 ラッセルも近衛宿舎住まいだけど、ニコラスの方がクライブと親しい。この場合はニコラスから渡してもらった方が話が早そう。

 出来れば自分で渡したかったけど、先日話した感じだととても困っていそうな感じがした。今日は休みだから溜め込んでいたかもしれない汚れ物も洗濯に出している気もするけど、この天気だと乾くのは難しそう。こちらを使った方がきっと早い。

 そんな思いで差し出したハンカチを見て、しかしニコラスが伸ばしかけた手を止めた。


「ハンカチですか」

「はい。欲しいと言われたので作ってみました」


 私の手の中にあるハンカチを見て、ニコラスが珍しく糸目を開いて瞬かせた。

 なぜそんなに驚かれたのかわからない。だけど見ての通り、ハンカチ以外の何物でもないので頷く。


「随分たくさん作られたみたいですが……クライブ、そんなに欲しがったんです?」

「枚数の指定はありませんでしたが、3枚もあれば洗い替えに困ることはないかと思いました。生地の好みがわからなかったので、綿が2枚と絹が1枚です」


 説明した私を見て、ニコラスが複雑そうに苦笑いをした。なぜ。

 もしかして、ハンカチを複数枚贈るのって普通ではない? こちらで布物を人に贈ったことがないから普通がわからないけど、前の生でハンカチやタオルのギフトがよく2枚セットで売っていたのを参考にして用意した。

 だから綿で2枚縫った後、贈り物にしては質素な気がして絹を1枚足したのだけど。やりすぎた!?


「何か問題がありますか」

「いえ……たくさんもらえるのは嬉しいと思いますよ。やっぱりそちらはアルフェ様から渡された方が喜びますから、今から渡しに行きましょう」


 じわじわと焦りが込み上げて顔を強張らせる私を見て、ニコラスが一つ咳払いをした。意味深な間が気になったけれど、それより想定外の提案を笑顔でされて慄いた。慌てて首を横に振る。


「休みを邪魔したいわけではないので、渡しておいていただければよいのです」

「アルフェ様が会いに行って喜びこそすれ、邪魔だと思うわけないじゃないですか」

「…………そうでしょうか」


 あっけらかんと言われたけれど、思わず口から弱音が零れ落ちてしまった。

 だって、休みの日に誘われないし。近頃開いていく距離を思うと素直に頷けない。

 ハンカチを黙々と縫っている間、色々考えていたのだ。そして思い至ったことがある。あまり認めたくないから考えないようにして気持ちを逸らしてきたけれど、ふとした拍子に思いついてしまった思考に囚われて抜け出せなくなる。

 唇を引き結んだ私を見つめ、ニコラスが小首を傾げた。すぐに周りに視線を向け、「どうせ厩舎にいるでしょうから、向かいましょうか」と促してくる。厩舎は城内にある為、ニコラス一人の護衛でも問題はない。迷いもあって断り切れず、もう一度ハンカチをポケットに納めて歩き出した。

 しばらくしてから、人気が切れたところでニコラスが話しかけてきた。


「クライブに何か思うところでもあります? アルフェ様から言い難いことがあるなら、さりげなく俺が注意しておきますけど」

「そういうわけではないです」

「アルフェ様は思いつめると突拍子もないことをされかねないので、我慢しないで吐き出された方がいいです。ただの愚痴でしたら、聞いても聞かなかったことにしときますから」


 安心させるように元々細い目を更に細められる。気遣う声を掛けられて胸の奥が揺れた。

 本当は、口にすべきではないとわかってる。

 しかしニコラスは遠縁であり、初代コーンウェル公爵が私の同類で理解があることもあって、頼れる親戚な感覚が強くてつい気が緩む。

 それに彼はクライブが成人する前からの付き合いだというから、私よりクライブをよく知っている。

 そう考えれば、相談相手としては最適に思えた。躊躇ったものの、誘惑に負けて口を開く。

 自分の中でおさまりきらないことを、誰かに聞いてほしかった。


「その、ですね。もしかしたら、なのですが。クライブは……女装をしている男の私が好きだったのではないか、と思ったのです」


 歯切れ悪く告げた言葉を受け、ニコラスは珍しく目を瞠って呆けた顔をした。


「……。ちょっとアルフェ様が何を仰ってるのか理解できないです」


 困惑を露わに聞き返されて、内心で溜息が零れ落ちる。やはりなかなか理解はしづらいらしい。

 私自身、思いついてしまった時は愕然としたのだから当然と言える。


(つまりクライブは、女の私が好きというより『男の娘』が好きだったのかも、なんて)


 そう考えれば、これまでの私に対する数々の奇怪な言動も理解できてしまう。

 聞けば普段は令嬢から寄せられる好意を惜しげもなく躱していたというクライブが、私が女装した時にだけ暴走するのが不思議だった。

 でも男の娘が好きだったなら、納得できてしまった。皇子であったはずの私にしたあれやそれも、合点がいく。

 だけどもしかしたら、クライブ自身も己の性癖に気づいていなかったのかもしれない。

 だから私を好きなのだと勘違いして、私を引き受けてくれると言ったものの、いざ本当に女である私を知るにつれて「なんか違う」となっているのでは?

 突拍子がない話だとは思うけど、クライブがこじらせた原因に思い当たることがある。

 クライブは成人前に兄が女装する姿を見ている。当時の兄から醸し出される倒錯的な美貌を前に、未知なる世界への扉を開いてしまった可能性が高い。まさか乳兄弟のニッチな性癖を掘り起こしてしまうなんて、兄も思っていなかったに違いない。


(それに加えて、近頃ちょっと私の胸が大きくなったのも悪いのかも)


 潰さなくてよくなったからか、ほんの少しバストアップした。といってもAカップ並みの下着の中を泳いでいた胸がぴったりになった程度。まだ見事な貧乳ではある。

 でも男の娘に拘りがあった人には、それも受け付けられないのでは?

 最初に侍女服に女装をした時、クライブは詰め物過多な胸に困惑していた。きっと膨らんだ胸は美学に反するのだ。だから体を密着させて胸がわかるダンスの練習も受け入れがたかったに違いない。

 そういう男の娘と女の差異が、じわじわとクライブの心を蝕んでいるのかもしれない。

 ハンカチが欲しいと手作りの品を求められたから、私を好ましく思っていることに変わりはないのだと思っていた。でも今はまだ自分が男の娘が好きだと気づいていないクライブが、自分の心を取り繕って接しようとしているだけだったりして。

 クライブ自身の迷いが、あの微妙な距離なのではないかと思えてならない。物理的な距離が心の距離に思えて不安になってくる。

 女というだけで、私では駄目なのだとしたら。


(もしかしたらクライブは、私を選んだのを後悔してるんじゃないかって)


 そう考えると、胸がぎゅっと引き絞られたかのように息苦しくなる。

 そんな私の隣でニコラスはまだ理解できないのか唖然としていた。仕方なくもう一度口を開いて、噛み砕いて伝える。


「ですから、クライブは女の子の格好をしている男である私が好きだったのではないか、と言いました」

「っどうしてそうなりました!? いや、ないでしょう。ないですって。ありません!」


 ようやく理解する気になったらしいニコラスが、今度は間髪入れずに否定した。

 真顔で真剣に言い募られると、そうかな、という気持ちになってくる。否定されたくて口にしたところもあるので、願った通りの言葉を貰って安堵する。

 その反面、疑い深い自分はまだ不安を滲ませてしまう。

 眉尻を下げた私を見て、ニコラスがいつも笑って見える顔を渋く顰めた。


「クライブはハンカチが欲しいと言ったんですよね? 男が女性にハンカチを求めるのは、『あなたの心が欲しいです』って言ってるとの同じですから。誰でも知ってる一般的な告白ですよ、それ」

「そうなのですか!?」

「それに対して、女性が自分の名前の頭文字を刺繍して渡すのが主流ですね。ハンカチは常に持ち歩くものですから、『心はいつもあなたの傍にいます』って意味なんです」

「……クライブの姓で刺繍してしまいました」


 そんな一般の恋愛常識から断絶された状態で育ったから、全然知らなかった。完全に実用重視でランスの頭文字を入れて3枚も作ってしまったけど!

 呆然と呟けば、ニコラスが苦笑いした。


「絶対に女性の名前を入れると決まっているわけではありませんから。それにしても、アルフェ様の想像力の豊かさを甘く見ていました。周りが手を焼くのがよくわかった気がします」


 オブラートに包んだ言い方をされたけど、妄想が逞しいと言われたようなものだった。残念ながら否定は出来ないので唇を引き結ぶ。

 だって色々と最悪な事態を想定して防波堤を張っておいた方が、いざという時、傷つくのが少しは抑えられる。心構えをしていない状態で心を抉られるのは痛くて、怖い。

 これはこれまで生きてきて培った、自分なりの防衛策なのだ。

 ただ、ついその思考から抜けられなくなって暴走してしまったりするけれど。このせいでこれまで何度か事態をややこしくしてきている前科があるだけに、治さなければ、とも思ってはいる。

 だからこうして他の人の意見を聞けば、考えすぎだったのかな、と思う努力はしようと思っている。


「とにかくクライブが男が好きってことはないので安心していいです。シークヴァルド殿下が女装した時すら、心底呆れて引いていたぐらいですから」

「ですが、それなら近頃クライブが私を避けているといいますか、微妙に距離があるのは……?」

「避けたいのなら、わざわざ自分の休憩時間を使ってアルフェ様を送っていったりしないですって。大方、二人きりになると照れて距離感掴めてないだけじゃないですか」


 そんな繊細な性格だろうか。と思ったけれど、それよりいつも休憩時間に送ってもらっているとは思っていなかった。驚いて目を瞠る。


「それではクライブが休めていないではありませんか」

「アルフェ様と会うのがクライブ的に息抜きになってるんですよ。それぐらいアルフェ様が……っと、これは本人に言ってもらってください。到着しましたので」


 そう言ってニコラスが足を止める。話している間に結構歩いていたらしい。いつの間にか厩舎の前に辿り着いていた。

 厩舎の付近は人はまばらだった。こんなところに私を連れてきているニコラスを見てぎょっとする人が多い中、ちょうど中から出てきた一人がこちらに気づいて駆け寄ってくる。


「アルフェンルート殿下。こんなところにいらっしゃるなんて、どうなさったのですか」

「フレディ」


 驚いた声を掛けてきたのは、休みなのか私服だけど近衛騎士の一人だった。

 茶色の髪と茶色の瞳で、あっさりとした顔立ちなので制服を着ていないと周囲に溶け込んでしまう。その容姿を活かして私が王都で生活していた際、密かに護衛に付いてくれていた人である。

 その節は変質者と勘違いして申し訳ないことをしてしまった……。いやでも、あれは本当に怪しかったから。

 とはいえ、馴れ馴れしい態度は護衛とバレないためのものだったらしい。改めて顔を合わせた時は警戒したけど、城に戻ってからはちゃんと騎士然と接してくれる。こちらが本来の彼なのだろう。ラッセルが休みの日は私の護衛に付いてくれているので、私の中では勝手に身内枠に入れている。

 けれどそんな人が相手でも、ここに来た理由を告げるのは少し気恥ずかしい。

 だってハンカチにあんな意味があるなんて知らなったから。それに急用ではないのだから後日にすればいいのに、わざわざ休みのところを来るなんて大袈裟な気もしてきた。


「ここにクライブ来てないか?」


 躊躇っていると、代わりにニコラスが訊いてくれた。その問いを受けて、フレディが私を見て得心がいったように頷く。


「厩舎の中にいますよ。呼んでまいりましょう。今ちょうどご褒美の餌をあげているところなので、殿下もいかがです? 可愛いですよ」

「では、覗くだけ」


 笑顔で誘われたもののドレス姿なので躊躇った。男装ならともかく、裾が長い服なので厩舎に入って汚したら洗濯担当を困らせてしまう。でもおやつを食べる姿はちょっと気になるので、中に入っていくフレディを見送り、厩舎の入口間際で顔だけ覗かせた。

 ずらりと馬が並ぶ様は壮観だ。フレディが言った通り、ちょうど馬におやつをあげているらしいクライブの後ろ姿が見えた。人参をあげた後、甘えて顔を近づけてくる馬の首筋を撫でてあげている。

 そんなクライブにフレディが寄っていって、「クライブ」と声を掛けた。


「馬の世話は変わってやるから、休みの日ぐらい殿下と二人で遊びに行ってこいよ」


 呆れた声を投げかけるのを聞いて、全身に緊張が走った。

 下手に気を回してくれなくてもいいのだけど! 普通に呼んでくれるだけでよかったのだけど!

 動揺する私の前で、クライブが小さく嘆息を漏らした。その反応にギクリと心臓が竦む。


「休みの日にあの方と二人で会うなんて、そんなの耐えられる気がしな……、い」


 言いながら振り返ったクライブが、私の姿を視界に認めて大きく目を瞠った。


「アルト様!?」


 動揺を孕んで揺れる声が、やけに遠くから聞えた気がした。急激に顔から血が下りていき、頭が殴られたかのようにガンガンする。

 気が緩んで油断していたところに、そんな言葉をクライブから聞いたせいで胸が抉られたよう。思わずぎゅっと胸元を拳にした手で抑える。息の仕方が思い出せない。


(ほら、やっぱり)


 いつだって最低最悪を想定しておくべきだ。心構えをしておけば、傷つくのが少なくて済む。「どうせそうだったんだ」と、「わかっていたことでしょう」って、自分に言い聞かせて納得させることが出来る。

 でも今は、自分の考えすぎであればいいと思ってしまっていたから。クライブをよく知るニコラスも否定してくれたから、完全に気持ちが緩んでいた。予防線を張っていなかったせいで、心の柔らかい部分に容赦なく爪を立てて抉られたかのよう。

 視界の端でニコラスが頭を抱えた。「うっわ、あの馬鹿……っ」と呻く声だけがやけに耳についた。

 まるで私に言われたみたい。甘い言葉を真に受けてしまうなんて、本当になんて馬鹿なの。


(期待なんて、しなければよかったのに)


 胸の奥が押し潰されたように軋んで、悲鳴を上げている。

 気づけば踵を返して大股で歩き出していた。しかも歩いているつもりだった足は、次の瞬間には地面を蹴っている。

 呼び止める声が聞こえたけれど、振り切るように全力で駆け出す。

 皇女なのにはしたないと思いかけた思考は容赦なくかなぐり捨てる。足に纏わりつく邪魔なスカートをたくし上げ、がむしゃらに走れば景色があっという間に通り過ぎていく。

 目的地なんてない。走る自分の顔に、ぽつり、ぽつり、と冷たい水滴が当たった。暗くて重い雲が耐え切れず、とうとう雨が降り出したみたい。徐々に顔に当たる雨粒が増えるのが鬱陶しくて、だけど今はそれに安堵もする。

 熱を帯びて潤む目を、くすむ視界を、雨のせいだと誤魔化せるから。


「待ってくださいっ!」


 どこをどう走ったのかはわからない。不意に後ろから掛かった鋭い声に心臓が一際飛び跳ねた。一瞬怯んだ隙に伸びてきた手に腕を掴まれ、強く引かれる。

 その拍子に背中が硬いものにあたり、振り仰げばそれがクライブの胸だったとわかった。

 咄嗟に捕まれた腕を振り払おうとしても、外れてくれない。


「離しなさい!」

「嫌ですッ!」


 声を荒げて命じれば、拒否する言葉と共に強く引き寄せられて正面から抱き竦められた。

 ドクドクと心音がうるさい。走ったせいで息が切れて、けれど息がし辛いのはそのせいだけじゃない。背と腰に回った腕が逃がすまいと言うように、息苦しいほど強く私を捉えて離さない。


「話を聞いてください! たぶん誤解しています!」

「していません。ちゃんと、理解しました」


 食い縛っていた口を開いて、呻き声にも似た声を絞り出す。

 休みの日まで私と二人で過ごすなんて、うんざりなんでしょう。

 ノリと同情と責任感から私を引き受けると言ってしまった手前、後に引けなくて困ってるのでしょう。ハンカチを欲しがったのだって、きっとただの許嫁としてのポーズでしかなくて。

 本当は。


(私のことなんて、好きじゃなくなったんでしょう?)


 永遠を信じているわけじゃない。でも、こんなの、あんまりじゃない?

 

「私は、前に言いました。中途半端に期待させて裏切るぐらいなら……最初からそんなものない方がいいっ」


 何度も何度も期待しては裏切られて、そんなのたくさんだと思った。近頃救われてばかりいたから忘れかけていたけれど、裏切られるとこんなにも痛い。痛くて苦しくて、零したくなんてないのに目頭が熱くて堪えきれない。

 こんなことなら、最初から助けてくれなくてよかった。

 こんなにも振り回されて、こんなにも心をかき乱されるなんて。いつの間にかこれほどまでに私の心に浸食して、ここまで――


(好きに、させておいて)


 好きだと思われていると思い込んでいた自分の傲慢さに眩暈がする。やっぱり違うと思われていると気づいていたのに、それでも縋りつこうとした自分はなんて滑稽。

 予防線なんて全く役に立たなくて、胸がぎゅっと握り潰されたみたいに痛くて苦しい。苦しくて苦しくて、堪らない。


「重荷に思われるぐらいなら、迎えになんて来てくれなくてよかった……!」


 拳にした手で肩口を叩いた。激しくなっていく雨音に負けない程の声量で、血を吐くように訴える。


「あなたを重荷になんて思うわけがないでしょう!」


 しかし鋭い声で言い返された。反射的に振り仰ぐ。

 視線の先には、鬼気迫った顔で私を見据えるクライブの緑の瞳と目が合った。濡れて歪んだ視界の中でも、まっすぐに逸らすことなく見据えられる瞳に偽りは見えない。

 そこにあるのは焦燥。

 それとなぜか余裕のない、熱。

 それが理解できなくて息を呑んだ、その一瞬。近づいてきた顔に動揺する間もなく、唇を塞がれていた。


「!」


 大きく見開いた目に、緑の瞳だけが映る。

 何をするのかと言うために開きかけた口は、呼吸すら奪われて声にならない。その強引さと必死さに、驚きすぎて抵抗するのも忘れて固まった。


(なに。なんで。どうして、こんな)


 私のことなんて、重荷で、邪魔で、困っていたんじゃないの?

 唇が重なっていたのは、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。ゆっくりと唇から熱が離れて、真ん丸く瞠った目に切羽詰まった表情のクライブが映る。


「僕は、あなたが好きなんです……っ」


 至近距離から言い聞かせるように伝えられた言葉が、鼓膜を震わせた。

 冷えた体に、じわりと熱が染み込んでいくかのよう。たった一言で心臓を鷲掴みにされたみたいに感じられた。ドクンドクンと跳ねる大きな心音は、きっと私の分だけじゃない。

 息を呑んで食い入るように見つめる私を見て、少しだけばつが悪そうにクライブが目を逸らした。


「僕だって健全な成人男子なわけですから、あなたが手の届く場所にいれば、こういうことをしたくなります」


 私を抱き竦めていた腕を名残惜し気に離し、クライブが眉間に皺を寄せて苦渋に満ちた顔をした。雨が頬を伝うせいで、なんだか泣いているみたいに見える。

 それに目を奪われたからか、クライブは今更雨に気づいたように手早く上着を脱いだ。降る雨から私を庇うように頭からそれを被せると、建物の僅かな軒を目指して手を引かれる。


「ですが皇子として育てられたアルト様からすれば、男の僕に想いを寄せられるのは複雑でしょう」


 そう言いながら先を走るクライブの繋がれた手は大きくて、少し指先が冷たかった。

 クライブでも、緊張しているのかもしれない。


「だから僕を選んでくれただけで、本当は良かったんです。それでも婚姻するときまでには気持ちに区切りをつけてくれることを期待して、そこまでは我慢するつもりでいたんです」


 軒先に駆け込み、そう続けて私を見やるクライブの瞳はとても気遣わしげだった。

 クライブがそんなことを考えているとは思ってもいなくて、ただ動揺した。


(私が思っていたよりずっと、クライブは私の立場を配慮してくれていたんだ……)


 メル爺にはお姫様扱いされていたけれど、前の記憶が戻らなければ性別はもっとあやふやなままだったとも思う。クライブの配慮は、けして的外れではない。

 それを変に疑って、勘ぐって、空回りした自分が恥ずかしくなってくる。


「ごめんなさい。私、いつも自分のことばかりで、空回って、迷惑ばかりかけています」

「僕も誤解させるようなことをしていたのが悪いわけですから。それなのに、3度目はないと言われていたにもかかわらず、先日に続き今回でとうとう4度目の暴挙です。自制が効かずハンカチが欲しいと我儘も言いましたし、弁解の余地はありません。申し訳ありません」

「今は許嫁ですし、一言断っていただいてからなら、大丈夫ですよ……?」


 沈痛な顔をするクライブに何と言ったものかと迷って、一応そう言ってみる。これで、いざ「していいですか?」と聞かれると身構えてしまうだろうけど。

 でも、嫌だとは、言わない。

 するとクライブが一瞬息を呑んだ。すぐに切なげに細めた眼差しを私に向けてくる。


「ですがアルト様はまだ、メリッサ嬢をお好きでしょう?」

「…………。は?」

「メリッサ嬢が戻って来られた時も、とても嬉しそうにされていたではないですか」


 そんな表情でいったい何を言われるのかと身構えていたら、全く想定外の言葉を投げかけられた。

 苦い声音で告げられた内容は予想の斜め上すぎた。とても間の抜けた声が口から漏れてしまう。


(私が、メリッサを好き?)


 っどうしてそうなった!?

 それは勿論、好きだけど。かけがえのない大切な家族だと思っている。

 でも多分、クライブはそういう意味では言っていない。

 そういえば私がメリッサを好きだという誤解を、ランス領でされたような。でも私はちゃんと否定して……ない!

 そうだ、全然クライブが人の話を聞いてくれなくて、なんだか勝手に納得されたのだった。私も誤解されている方が都合がいいと思って、あの時はそのまま放置した。

 そんなこと、今の今まで完全に忘れていた。

 でもてっきり女だとわかったのなら誤解は解けているかと思っていたのに、まだそう思われていたなんて。


「私がメリッサを好きだというのは誤解です。好きですが、あくまでも乳姉妹としてです。家族のようなものですから」


 今度こそちゃんと訂正する。しかしクライブが若干疑わし気な目を向けてくる。無理をしているのではないかと思っているのかもしれない。

 そんな風に疑われても、私としても困ってしまう。


「それに私は、クライブが好きだと言ったではありませんか」

「……聞いていません」

 

 さらりと告げた私に、クライブがひどく慄いた顔をした。声を上擦らせて、「いったいいつですか」と真顔で問い詰めてくる。

 その迫力に気圧されて、不安になってきた。

 好きだと言ったでしょう。言ったはず。言った覚えがある。ランス領で……もしかして、ちゃんと声になってなかった?


(それとも、あれは夢だった?)


 そんな気がしてきた。

 熱で朦朧としていたし、現実かどうかもあやふやになってくる。自分に都合のいいお得意の妄想だったかもしれない。だとしたら恥ずかしい。正直、あれからは怒涛の日々でそれどころではなくなっておざなりにしていたせいもあるけど、自分の言動に自信が持てない。

 とにかくクライブの愕然とした様子を見るに、間違いなく伝わっていないことだけはわかった。

 今更、言い直すのはとても気まずいのだけど。けれど痛いほどに繋がれた手から、今度は取り零すまいと言いたげな必死が伝わってくる。

 そのひたむきさに、愛しさが湧き上がってきた。

 人の心は見えないから、誰だって不安になる。言葉だけで伝わることばかりではないけど、それでも言葉にしないと伝わらないことは確かにあるのだ。

 

「私も、クライブが好きです」


 だから一息吸い込んで、はっきりと告げた。

 決して大きな声ではない。それでも降る雨音の中に溶け込むことなく、それは響いて聞こえた。

 クライブの目が信じられないと言いたげに瞠られるので、ちょっと困ってしまって眉尻を下げる。


(伝わってほしいな)


 そこでふと思い出して、ポケットからハンカチを取り出した。ポケットに入れていたからか、そこまで濡れてはいなさそうでほっとする。

 私に上着を貸し出したせいで、私以上に濡れてしまっているクライブに差し出した。3枚あってよかった。多少は雨も拭えそう。


「実はハンカチを贈る意味を教えてもらったのは、つい先程なのです。知らなくて、ランスの姓で刺繍してしまいましたが」


 反射的に受け取ったクライブがハンカチの束と刺繍を見て、目を瞬かせる。


「私も来年には同じ姓になりますから、先走って作ってしまった、ということにしておいてください」


 自分で言っていて、ちょっと恥ずかしくなってきた。こういうのって、変に遠回しに言う方が恥ずかしい。おかげで寒さのせいではなく、少し頬が朱を帯びる。

 私の言ったことを理解してくれたらしいクライブが、不意に小さく吹き出した。

 くすぐったそうに身を竦め、幸福を滲ませた笑顔を向けてくれる。それを見て、私もきっと同じ顔をして笑った。




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