青春謳歌
白い壁を見ると、私の青春時代を思い出す。
いや、もしかしたら、青春という言葉は相応しくないかもしれない。
一般で言う、「青春」と呼ばれる類の行為は私たちにはあまりに眩しくて、あの白い部屋で起こったささやかな出来事をセイシュンと名付けるしかないのだった。
高校三年、夏。ちょうど文化祭が迫っている時期だった。通称オタク部とも言われている文芸部、部長。そう、いわゆる私は隅っ子属というやつだった。教室の隅で私と同じようなお友達2人とあのアニメがいいやらこの小説がいいやらと他には聞こえぬように話していることが学校生活における楽しみだったのである。もちろん男子と話すことなんて一ヶ月に一度あればいい方だ。そんな私の趣味。読書、執筆。文芸部での活動は密かな私の楽しみであり、締め切った暑苦しい部室こそが私のセイシュンのすべてだったのである。
部員二十二名。その中でも十名ほどは幽霊部員。年に一度作品を出せばいい人、八名ほど。やる気はないけど最低限の活動はしてくれる人、三人。意欲的な活動を望んでいる人、一人。そう、その一人が私なのだ。かといって、みんなに働きかけられるような素晴らしいコミュニケーション能力があるわけもなく、一人でぼそぼそと部室に篭っているのが常だった。文章の中で饒舌な私は、面と向かうと恐ろしく寡黙になってしまうのだった。
その日もどうにか部誌一冊分は作れるくらいの作品を集め終え、製本作業に取り掛かるところだった。
みんな何かと理由をつけ、作業を手伝ってくれる人などいない。それでも作品が集まっただけ上出来だ、と自分を励ます。
はぁ、と一つ、ため息をついた。時刻は十六時過ぎ。まだまだ暑い時間帯である。
これからこの窓のない暑苦しいこの部屋で一人で製本作業を始めなくてはならない。いや、部屋に窓がないわけではない。正確に言えば文芸部の部室には窓がないのだ。
部室は少し広めの教室を四つに区切ったものの一つである。改装工事をしたのか、もともとこのような仕様なのか、教室で窓があるべきところは白い壁しかなく、かつての先輩が残していったであろう落書きたちで埋められていた。
他の部屋とは薄い、白い壁で区切られており、上は突き抜けで、音はだだ漏れだ。
入り口手前にある部屋は、ボランティア部の倉庫と化しており滅多に出入りがない。倉庫の脇にある、人がぎりぎり一人通れる分の通路を抜けると、白い壁で囲われた(先ほど申した通り、所々に落書きがあるため、真っ白い部屋と言えないとが文芸部員としては悔しいところである。)我が文芸部にたどり着くのだった。学校の文化祭などで学生が作るお化け屋敷のような窮屈感が、私は嫌いではなかった。
お隣は、別名サボり部で有名な将棋部である。たいして部員が出入りするわけでもないのに将棋部は四つ切りにされてある二つをも占領していた。許すまじき行為であると日頃私は思っていた。
将棋部の部屋には窓があり、たまに上の突き抜け部分から風が入ってくることもあった。
もちろん真面目に活動しているわけではなさそうで、いつも聞こえるのはアニソンや、麻雀のような音と気だるげな話し声だった。
今日も先ほどまでは誰かが居たようだが、私が印刷室に行っている間に帰ったようだ。
空間にいるのが一人ということでだいぶ気が楽になる。壁を挟んで見えないとはいえど、同じ空間で誰かと無言で過ごすのは息苦しくて仕方なかった。
帰ったのは嬉しい。しかし、問題点がある。将棋部のヤツは窓を開けっ放しにして帰ったようだ。印刷室から帰ると、製本のために束にしていた紙が散らばっていた。
はぁ、ともう一度ため息をつく。この状況を見てから五度目のため息だった。
ため息ばかりをついていても仕方ない。散らばった紙を一枚ずつ拾い上げる。散らばっていたのはちょうど私が書いた作品の一ページ目であった。
『私、あなたから離れたいの』
という冒頭から始まる、自信作である。先生にチェックをしてもらった時点でも好感触であった。
もう一度、ストーリーを頭の中で再生しながら、製本作業を始めた。
ちょうど頭の中の物語が終わるとき、最後の一部になった。が、一枚足りなかった。
風で散らばっていた最初のページだ。床を再度確認しても見当たらなく、印刷枚数自体が少なかったのかもしれないと、印刷機に向かうことにする。ふと、視界の隅に白いものが写り込む。そちらに注意を向けるとどうやら探していた私の最初のページのようだ。題名の「S」というはじめの文字が見えていた。そのページは白い壁に半分以上めり込んでーーつまり将棋部の部室の方にお邪魔していたのだ。ページの隅っこを引っ張り、こちらに戻そうとしてみる。汚れていることは承知の上だが、将棋部のヤツラにこれを見られたりなんかしたらたまったもんじゃない。自殺ものである。
ところがいくら引っ張っても、紙は取れなかった。机か何かに挟まってしまったのかもしれない。ぴっと思い切って力を入れると、ちょうどこちらに見えている紙の部分が千切れてしまった。
ヤダナニコレシニタイ。
なんて、そんなこと考えている暇はない。
急いであの紙を救出しなければならない。私のこれからの高校生活がかかっているといっても過言ではない。
とりあえず、部室から出て、将棋部の部室を開けようとしてみる。鍵がかかっている。うん、やっぱりですよね。
もう一度自分の部室に行って解決策を考えた。もう考えられることは一つ。この壁を飛び越えるしかない。
ぐちゃぐちゃに雑紙やら資料が散らばった机に足を置く。靴は綺麗に揃えておいた。ふと、目に映った馬の被り物と数秒見つめ合う。
先輩がかつて置いていったものだ。いやにリアルな作りで、薄手のゴム製。触り心地は悪くない。そいつは私を誘うかのような目でこちらを見つめていた。一旦机から降りて、そいつの元へ向かう。二つ結びの頭にそっとかぶせてみた。うん、悪くない。もう一度机に足を乗せて、勢いをつけて白い壁をまたいだ。私は怪盗ホース。奪われた作品のために今宵飛び立つのだ。体育の成績だけはいつも2の私でもなんとか着地できた。足がジンジンしていることは秘密にしておいて欲しい。
早速お目当てのものを探す。着地した近くにあるコンポの置いてある棚に私の小説は挟まっていた。それをそっと抜き取って、任務完了。怪盗ホースの出番はおしまい。
ふと、将棋部の部室を見渡す。文芸部とはまた違った汚さだ。何年ものかわからない古びたコンポの周りには日頃私を悩ます原因の一つでもあるアニソンCDが散らばっており、お菓子の殻やらペットボトルが床に散乱していた。部屋の隅に忘れ去られたように置いてある本棚にはおざなり程度に将棋関係の本はあるものの、大半は何年前のものかわからない教科書や、ボロボロになった少年誌が重なっていた。
壁には数枚今流行りのアイドルの水着写真が貼られていたが、それには触れないでおきたい。
そもそも怪盗ホースの出番の原因となった窓をそっとしめた。夕日がとても綺麗だった。他の部活の練習声や笑い声が聞こえる。ふと、置いてけぼりにされたような感覚に襲われる。この青春というものを、今この瞬間に私以外の全人類が味わっている感じ。ふと目頭が熱くなるのを感じて我に帰る。
さて、任務は終わったことだし、華麗に帰ろうじゃないか。なんて、気取ってみたけど、大切なことに気づいた。
文芸部からは、机を踏み台にして帰ったが、将棋部には踏み台になるものがなかった。近くの棚にはコンポがありその周りには今にも崩れそうなCDの山である。踏み台にしたらCDは私の重みで散々なことになってしまうであろう。慌てて、入り口に行ってみたがカギがかかっていた。内鍵という大層なものはなく、外からでしかカギが開けられない仕組みだ。はぁ、と今日何度目かわからないため息を漏らす。
侵入したことがバレるのを覚悟でコンポをどかしてそこを踏み台にするしかないようだ。まぁ、何も盗ってない訳だし、そもそも私が侵入したこと自体わからないはずだから、仕方ない。
ドアから向きを変えて、コンポのある方へ歩き出した。
ガチャリ。
あ、開いた。侵入がバレたということよりもここから出られるという安心感で顔を緩ませた怪盗ホース。己が怪盗ホースであることに振り向いてから気づく。
ドアが開く。背中からドバッと冷や汗が出る。
「は? ……馬?」
視界の悪い怪盗ホースの目の穴から捉えたのは学校指定のダサいえんじ色のネクタイ。そこから見上げると、目まで隠れつつある黒髪マッシュの頭。そいつが同じクラスの岸本である事は、そいつと見つめあって30秒経ったあとだった。
岸本であることを確認してからやっと足が動き出した。そいつの脇をするりと抜け華麗に逃げる怪盗ホース。の、はずだった。
キュッと手首を掴まれる。
「何持って行こうとしてんの」
私の渾身の作品のかけらを取られる。違う、これは盗んだんじゃない。
「ち、違います。風で、ここに、飛ばされて、しまって……」
うまく言葉を紡げないのは私の悪い癖だ。文章の中ではあんなに饒舌なくせに。
「見して」
「嫌」
「なんで? ここの物かもしれないから、確認」
「嫌です」
ピッと華麗に取られてしまう。
「Shadow」
「わー!」
顔が真っ赤になるのがわかる。無駄に身長の高い岸本から紙を奪うのは無駄なことだと瞬時に把握する。それよりもここから逃げてしまって私が誰だかバレないほうが利口なんじゃないかと考える。幸い私はまだ怪盗ホースのままだった。
「ば、ばか!」
あまり人に暴言など言えるご身分ではないけれど、こればかりは思わず溢れ出た言葉だった。
あまり短くないスカートをひるがえして、我が城文芸部部室へと戻っていった。
汗で蒸れた馬を外す。あほくさい。こんな惨め女子高生、どこを探したって私くらいしかいないだろう。
隣の部室では、どうやら岸本が部室にはいり、椅子に座ったようだ。
動きがない。まさか、読まれてるとか、そんなことあるわけ、
「おい」
隣から声がする。岸本だ。将棋部のヤツラとこのような交流を図るのは私が文芸部に所属して以来初めてだ。
何も言えなかった。
「おい」
また。言葉が詰まる。本当は、普通の高校生が言うように軽やかに暴言をいい散らかしたいのに、何一つ出てこない。
カサカサ、と音を立ててしばらくすると白い壁にトンッと何かが当たるような音がした。
息を殺して岸本が出す音を確かめる、私。
ガサガサといろんな音が聞こえ、しばらくすると
「行くぞ」
なんて声とともに何かが私の頭の上に落ちた。
「いたっ」
つくづく惨めな女子高生だと思う。当てられた何かを拾う。ペットボトルだった。中にはくしゃくしゃになった紙が入っている。
広げてみると先ほど岸本に取られた小説の一ページ目だった。裏には「もっと見せろ」なんてやる気のない文字が書いてある。折り目から推測すると、紙飛行機にして飛ばそうとしたものの、白い壁に邪魔されて飛ばなかったようだ。仕方なく近くにある使えそうなこのペットボトルを使ったのだろう。
イヤです。
油性マジックでどでかくお返事を書き、同じようにペットボトルにねじ込んで隣へ投げる。
白い部屋は夕日に照らされてオレンジ色の異空間となっていた。もうすぐ印刷室はしまってしまう。
足りないページを印刷するために、私は部室を出た。
結局一部、追加で刷ってしまった。岸本と同じ空間に居られるわけもなく、手持ち無沙汰なのも嫌なので、手元にあった自分の小説を印刷したのだ。
部活終了時間が迫っている。さすがに岸本も帰っただろう、と願って部室に入る。
同じ空間の、異なる音を確かめるように、静かに入る。
ガタガタという音からしてまだ岸本がいるのだろう。肩を落とした。
部室までたどり着くと思わず声が漏れた。
「はぁ?」
こんな間抜けた声を学校で出したのは初めてだ。
ペットボトルが数本床に散らかっているのだ。岸本の仕業だ。
見てみると、ペットボトルの中に先ほどのように紙を入れていた。
「続きが見たいんだ」
「どうしてもきになる」
「これは生殺しというやつだろうか」
「好きなんだ」
「好きってあれだぞ、お前の小説のことだからな」
鼓動が、早くなっているのがわかる。もちろん自分の小説に関して言われてるわけで、私へのアプローチでないことはわかっている。
それでも外部の人からこんなにも興味を持ってもらえるとは思わなかった。
見せるのが恥ずかしい反面、見て、感想を聞きたい気持ちもある。
もう一つコンッと落ちた。
「今からそっちに行って無理やり読んでもいいんだからな」
やけになって、最初の一ページ分足りなかった小説の束を一枚ずつペットボトルへ突っ込んで全部投げた。
全部で6ページ。先ほどから投げられていたペットボトルがちょうどすべて投げ返せる形になった。最後のページの裏に「カンソウ、モトム」なんて書いて、投げる。
そわそわしながら待っていた。明日から岸本をどんな顔で見たらいいのかわからない。岸本はきっと私だなんて思わないから何食わない顔して生活をするんだろうけど。
ペットボトルが飛んできた。手紙付きの。
「やっぱり好きだ。菅野、こんなに綺麗な文章書けるんだな。もっとお前の話が読みたい」
ちょっと待て。もう一度読み返す。菅野。私の苗字だ。バレている。
「あの」
うまく言葉が出てこなかった。なんで私だって知ってるんですか。どこらへんが好きなんですか。このこと他の人には言わないでくれますか。もっと私の作品読んでくれますか。
うまく出てこなくて、何も言えずに、言うことを諦めた。
そういえば同世代の男性と話すのは実に3ヶ月ぶりであった。
何も言えずにカバンを取り出して、走って帰った。
なぜか泣きそうになって、誰もいないくせに鼻をすすってごまかした。
次の日、学校で岸本と顔を合わすのがなんとなく気まづかった。席は離れているし、あまり関わることもないから問題はないのだろうけど、朝に岸本が教室に入ってきた時から心臓の音がうるさくて仕方なかった。
静かに本を読んでいるのに、私のことを邪魔してビートを刻んでくる。幸いにも岸本が話しかけてくるようなことはなく、平和に一日が終わった。少しがっかりしている自分が腹立たしい。
部室に入る。片付けもせずに飛び出してしまったため、昨日のままだった。ペットボトルがないことに少しがっかりしてる自分も、耳をすませて隣に誰かいないか確認している自分も、腹が立つ。
ため息をついて、製版の続きをした。一人ですることはもう慣れっこだ。やっと気持ちが落ち着いて、作業に集中したころに、ドアが開く音が聞こえ、心臓が飛び跳ねる。将棋部のドアだ。ドキドキしてるのがいい加減嫌になる。平常心を装って作業を続ける。手が震えているのは気づかないふりをした。
「おい」
白い壁の向こうから、声が聞こえた。待ち望みすぎて私の都合のいい聞き間違いじゃなければ、岸本の声だ。
返事を返せばいいだけなのに、うまく出てこない。どうやって声を出そうか迷ってるうちにペットボトルがまた降ってくる。
「昨日の人?」
「そうです」
手紙ではこんなにすらすら書けるのに、なんて思うけど、仕方ないものは仕方ない。
「あの、菅野、って決めつけてたけど、もし違う人だったら、ごめん」
違う人です、なんて言えば、ハイ終わり。すべてまるっと解決です。明日から岸本にびくびくすることも、口止めのためにパシられるような心配もない。岸本が単純なやつで、あーよかった。
「あの、菅野です。同じクラスの、菅野百合子」
こういう時ばかりスラスラ出てくる声はなんてあまのじゃくなんだろう。
「よかった。当たってて。あの、もしよかったら、そっちに行っても、いいかな。もし、君がいいなら、だけど」
昨日の強気な口調はどこに消えたのだろう。岸本も緊張してるんだろうか。なんて、嬉しくなっている自分が恥ずかしい。
「別に、いいけど」
かわいげのない返事だなぁ、なんて、他人事。
かろうじて製本作業を止めていない手に汗が滲んでいる。ただ、止めてしまえば緊張が溢れ出してしまいそうで、そんなことできなかった。
ガラッとドアが開く。今度は文芸部の部室のドアだ。入ってくる人はわかってる。心臓が飛び出しそうなほど動いてるのがわかる。相手にまで聞こえてしまわないか、不安になる。
私より少し離れた反対側の席に座る。
部室内で響くのは私が製本作業をしている、カサカサという音。
外は笑い声や部活の掛け声など青春が溢れていた。
「あの」
急に声をかけられて、びくりと肩を揺らす。さっきまではおい、だったくせに。
「それ、手伝おうか」
それを指すものが製版作業だということに少し時間がかかった。
「はい、じゃあ、お願いしても、いいですか」
単語一つ一つを言うのにこんなに苦しくなるのはどうしてなんだろう。
これをこっちに重ねて、ここは、こう。こうしたら、確認をしてそれ終わったら、また声かけてください。
ギリギリ届くか届かないかの距離で説明をする。心臓の音を聞かれてしまったら、恥ずかしさで死にそうだからだ。
外から一段と大きな笑い声が聞こえた。誰かがなにかいたずらをしているようだ。同じ空間で生活しているはずなのに、外の青春はあまりにまぶしく、この白い部屋とは別世界に感じた。
視界の隅に集中する。意識しないようにすればするほど意識を寄せてしまう。沈黙が息苦しくて泣きそうになった。
「なんで」
ぽつりと溢れた声。もういい、どうにでもなってしまえ。
「なんで、私だって、わかったんですか」
怪盗ホースになりきっていたつもりなのに。なんて恥ずかしくて言わないけど。
「ペンネーム」
ちらりと岸本のほうを見ると目が合った。慌てて目をそらす。
「ペンネームみたら、一瞬で百合子の名前が浮かんで、その」
自分の顔が赤いのがわかる。
「百合って英語でリリーって言うから」
「わ、わかった。ありがとう」
恥ずかしさに耐えられずに遮った。
沈黙が流れる。手が震えている。製本したものを置いた拍子に、近くの紙を落としてしまった。
名前を呼ばれたくらいでこんなに赤くなってしまってる私は、何かの間違いで外の青春を味わってしまったらどうなるのだろう、と想像した。きっと窒息死くらいはしてしまうと思う。自分の不甲斐なさに恥ずかしくなった。
ガタンという音が聞こえて、思わず手が止まる。見なくてもわかる。岸本がこちらに寄ってくる。背中の汗が滴ってくるのがわかった。
沈黙に耐えきれずに口を開く。わけもわからないことをベラベラ並べる。そんなこと、言いたいわけじゃないのに。
「私、自分の名前、恥ずかしいんだよね! 百合子なんて、可愛らしい名前、私なんかについてしまって申し訳なくて! 名前負けしてるっていうか!」
「そんなことないと思うけど」
じゅわっと目頭が熱くなるのを感じて、わざとゆっくり紙を拾った。
百合の花言葉は、純粋、愛嬌。百合の花のような女の子になりますように。こんな人間の端くれのような女の子に育ってしまってごめんなさい。
「ありがとう」
手渡された紙に向かって言った。さっきの言葉に対しての、なんてことは言わない。
お互い何も話さずに作業をした。外からまた笑い声が聞こえたが、これまでに感じていたような居心地の悪さはなかった。
鐘がなって、手を止めた。
「そろそろ、終わりにしよう。手伝ってくれて、ありがとう」
「いや、こちらこそ、ありがとう」
「あと、私、片付けするから」
恥ずかしさを全面的に押し込んで、小さくバイバイと手を振った。よく可愛い女子高生がやるような手の振り方だ。
調子を乗ってそんなことをしてしまったせいか、みるみる顔が赤くなるのがわかる。そんな顔なんか見つめていないでさっさと帰ってほしい。
「あの」
自分のことで精一杯で、岸本の顔も赤くなっていることに気づくのに時間がかかった。
「もしよかったら、他のも読ませてくれない、菅野の、小説」
バイバイとかわいげに振っていた左手を下ろした。きゅっと拳を作る。そうすれば震えが、止まる気がしたからだ。
「あんまり、楽しくないと思うよ」
「それでも、いい」
どきんと、心臓が落ちる。
「感想、くれる」
「いくらでも」
別に感想なんていらなかった。岸本と話す口実が欲しいだけだ。
「気が向いたら、ね」
「今」
岸本と目が合う。前髪で隠れて見えないけど、意外と綺麗な目をしてるんだな。
「今じゃ、だめ」
将棋部の部室から漏れた夕日の光で白い部屋がオレンジ色に変わっていた。私の一番好きな数分間の空間だった。
「そこ、にあるから、勝手に見たら」
歴代の部誌が置いてある棚を指差す。
ありがとう、なんて掠れた声が聞こえた。胸がいっぱいいっぱいで、聞こえないふりをした。
「菅野、もう帰るの? 帰るんなら、将棋部に持ってっていいかな。明日にでも返しにくるから」
「ここで、読んでけば。することないから、まだ製本してるし」
岸本とまだ同じ空間に居られることを内心喜んでいることは、口が裂けても言えない。
「そう」
岸本はそう言って、何冊か部誌を取るとさっきの席に座って読み出した。製本をしながら、何度も私の作品を読んでいる岸本の顔を盗み見した。
岸本は一作品を読むたびに感想を言ってくれた。興味なさそうにしていながらも嬉しさで泣きそうだった。岸本が楽しそうに話しているものが私の作品だということがたまらなく嬉しかった。
気づけばもう辺りが暗くなっており、下校時刻がせまっていた。放送を聞いて、岸本が立ち上がる。
「菅野、歩き?」
「うん」
「どこ」
「あっちのほう」
指をさした方向が岸本の家と同じ方向であることを願っていた。
「送る。俺自転車持ってくるから校門で待ってて」
返事をする前に岸本は部室を出てってしまった。
将棋部に一度荷物を取りに行った岸本がぼそりと呟いた。
「お前いつか作家になれるよ、絶対。俺、ファン一号だからな」
聞こえないふりをして、部室に鍵を閉めた。
岸本も部室から出てくる。何事もなかったように歩き出す。
岸本の数歩後ろを歩いた。鍵を返すために同じ場所に向かわなくてはならないからだ。
きっと他の人が見たところでなにか特別な関係に見えるような雰囲気ではないだろう。
それでもなんだか胸がいっぱいで、緩んでしまいそうな頬をぺちんと叩いた。
鍵を返して、校舎を出る。何も言わずに岸本は自転車置き場に向かう。
校門まで行って、岸本を待つ。スカートの折り目を気にしちゃったりなんかして、恋人を待つ気分だった。これが世間一般で言う「セイシュンシテル」ということなのだろう。きっと残りの高校生活では絶対味わえない感覚。ここぞとばかりに盛大に堪能してみようと思う。
女の子がよくやる、スマホを鏡代わりにして前髪を直す仕草もしてみた。女子高生をしっかりとしてるようでくすぐったい。反射して写った自分の顔が女子高生をしっかりできていなくて、現実に引き戻され、思わず真顔になった。
ふと、顔を上げると、自転車を押して向かってくる岸本を見つける。岸本も目が隠れるほど長い前髪を気にしていて、思わず笑ってしまった。
「どっち?」
「こっち」
一人分離れた距離で歩き出す。街頭に照らさせた私たちの影がくすくすと笑っている気がした。
「多分さ」
ぽつりと話し出す岸本。返事はしなかったが、耳を傾けた。
「俺が今、菅野の手を繋いだりなんかしたら、菅野の影は嫌がって、菅野から離れるんだろうな」
私の作品の中に出てくる話だった。「Shadow」岸本が最初に読んだ話だ。
「さぁ、もしかしたら、喜ぶかもしれないよ」
声が、震えているのがわかる。恥ずかしさでいっぱいだ。岸本が興味を持っているのは私の小説で、私ではない。わかっていても、私は岸本を意識してしまうのだ。
岸本はしばらく何も言わずに歩いていた。数秒前の私を殴ってしまいたい衝動に駆られる。
「本体も喜んでくれたら光栄なんだけどな」
私の都合のいい聞き間違いかもしれない。それでもよかった。
私たちはまた会話もなく、一人分離れた距離で歩いていた。
「ここだから」
「あ、うん。じゃあ、また」
あっという間に家に着く。その間の会話は二、三言。これで恋人気分だったなんて言っても、誰もが首を傾げるだろう。
家に入って真っ先に部屋に入る。電気も付けずにベッドにダイブした。枕に顔を押し当てる。
こみ上げる感情を、抑えられなかった。あれだけでよかった。あれだけでよかったのだ。幸せが胸を埋め尽くして、溢れて、嗚咽になって声として漏れた。
昨日の岸本に小説を見られた時からを思い出してみる。繰り返し、思い出す。涙が出た。嬉し涙って本当にあるんだ、なんて、まぬけなことを考えた。これからもあんな風に二人ですごして……なんて考えて、恥ずかしくなる。あるわけないのに、なんて考えていても頬が緩みきってるのがわかる。
家に帰ってから寝るまで、無意識に岸本のことを考える私が恥ずかしかった。恥ずかしいのに私の頭は岸本でいっぱいだった。
次の日も、岸本は来た。その次の日も、次の日も。
私の小説は初めの一日で読み終わってしまったのに、製本作業を手伝ってくれるのだ。
会話はほとんどない。あっても二、三言。ぽつりぽつりと話している中で発覚したのは私の好きな作家さんが彼も好きだったということだ。
いろんなことを話したかったが、好きなものが一緒というだけで胸がいっぱいになってしまい、口の中の言葉は溶けて消えてしまった。
文化祭なんて一生来なければいいと思った。製本作業が一生終わらなければいいと思った。
そんなことは起こるはずもなく、着々と部誌は完成していく。
「これ、一部、俺も貰えるの」
「文化祭では一部百円で販売しています」
「百円か、安いな」
「嘘。あげるから」
「できたら一番にちょうだい」
「図々しい奴」
顔は合わせられなかった。お互い目が合うと言葉が詰まってしまうのだ。
真顔で、うつむいて会話をする私たち。
視界の隅にギリギリとどめた岸本をみる。締め切った白い部屋で、彼は何を思っていたのだろう。
彼の汗が落ちると同時に心臓が落ちたようにドキンと音を鳴らした。
製本作業は文化祭の一日前に終わった。いつもは一人なので効率よく進めるために部活時間外の昼休みや週末もやってたくせに岸本といる時間を増やしたいがために、時間外は何もせず、ギリギリになったのだ。
白い部室は、オレンジ色に染まっていた。数ページ前にも書いた、私の大好きな数分間の空間である。
無駄な達成感と、もう岸本と関わる用事がない悲しさでなんだか泣きそうになった。
鼻をすすってごまかす。
「はい」
一冊手にとって渡す。岸本用として端に避けていたものだ。
「Shadowはもう読んでるけど、もう一度読んでくれたっていいよ」
「ありがとう」
岸本の表情は前髪に隠れてうまく見えなかった。
パラパラとここで開きそうになるので、慌てて閉じる。
「家に帰ってから読みなさい」
最後のところをすこしだけ、修正した。岸本の分の部誌だけ。オーダーメイドである。
『本体も喜んでくれたら光栄なんだけどな』
岸本に言われた言葉を残していたかった。私の聞き間違いでなければ、の話だけど。
明るいから今日はいいよと断ったが、岸本は送ってくれた。あとで人づてに聞いた話だが、岸本が住んでいるところは私の正反対の地域だったのである。
断りは形ばかりだった。送ってくれることを期待していた卑しい女である。
会話はない。距離も縮んでいない。うまくなったのはどうやって視界の隅で岸本を見るかということくらいだ。
「文化祭、明日だね」
ぽつりと、消えそうな声で岸本は呟いた。
「部誌、売れるといいな」
私は一日店番となる。頼み込んで文芸部員2人を捕まえられた。午前と午後を二人で分けてもらい、私がメインで一日。一緒に見てもらうことを約束した彼氏などいないのだからちょうどいい。と、強がってみる。
将棋部は教室を借りて将棋で遊べる場所を作るそうだ。
借りた教室が離れているので、明日岸本に会うことはないだろう。
「じゃあね」
「うん」
今日で一緒に帰ることは最後なのにいつもと同じ挨拶。
明日はきっとこうやって会うことはないし、文化祭が終われば文化部の三年生は引退で、部室に行くこともない。
玄関について、思い切って振り返った。いつもは速攻で自転車に乗るくせに、まだ居やがった。
きゅっと固く口を結んだ。体が動かないのだ。
岸本の手が上がる。手を振っていた。そんな大した距離でもないのに大振りだ。岸本も、緊張していたんだと思う。口がきゅっとなっていた。
なんだか顔がほころんで、私も大きく振り返した。可愛い女子高生の小さな手の振り方なんてとうに忘れてしまっていた。
文化祭は順調だった。部誌は対して売れはしなかったが、毎年のことなので特に気にしなかった。
文化祭が終わって聞いた話だと、私がトイレに行ってる間にのっぽのキノコ頭の人が来て一部買ってすぐに私の作品を読んだそうだ。読んだ後にしばらくうろうろして「この作者の人に、馬鹿野郎と言っといてください」と言って去っていったそうだ。
トイレに行っていて良かったと思う。直接会ってしまっていたら恥ずかしくて死んでしまうところだった。
文化祭が終わって、やる気なさげの後輩に部長という名を託し、部活を引退した。散々散らかした部室を片付けるときに岸本が来ないかと期待したが、将棋部は静かだった。
クラスはいよいよ受験モードになった。
岸本には話しかけなかったし、岸本も話しかけてこなかった。
授業中、何度かこっそり岸本を見ると、岸本もこちらを見ていた、気がした。気がした、だけ。お得意の都合のいい妄想だ。
私は第一志望だった大学に無事合格し、あとは卒業するだけだった。小説を何作か書いて、それを岸本に見せたかったが、声をかけるなんて大層なこと、私にはできなかった。
それに、そもそも岸本が進学か就職かもわからないし、進路が決まったのか決まっていないのかもわからなかった。
結局、一言も話さずに卒業を迎えた。クラスの中心の人たちは泣いたり笑ったりと忙しい中、私たちは、じゃあね、近いうちあおうね、なんて静かに笑いあって早々に帰ることにした。青春謳歌してない組がそこに留まることは息苦しかった。
最後だからと、部室に向かう。倉庫の脇にある、人がぎりぎり一人通れる分の通路を抜けると、白い部屋に繋がる。ここ私のセイシュンの全てだった。半年前までは毎日通っていたくせに、もうここに来られないと考えると全てがいとおしく感じてしまう。
インクと古紙臭い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ガラリと、ドアが開く。うちのドアではない。将棋部のドアだ。
そんなはずないとわかっているはずなのに、胸がドキドキする。
「おい」
息を切らし気味の声が聞こえた。岸本の声だ。
「なに」
素っ気なく言ったくせに、震えている。情けない。
しばらくガサガサという音が聞こえる。
「行くぞ」
声とともに私の頭の上に何かが落ちた。
「いたっ」
岸本が狙ってこれをしているのならプロ野球選手にでもなれるのではないだろうか。いや、プロペッドボトル選手だろうか。なんて、皮肉を言っておく。
ペッドボトルの中にはくしゃくしゃになった紙と、ボタン。制服のボタンだった。
紙を広げる。
『くれてやるよ、馬野郎』
汚い文字で書いてある。怪盗ホースを馬鹿にするなんて、なんて生意気な野郎だ。
『せっかくタダでプレゼントしたのにわざわざ部誌を買っちゃう馬鹿野郎に言われたくない』
ペットボトルを投げ返す。
『わざわざ小説を書き換えるとかギザなことする馬野郎には言われたくない』
『馬馬うるさい馬鹿』
しばらくくだらない罵倒が続いた。
ふと岸本が返事を寄越さなくなる。すこし不安になる。
「絶対、お前デビューしろよ。絶対だからな。そんで俺はファン一号だからな」
どうして人に将来を決められなきゃいけないわけ。そもそも作家になることなんてすごい難しいことなんだから、簡単に言わないでよ。
思ってることとは反対に、顔がほころんだ。
「とくべつね」
きゅっとボタンを握った。岸本には一番私が欲しいものも分かられているようだった。
私は、私のセイシュン全てが詰まった白い部屋を後にした。
「うん、悪くないね。これなら賞狙えるんじゃないかな」
私の原稿を束ねながら萩野さんがにっこり笑った。
賞こそ取っていないが、この萩野さんが気に入ってくれたおかげで、担当として、私の原稿を見てくれている。今度の青春をテーマとした短編小説賞にあげる原稿を見せたところだった。
「ねぇ、ところでさ、これ聞いていいのかわからないけど、本当の話なの? 菅野さん」
だいぶ上手くなったであろう笑顔を萩野さんに向ける。
「ひみつですよ」
私のこの大きなラブレターを、書店にて、彼が見つけてくれることを願う。