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96 神様、お願い。

※生理表現注意


 下腹部を苛む痛みのせいで浅い眠りから起こされる。眠っていても嫌な夢ばかりを見るとはいえ、寝ても覚めても地獄で嫌になる。


(どうりでお腹が痛いと思ったら……っ)


 腹を両手で押さえ、ベッドの中で丸くなった。子宮の内側から皮膚を引き剥がされているかのよう。脂汗が滲むほどの痛みを歯を食い縛って耐える。前の私の体と比べても、あきらかに重い症状。

 女として生まれた以上、これがほぼ毎月訪れるのだから嫌になる。環境が変わればストレスも軽減してちょっとは良くなるかも、と淡い期待をした自分が馬鹿だった。むしろいつもよりひどい。目を閉じていても体が揺らいでいる気がする。血が足りてない。


(少しは何か食べないと)


 なんとか瞼を持ち上げて半身を起こした。

 部屋の中は随分と暗くなっている。外も静まり返っていて、既に誰もが寝静まる時間みたい。テーブルの上に置いてある蓄光石はまだ淡い光を保っているので、どうやら明け方まではまだ遠い。

 まっすぐ立って歩くことすら困難で、腰の曲がった老婆のような体勢で数歩の距離の椅子によろよろと移動した。小さな丸テーブルの上にはマリーさんが見舞にもってきてくれたパンが置いてある。食べなければ、と思うけど食欲が湧かない。結局、水差しの水で喉を潤しただけ。


(仕事、明日も無理そう)


 寝ても座っても痛む腹を押さえて歯を食い縛る。自分の不甲斐なさに泣きそう。

 昨日から休んでいるのに、明日もとなると3日休むことになる。まだ働き始めて3週間しか経ってないのに。焦りばかりが胸に溢れて、それでも体が思うようにならないことが歯痒い。

 朝、仕事を休むことを伝えた時のリズの心配そうな表情が脳裏に浮かんだ。


『引っ越してきたばかりで疲れてたんだよ。ヘレンさんには言っておくから、仕事のことは気にしないでゆっくり休んで』


 そう言って、私をベッドに押し込めた。

 その言葉に甘えたけど、今回に限ってひどいわけじゃない。たまにならともかく、毎月この調子だと仕事で迷惑をかけることになってしまう。職場の人もいい顔をしないと思う。

 クビにされたらどうしよう。それにこの体質を抱えている以上、どこにいっても同じことを繰り返しそう。


(こんなことで一人でちゃんとやっていけるの?)


 弱っているせいか不安が胸の中で膨れ上がる。やっていけるかどうかじゃなくて、やっていかなければならないというのに。

 痛みのせいだけでなく眉根を寄せながら、テーブルの上のメモ帳を開いた。そこには城を出てからの日々を毎日数行だけど書き連ねていた。文字を追えばこの3週間、私にとっては大冒険の連続だった。

 でもこんなこと長くは続かないだろうとも思っていたのだ。すぐに城に戻ることになる、と。

 けれど未だに追手が来ないということは、私の意志は尊重されたと考えた方が自然。

 大通りで見かけたデリックも友人とただ遊びに来ていただけのようだったし、とんだ自意識過剰だった。陛下も兄も私がいなくなることを良しとしたならば、帰る必要はない。

 となれば、このままここで生きていくことになる。

 もう守らなければならない人達はいない。私がいなくなったからと言って、一度決まったことを覆されて大切な人達が罰せられることもない。帰る理由のない私には、もう何のしがらみもない。

 自由だ。

 これはずっと夢見ていた生活。何十回も、何百回も、妄想しては届かないと思っていた世界。誰にも縛られず、好きなように生きていける場所。


(なのに、どうして)


 自由を手に入れて身軽になったはずなのに、今になって猛烈に淋しさが押し寄せてくる。

 これまで心の片隅では、自分の大切な人達を重荷に感じることもあった。もしも自分一人だけだったら、と妄想したこともあった。だけどあの人たちがいたからこそ、挫けずに立っていられたのだ。

 周りに誰もいなくなって初めて、独りになる怖さを思い知った。


(前だって一人で生きていけてたのに)


 唇を噛み締めて自分に言い聞かせる。けれどすぐに「でも」と反論する声が頭に響いた。

 かつての私と今の私とでは、立ち位置が違いすぎる。

 ちゃんと大人で、仕事に自信があって人並みに稼いでいて、遠方だけど頼れる家族もいて、周りの人にも恵まれていた。ちょっと寂しさを感じても、簡単に世界と繋がれる便利なツールがあった。

 今は仕事だってまだ半人前。いざというとき頼れる家族もいない。ましてやこんな体質を抱えていたら、今回はよくても次はクビになるかもしれない。いつまでも宝飾品の換金に頼ってもいられない。

 それに、友達だって。


(メリッサもセインも離れているし、リズだって……そう遠くない内に、いなくなる)


 メリッサやセインには、平民となった私が近づくのは迷惑になりかねない。

 リズも前にちょっと家族の話になったときに、「お父さんには会ってみたいかな」と言っていた。ゲーム通りならば、彼女は父親に引き取られる。

 貴族になったからといって友を顧みなくなる子だとは思えないけど、彼女を取り巻く環境は大きく変わるだろう。いつまでも平民の友にかまけてはいられないことは想像がつく。

 この先新しい世界でいろんな人に出会って忙しくなり、きっと私の存在は思い出になっていく。


(教育係とか兄様とか、クライブ、とか)


 思い至ったそれに、ぎゅっと胸の奥が締めつけられるかのように苦しくなった。

 私がリズと出会ったように何かしらの強制力が働くとしたら、彼らにも会う可能性は高い。貴族の世界は結構狭い。

 リズの立場で次期王となる兄と恋仲になるのは、将来的に考えるとあまり現実的ではない。リズの鈍感ぶりを見ていると現時点ではロイとも進展が難しそうとなれば、相手は教育係かクライブが妥当な線と言える。ゲームになぞらえれば、の話だけど。

 でも王位争いは片付いたわけだから、兄には何も起こらない。ならば、クライブだって闇落ちしない。そうなるとクライブは何の害もない、尽くしてくれる誠実な騎士ってことになる。

 私に対してはアレだったけど、令嬢に対しては相応の接し方をするはず。

 普通に出会って、言葉を交わして人となりを知れば、二人が恋に落ちることだって十分考えられる。


(…………いいな)


 じくり、と胸が膿んだように痛んだ。羨む気持ちが滲み出る。すぐに捻じ伏せようとしたのに、気づいてしまったら羨ましい気持ちが一気に胸の中に膨れ上がっていく。

 だって私が立てなかった場所に、立てるかもしれないなんて。

 私が伸ばせなかった手を、躊躇いなく伸ばせるだなんて。

 無意識に手に力が入った。持ったままだったメモ帳のページがぐしゃりと軋む。その拍子に、紙の合間から何かがはらりと落ちてきた。


「!」


 一瞬、虫かと身構えてしまった。でもよく見ればそれは見覚えのある緑の草。


「クローバー……」


 見開いた目に映ったそれに、半ば呆然と呟いた。

 テーブルに落ちた四葉を壊さないようにそっと拾い上げる。メモ帳の間で押し花状態となっていたそれは、城に帰ったら栞にしようと思っていた物。

 あれからそれどころじゃなくて、今の今まで忘れてしまっていたなんて。


『アルト様が欲しがったから探しただけですから』


 そう言って躊躇いもなく渡された、幸せの欠片。自分では探しきれなくて、譲ってもらった幸福の印。

 実際に私は、あれから望んでいたものを手に入れた。

 あの日のことを思い出したら無性に胸が締め付けられて、不意に目頭が熱くなってきた。

 渡されたあの日から実際にはそんなに経ってないのに、随分と遠くに来てしまった気がする。

 自分が全部捨ててきたくせに、一人だけ置き去りにされたような気持ちに襲われる。大事にするつもりだったのに忘れていた四葉みたいに、自分の存在も簡単に忘れさられていく恐怖が押し寄せてくる。誰にも必要とされないように思えて息が詰まる。

 そんなわけがないとわかっているのに、大事に想ってくれていた人達が傍からいなくなったら自分の存在が不安定に揺らいだ。


(ここでまた大事な人を作ればいいでしょう?)


 もう性別を偽らなくていいのだから、たとえば誰かに恋をすればいい。一緒に生きたいと思える人を探せばいい。

 こんな日が来るなんて妄想でしかなかった頃は、そう思っていたこともある。

 でも。

 名前を捨てて。

 立場を隠して。

 自分が背負った業をなかったことにして。

 想う相手にずっと偽ったまま、何食わぬ顔して生きていくの?


(そんなの、できるわけない……っ)


 自分を偽るのは苦しいと、身をもって知っている。

 ここに来てからも息をするように嘘を吐く度、胸が軋んでいた。もう偽るのは嫌だと思っていたのに、また同じことを繰り返している。

 ひとつひとつは小さな偽りでも、降り積もればいつか罪悪感に潰される。


(そんなわかりきったことを、どうして考えなかったの?)


 だって本当にこんな日が来るなんて思ってもいなかったから。都合のいいところだけ夢に見ていた。

 それに迎えに来てくれるんじゃないかって、心のどこかで期待もしていた。

 一つ叶えばそれでもう十分だと思っていたのに、一度叶ってしまったらまた違う欲が出てくる。次から次へと貪欲になっていく。誰かがどうにかしてくれるんじゃないかって甘ったれて、愚かにも夢ばかり見ていた。

 そんな自分の甘さが情けなくて、目を覆った水で視界がぐにゃりと歪んだ。

 兄の邪魔にはなりたくなかった。それは本心。

 でも結局のところ、私は役に立たなくてもいいのだと、何も残せなくてもいいのだと、誰かに許してもらいたかっただけだったのかもしれない。

 こんな私でも必要とされているのだと、ただ知りたかっただけなのかもしれない。

 繰り返し見る悪夢の中で、母の指が喉に食い込む恐怖と苦しさに魘されて目を覚ます。いらないのだと突き付けられた現実が、私の心を知らない内に蝕んでいた。気づけばすべてに否定されているように感じてしまって、不安で堪らなくなった。

 だから心のどこかで、確かめたい気持ちもきっとあった。

 私は本当にいらない存在なのだと、認めたくなかったから。

 私は私のままでそこにいてもいいのだと、言われたいだけだった。


(ほんとに馬鹿なのだから)


 喉の奥から殺しきれなかった嗚咽が漏れる。

 間違わずに生きられるほど器用にはなれなくて、いつだって空回って自爆してばかり。いざ本当に必要ない人間だったのだと目の当たりにしてショックを受けているなんて、自業自得でしかない。

 試さなくても、わかっていたことでしょう?


(私の存在は、重荷でしかなかった)


 それでも必要とされたかった、なんて。




   *


 結局4日も休んで、5日目にしてようやく仕事に復帰できた。

 それなのに久しぶりに出勤した昨日は心配されて、早めに帰されてしまった。なので今日は日が落ちても尚、作業台に噛りついて必死にドレスにビーズを縫いつけていた。下っ端は最後に掃除をして帰るので、残っていても咎められることがない。

 せめて出勤できるときは精一杯頑張るしかない。元々頑張っていたつもりだけど、それ以上に頑張って認められないと。

 生理が終われば痛みと情緒不安定な状態からも解放されて、少しだけ心は前向きになる。

 とはいえまだ開き直れるほどではない。今は出来ることをひとつずつ片付けていくしかない。そう言い聞かせて、せっせと手を動かしていた。


「もう手元見えないでしょ!? いつまでやってるの!」


 しかし、焦る私の前にリズが仁王立ちした。

 リズは1階、私は2階が作業場だけど、なかなか下りて来ないので痺れを切らして上がってきたようだ。先に帰っていいと言ったのに、どうやら待っていてくれたらしい。


「でもあと少しだから」

「こんな暗さでやっても失敗してやり直す羽目になるだけだから! ほら、はやく片付けて。掃除手伝ってあげるから、今日はもうおしまい」


 まだ作業をしていた私を見咎めて叱りつけ、台の上を手早く片付けていく。眉尻を下げて縋りついたけど、針と布を取り上げられた。

 この仕事は針を使うし、それが服に紛れ込んでもいけない。照明を使用しても手元が見えにくくなって効率も悪いので、日没前には片付けて終わる。リズの言うことは尤もである。

 でも普通に出勤していたら、とっくに終わってたはずの作業。もしかしたら自分のせいで進行が遅れているかもしれない。そう考えると気が気じゃない。

 それが顔に出ていたのが薄暗い中でもわかったのか、リズが呆れて息を吐き出した。


「アルは思ったより手が早いからすごく間に合ってるってヘレンさんも言ってたよ。そんなに焦らなくてもいいから」


 言い聞かせる声のトーンは優しかった。迷惑をかける形になっているのに、気遣わせてしまったことに申し訳なさが湧いてくる。


「ごめん」

「アルはもうちょっと、私って出来る子なんだ! って自信持っていいよ。私なんてそのビーズ縫いつけるの細かすぎて苦手なんだよね」

「リズもレースとか花とかの小物作ってるのに、細かい作業が苦手なの?」

「あれはただの布と糸が形になっていくのが面白いから頑張れるの」


 他愛もない会話をしながら二人がかりで掃除をすれば思ったより早く片付いた。けれど工房を出る頃にはすっかり日は落ちてしまっていた。夜の闇に包まれた街は普段見ている景色とは全く違って見える。

 リズも同じだったようで、周りを見渡しながら顔を曇らせていた。私達の生活圏は昼間なら女性一人でも歩けるけど、夜になるとそれなりに危ないと聞いている。


「マルシェを抜けて帰ろう」


 出来るだけ人が多い場所を通って帰ろうと提案されて頷く。

 しかし私も、どうやらリズも昼間のマルシェしか知らなかった。

 夜になると店の半分以上が閉まり、一部が夜向けの飲食店へと入れ変わっていて絶句した。賑やかではあるけど、道を行き交う人はほとんどが男性だ。ここを女二人で通り抜けるのは勇気がいる。


「すごいね……夜って、こんな風になるんだ」


 リズが唖然とした様子で呟く。

 露店から溢れる光は結構明るく、既に酔っている人もいるのか陽気な声が道に響いている。昼間の店の呼び込みとはまた違う、居酒屋的な活気があった。とはいえ安全かと言われると、酔っ払いに絡まれる危険がある。

 でも人気は多いから、薄暗い路地を通るよりマシなはず。

 覚悟を決めて足早に歩き出した。昼間より人は少ないけど、人が川のように流れていく昼と違い、好き勝手に歩く人が多くて歩きにくい。おかげで向かい側から来た人を避けきれなかった。勢いよく体格の良い半身が当たり、私の体だけがぐらりと傾ぐ。


「わっ!」

「あぶない!」


 バランスを崩した体を無理に踏ん張ろうとしたせいで、足首が変な方向に曲がってよろけかけた。しかし尻餅をつくより早く、誰かの両手に支えられる。

 驚いた顔で支えてくれたのは、たまたまそばを歩いていた通行人の男性だった。気遣う声を掛けてきたのがリズじゃなかったことに慄きつつ、親切な人から体を離して軽く頭を下げる。


「すいません。ありがとう」


 御礼を告げて、慌てて首を巡らせる。

 なぜかすぐそばにいたはずのリズの姿がない。人に当たった拍子にはぐれた!? でもリズが私を置いていくとは思えない。急に不安が込み上げてきて、目を凝らして周囲を見渡す。

 その視線の先、信じられない光景が飛び込んできて目を瞠った。


「!?」


 そこには見知らぬ男に羽交い締めにされて、攫われようとしている黒髪の少女の後ろ姿。

 私がリズから意識を外したのはほんの数秒だったはず。声を上げさせる間もなく、あのたった一瞬で攫うなんてプロの仕業としか思えない。なぜ誰も気づかないの!? それとも巻き込まれたくなくて、気づかないフリをしているのか。

 というか、人攫い!?

 人攫いだと叫びたいのに、こういう時ってなぜか声が出ない。だけど咄嗟に足は動いていた。


(助けなきゃ……!)


 彼女は大事な友人。優しい女の子。面倒見がよくて、料理が上手で、でも虫を怖がる普通のか弱い少女。

 遅くまで引き留めてしまったのは私で、本来ならここにいなかったはずの彼女が人攫いに遭うなんて、絶対に許してならない!

 攫われたのが自分だったら、きっとここまで冷静にはなれなかった。慄いて混乱して、抗うことすらできなかったかもしれない。けれど目の前で攫われたのは私の大切な友人。

 ここは恐怖より怒りの方が勝った。


(武器!)


 反射的に地面を蹴って追いかけながら、胸ポケットからペンを取り出した。これでも密かに練習していたのだ。でも蓋を外している暇はない。それを振り上げて相手の背中に突き刺すには、距離も、腕力も足らない。

 だから握ったそれを、リズを抱えて走る男に向かって力いっぱい投げつけた。


「!」


 相手の肩に命中したそれは普通のペンに比べて重いとはいえ、そこまでの力はない。でも何かが飛んでくるとは思ってもいなかったのか、驚いた拍子にリズを抱えていた腕の力が緩んだ。


「たすけてッ!」


 それまで抗っていたリズの体が腕から離れ、その拍子に鋭い悲鳴も漏れる。

 少女の悲鳴と、二人を必死に追いかける私の姿はきっと異様で、やっと異変に気づいた周りからざわめきが聞こえ出す。

 人の視線が集まる。男がそれに動揺した一瞬の隙に距離を縮めた。怖い、なんて考えている間なんてない。誰かに助けを求める余裕もない。かといって大の男を倒せるほど強くもない。


「リズ!」


 だから男の脇を通り抜け様に、リズの手首を攫うように掴んだ。


「走りなさいッ!」


 動揺して固まっているリズを叱咤して、強く掴んだ手を引いて脱兎のごとく走り出した。咄嗟に命じてしまったせいで気圧されたのか、弾かれたようにリズも足を動かして付いてくる。

 背後で人のざわめきが増した気がしたけど、足を止めて振り返る余裕はない。男があれで諦めたかどうかわからないのだ。誰かが助けてくれるとも限らない。


(逃げないと!)


 それだけが頭を占めていて必死だった。

 騒ぎに向けられる視線を振り切り、人の合間を擦り抜けて走る。私は弱い。護身術はメル爺から習ったけど本当に最低限。そもそも守られている私の元まで凶手が来るとしたら相当な手練れなわけで、私に敵うわけがない。だからメル爺は逃げることだけを主に教えた。

 とにかく、走れ。

 叩き込まれたそれは、未だに体の中に染み込んでいる。リズの手を掴んだまま走って、走って、ひたすら走る。気づけば喧騒は遠ざかっていた。


「ま、って、アル。もう、おいかけてこない、よ」


 リズが掴まれたままの手を引き、かなり走ってから私を引き止めた。

 がむしゃらに走ったせいで、自宅近くの道まで来る頃には二人とも息が切れていた。疲労で速度は緩み、ぜーはーと肩で息をする。

 そこに唐突に自分達以外の声が割り込んできた。


「うわっ、リズ!? と、アル! 帰ってくるのが遅い! おまえらがなかなか帰ってこないから、マリーさんが心配して迎えに行ってくれって」


 声に驚いて顔を向ければ、赤茶けた髪にヘーゼルの瞳の少年がランプを持って立っていた。

 リズの幼馴染のロイだ。少し怒っているのか、勝気そうな吊り目がいつも以上に吊り上がっている。


「ロイ!」


 しかし信頼できる相手の姿を見て安心したのか、じわり、とリズの目に涙が浮かんだ。

 それを見て、ロイがぎょっと目を瞠った。数秒狼狽え、全力疾走したせいで息を切らしている私達を交互に見て顔を強張らせた。すぐ「何があったんだよ」と詰問される。


「リズが攫われかけて、逃げてきた」

「はぁ!? なんだよそれ! 警邏隊は!?」

「わからない。咄嗟だったから、逃げるのに必死で」


 詰め寄られてしどろもどろに答える。よく考えれば詰所に逃げ込めばよかったのだけど、そこまで考えつけなかった。


「警邏隊は誰かが呼んでくれてたのが聞こえたよ。人攫いも周りの人が捕まえてくれてたみたい。でも怖くて、逃げてきちゃった……」

「おまえらなぁ!」

「だって怖いじゃない! ロイだって攫われそうになったら絶対逃げたくなるからッ」


 逃げることに必死だった私と違い、意外にもリズは周りの声を聞いていたようだった。捕まえられているのを見たと言うことは、追いかけられていないかと不安になって振り返ったのだろう。

 それならこんなに走ることもなかったけど、リズもあの場に留まるのは怖かったのだと思う。


「アルが助けてくれたから、もういいの!」


 さすがに混乱しているのか、それとも戻って説明するのが怖いのか、そう言って頭を振る。ロイもこんな時間に私たちを現場に連れて戻るつもりもないらしく、深く溜息を吐いた。


「わかった。わかったから落ち着けって。とりあえず今日は家に帰ろう。な?」


 リズはロイに背を支えられ、コクリと頷いた。

 自宅までは通り2本分ぐらいだけど、ランプの灯りと少年とはいえ男の子の存在があると心強い。私はリズの手を握りなおし、ロイはリズの背を支えて歩き出す。

 やっと家が見えてきて、玄関先で心配そうに立っているマリーさんを見たらどっと体から力が抜けた。隣で沈んだ顔をしていたリズも、マリーさんを見て安堵で涙を零す。それを見て息が止まった。


(私はなにやってるの)


 自分の我儘でリズを危険な目に遭わせてしまった。

 自己嫌悪に駆られて心が沈む。ちゃんといつも通り仕事を切り上げて帰っていればよかった。そうすれば、こんな怖い思いはさせなかったのに。

 私達の話を聞いて心配したマリーさんのところにリズは泊まるということで、1階で別れた。マリーさんに良ければ一緒に、と誘われたけど「私は大丈夫です」と丁重に断った。自己嫌悪でリズの顔が見られない。


「アル。助けてくれてありがと」


 それなのに、リズはそう言ってくれた。怖い思いをしたのは私のせいなのに、そんなことはおくびにも出さない。

 なんて答えたらいいのかわからなくて、緩く首を横に振っただけで何も言えなかった。なんだか妙に痛む足を引きずって階段を上がりきり、自室に入ると重たい溜息が漏れた。


「……何をしているの」


 呻くような声が喉から漏れた。

 頑張る気持ちが空回りを繰り返す。どこまでいっても人に迷惑ばかりかけている。生きるのって、こんなに難しかった?

 どうしたらいいのかがわからなくなってくる。

 椅子に腰を下ろし、もう一度やるせなさに深く溜息を吐く。無意識に安心感を求めて胸ポケットを探り、はっ、と気づいた。


「ペン!」


 人攫いに投げつけて、あの場に置いてきてしまった。

 あの場合はあれしかなかったから仕方ない。あれで隙を突けたからこそ、リズを助けられた。後悔はしてない。時間が巻き戻っても、私は迷わず同じことをする。

 でも。

 あれはお守りのようなものだった。私の為に、と考えて選んでもらったのが嬉しくて、大事にすると約束した。どうしても手放せなくて、ここまで持ってきてしまった物。


「どうしよう」


 声が擦れて震える。

 失くしてしまった。それだけで、これまで必死に立とうとしていた足元から崩れ落ちていくかのような錯覚を起こす。

 傍から見れば、たかがペン一本。だけど私にとって、それは私を守ってくれるものだった。私の心を、守ってくれるものだった。

 身近な人以外に、すり寄り目的以外で生まれたことを祝ってもらえた目に見える証。触れる度に安心していた。

 空っぽになった手を見つめて、奥歯を強く噛み締める。

 神なんて信じてないけど、ここまでくると何かに責任転嫁して呪わないと心が保てそうにない。


(お願いだから……っ)


 もうこれ以上、私から大事な物を取り上げないでよ、神様。




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