86 再会
メル爺と顔を合わせた後、エインズワース領から戻ってきていたセインとラッセルもやってきた。見慣れた顔に心を緩ませたのはほんの束の間。彼らは私の置かれている現状を教えてくれた。
ここに至るまでに起こったこと。
どういった理由でこうなっているのか。
エインズワース公爵長子オーウェンは、これまで私のことを女だと知らされていなかった。彼は私が女だと公にすることで、エインズワース公爵家を終わらせようとした。
そこまでは、だいたい私の推測通り。
ただそこに至った理由を聞いて、兄が「胸の悪くなる話だ」と言っていた意味がよくわかった。
自分に強いられようとしていたことを知って、さすがに戦慄した。
自分の与り知らないところで、自分の処遇が勝手に決められている。それ自体は今に始まったことじゃない。けれど、こちらの人格を無視して碌でもない計画に利用するか、救済と称して殺されるところだったのだと知れば、毒蛇に全身が絡みつかれているかのような恐怖と不快感に襲われた。
(どいつもこいつも、勝手な妄想を私に押しつけるな!)
あまりの胸糞の悪さに嘔吐感が我慢できなくて、中座して手洗い場に駆け込むと堪らずに吐いてしまった。込み上げてくるものがなければ、怒りを声にしていたかもしれない。
胸が焼けそうなほどの怒りと憎悪。喉の奥が熱くて、目頭も熱くて、とにかく悔しくて仕方がない。
安易に「可哀想」で片づけて終わらせようとしないでよ。
勝手に私の心を決めつけないでよ。
――けれど、それを叩きつけるべき相手の一人はもういない。
私とは顔を合わせることもなく伯父は自害したと聞かされて、釈然としない気持ちだけが残った。私が全く望んでいなかったことだとしても、名目上は「私の為」を謳われたのが要因な以上、この顛末は後味が悪いとしか言いようがない。
それと、この件の後始末にセインが動いていたことにも胸が軋んだ。
セインは私がランス領に立つ前には、既に兄と折衝していたことになる。セインの「ごめん」はこのことを言っていたのだと気づいた時には、言葉を失くした。
あの謝罪にそんな意味があったなんて、気づけという方が無理でしょう!?
私に報告・連絡・相談もなく勝手なことを、と思う気持ちがないわけではない。だけど兄相手に逃げ切れるわけもなく、なによりあの時の私はセインが頼れる状態ではなかった。
だからこれに関して湧くのは、自分に対する怒りだ。
(自分の不甲斐なさが嫌になる……っ)
私がもっと早くに覚悟を決めていれば。エインズワース公爵を排除していれば。こんなことにはなっていなかった。
私が立ち遅れた以上、セインは自分一人で考えて動くしかなかった。
エインズワース公爵家の一員であるセイン自身が彼らを切り捨てることが、彼ら側ではないと証明する手立てだ。仕方ない決断だったというのは理解できる。ひどく残酷ではあるけれど、救済措置だったのだろうとも。
セインはエインズワース公爵家に対し、愛情はないと言葉でも態度でも言っていた。それでもいざ目の前にすれば、何かしら思うことはあったはず。
久しぶりに顔を合わせたセインは目の下に隈が出来ていた。顔色も悪く、心身ともに強いられた疲労は計り知れない。
そんなときに私は現実と向き合うのが怖くて、逃げた尻拭いをしてもらっていることにも気づかずに、悲劇のヒロインぶってばかりだった。浅はかにも夢ばかり見ていたツケを、周りが支払っていた。情けない自分が悔しくて顔が歪む。
そんな私を見て、セインは深く息を吐き出した。
「俺は自分の家の不始末を片付けただけだ。怒るなよ」
「怒ってるわけじゃない」
いや、怒ってはいるけれど、これは自分自身に対して。
「それにそれを言うなら、私の家でもあるでしょう」
「俺の家だよ。アルこそ間違えるなよ。おまえはエインズワース公爵家の人間じゃない。爺がアルの祖父だろうと、我が物のように扱おうと、そこだけは違う」
セインが珍しく瞳に強い輝きを宿す。履き違えるな、と眼差しでも言われたようだった。いつもはどことなく気だるさを漂わせているのに、今は凛と背筋を正してまっすぐに私を見据えてくる。
その強さに気圧されて、咄嗟に言おうとした反論が喉の奥で詰まった。
「誰が何と言おうと、おまえはウィンザーフィールド皇国第一皇女、アルフェンルート・ウィンザーだ」
「!」
たとえ、誰にもその立場を望まれていなくとも。
……私自身、それを認めることに怯んでいるとしても。
それは揺るがないのだと突き付けられて、そして認められたようでもあった。
思わず胸が詰まる。この胸を占める感情は一つではない。
私は自分が第二皇子だと言ったことはないけれど、第一皇女だと言ったことも当然なかった。この家に生まれたものの王家の人間としては、いつまでも中途半端な存在だった。
自分が何になればいいのか、わからなかった。
たとえば逃げ延びた先を妄想しても、そこに『女』である私はいなかった。口先では途方もない夢を語っている時も、頭の中では今までのままの自分しか想像できなかった。
今こうしてドレスを着ていても、まだどこか仮初に感じている。何か理由がなければ、こういう格好をすることに抵抗もあった。認めてしまえば先がない、という強迫観念が頭の芯にこびりついていたせいもある。
心の片隅で認められたいと思う反面、認めるのが怖かった。
(それでも私は、それにしかなれない)
「……うん」
無意識に、指先がぎゅっとスカート部分の布地を掴んでしまっていた。それを目に止めて、セインが私と同じ色の瞳を少し眩しそうに細める。
「安心しろよ。俺とよく似た顔が女装しても引くだけかと思ってたけど、かわ……か、カワセミっぽい」
躊躇いがちに開かれた口が、最終的に仏頂面になってぎこちなく言葉を紡いだ。
「カワセミ」
「青い鳥のことだ」
カワセミが何かぐらいは知ってる。なぜ今、カワセミに言い直したの。いくらドレスが青ベースだからといって、青い鳥に見られたいわけではないのだけど。
というか、「可愛い」って言いかけたでしょう。それで誤魔化されるとでも思ってるの?
(そう言われても、もぞ痒くなるだけだけど)
受け入れがたくて、胸を掻きむしりたい衝動に駆られる。セインも口元を引き結び、渋い顔をしていた。癖のある黒髪の合間から覗く耳が僅かに赤い気がする。本人も咄嗟だったとはいえ、下手な誤魔化し方だと思ったのだろう。
私の心情をフォローしてくれようとしたのだろうけど、いざ口にしようと思ったら激しく抵抗があったに違いない。自分と似た相手の女装を、お世辞でも可愛いと口にしたくない気持ちはわかる。ナルシストに思われてしまう。
おかげでそれどころじゃないのに、少しだけ気が抜けた。
私がどんな格好をしようと、きっとセインにとって私は私でしかない。変なところでそう納得出来て、ざわめいていた心が僅かに落ち着くのを感じた。
(中身が変わるわけじゃない。結局、私は私)
自分に言い聞かせて、ゆっくりと細く息を吐き出す。
そこに、新たな来訪者を知らせるノックの音が響いた。
「!」
部屋の外の扉脇をニコラスとオスカーが守っている為、おいそれと誰かが入れる空気ではない。いま部屋の中には私とメル爺とメリッサ、後から来たセインとラッセル、それとずっと黙って話をさせてくれていた兄とクライブがいる。
そこに新たに人が加わるとすれば、残るは一人しかいない。
「陛下がお見えになられました」
扉越しのくぐもった声で告げられた名は、予想通り。
(陛下……!)
覚悟していたとはいえ、心臓がドクリと大きく跳ねた。
当然ながら、向き合わなければならない相手。
指先が異様に冷たくなっていく気がする。緊張で急速に喉が渇いていく感覚に襲われて、こくりと喉を嚥下させた。
私の記憶にある最新の陛下は、図書室で会った先生の姿だ。まだあの時は、間抜けにも陛下だと気づきもしなかった。
あの人が陛下、つまり父だと知ってから顔を合わせるのは、これが初めてになる。
実のところ、まだ父親であるという実感はない。クライブはああ言ったけど、私は騙されてからかわれただけでは? という疑いも少なからずある。先生が陛下だと知ったからと言って、手放しで父と慕えるかと言ったらそんなわけがない。
むしろ違っていてほしい、という気持ちの方が強い。
あそこで過ごした思い出が歪むような焦燥に駆られる。裏切られていたようにも思えるし、それでいて向けられた情を疑いたくない気持ちもある。父の顔を覚えていなかった私が悪いのだけど、どういうつもりで私と接していたのか。知りたくないし、知るのが怖い。
いっそ他人なら、こんな思いを抱かずに済むのに。
私にとって父は畏怖の対象だ。手を伸ばしても、届くはずのない人。あの夜の庭で出会って手を掴めたことが、未だに奇跡に思えるというのに。
一体どんな顔をすればいいのか、わからない。
ましてや偽っていた身としては、死刑宣告を食らうかもしれないのだ。ここまで兄が動いていてそうなるとも思い難いけど、可能性はゼロではない。むしろ高い。
自分の心臓が指先にまで広がっているかのようだった。ドクドクと全身が駆け抜けていく音だけがやけに耳の傍で鳴り響く。
セインとメリッサ、ラッセルも壁脇に控え、メル爺だけは私の後ろに控えて立つ。兄がそれを確認してから頷いた。クライブの手が扉に掛かるのが、スローモーションのように映る。
ゆっくりと開かれた扉。
反射的に頭は下げたものの、顔を合わせるのを引き延ばす時間稼ぎは一分にも満たない。
こちらに近づいてくる足元は、玉座にいる時のような荘厳な白いローブではなかった。兄と同じように、普通の貴族と同じような格好。どころか、相変わらずシャツの袖を腕まくりされたままなのが目に入る。
ここでそんなラフな格好をしても誰にも咎められない人は、一人しかいない。
「久しぶりだな」
違えばいいと願う私の耳に届いた声は、しかし紛れもなく聞き覚えがあることに眩暈がした。




