紅錦
書き物をしている時だった。
どうにも眠たくて、頭がゆらゆらとする。欠伸を繰り返し、伸びをし、熱い茶を飲み、窓の外の景色を眺め……どれもこれっぽっちの援軍にもならぬ。冷えた空気を吸い込みながらも、身体が眠気で温まっていく心地がした。
眠い。眠たい。寝よう。せめてこれを終えてからだ。何、そんなに急ぐものでもあるまい。重い瞼を押さえ、ぼんやりゆらゆらと頭は揺れ、とうとう耐えきれずに文机に突っ伏してしまった。
風邪を引くぞ、と夢の中で声がする。晩秋の空気はひんやりと冷たい。構うものか、と言い返す。微睡みに埋もれるようにして、しばしの安らぎに浸った。
きい、きい、と足音がする。誰かが近づいてくる。くすりと笑う声。誰だ、と問おうとしたが、頭はすっかり眠りに落ちていて、声を出すことができない。ばさり、と音がして、何かが背中に掛けられる。暖かい。意識が遠ざかる。意識が……。
はっ、と目が覚めた。辺りを見回す。肩に何か掛かっている。着物か。触れる。上等の絹の手触り。彩りも取り取りな紅葉を散らした裾模様。目にも綾な女物の着物を肩掛けがわりにされていたのだ。こんな悪戯をするのは一人しかいない。
「姉さん」
ころころと笑う声。
「よく似合ってるわよ」
「やめようよ。大体、大事な着物だろ。汚れたらどうするのさ」
姉は大きな目を細める。
「大丈夫よ、一枚くらい。着物なんて幾らでも買ってくれるってこないだ言われたんだから」
母さんから譲られた着物だから、だからこそ大事にしてほしいのだけれど。姉は、私の気持ちをわかってかわからずか、頬をつつく。
「武ちゃんにあげてもいいのよ、それ」
「いるはずがないだろ」
私は乱暴に着物を肩から落とした。さらり、と軽やかに滑り落ち、鳥の羽ばたきのような音を立てて床にわだかまる。
姉は、三度しか顔を合わせていない相手の家に、もうじき嫁に行く。
「ごめんごめん。……それ、何書いてたの」
文机の上を指差す。
「これは……」
少々躊躇った。
「姉さんの旦那さんに手紙。姉さんを大事にしてあげてくださいって」
姉が息を呑んだ。私は目を逸らした。
「武ちゃん、武ちゃん」
姉が目に涙を滲ませ、私の肩を抱きすくめ……。
もう随分昔のことだ。姉はとうに嫁に行き、何人も子供がいる。私は再び、眠りに落ちていった。
はっ、と目が覚めた。辺りを見回す。肩に何か掛かっている。着物か。触れる。上等の絹の手触り。彩りも取り取りな紅葉を散らした裾模様。目にも綾な女物の着物を肩掛けがわりにされていたのだ。
「お前もよくよく悪戯が好きだな」
余程呆れた声音だったのだろう。くすくすと笑い声が響く。妻のものだ。
「だって、あんまりよく寝てるから」
着物をちょいと摘まむ。家庭持ちの男が羽織るものとして、似合いとはとても言えないだろう。
「虫干しをしてたんですよ。これ、お気に入りだったんだけど、私にはもう華やかすぎて」
「それで私に着せたかね」
「ええ、本当、よくお似合いで」
くすくす。妻はよく笑う女で、二人暮らしのこの家を随分明るくしてくれていた。
「竜田川なんですって、この川」
「百人一首になんだかあったな」
「竜田の川の錦なりけり、ね」
「誰だったか、詠んだのは」
「誰だったかしらねえ」
ふ、と妻は睫毛を伏せた。
「奈良なんて、一度行ってみたかったけど」
しばらくは無理かしらね。帯の辺りを押さえて言う。
「子供が大きくなったら行けばいい」
「そうね。秋がいいわね」
窓の外には、茶色い枯葉の地面が広がっている。竜田の錦とはいかないが。
「ところで、何を書いてらしたの?」
「名前を」
数枚の紙を取り上げる。
「男だったらこう、女だったらこう、と思って、考えていたんだが」
妻が弾けるように笑い出した。手を叩いて、目に涙を滲ませて笑う笑う。
「あなた、あなたったら、本当、ええ、ええ、そうね。考えておかなきゃね」
早すぎるわよ、全く。笑いが治まらぬまま、妻は一覧をじっと見つめていた。
もう随分昔のことだ。腹の子供は無事生まれ育ち、妻はそのしばらく後に流行り病であっさりと逝った。私は再び、眠りに落ちていった。
はっ、と目が覚めた。辺りを見回す。肩に何か掛かっている。着物か。触れる。上等の絹の手触り。彩りも取り取りな紅葉を散らした裾模様。目にも綾な女物の着物を肩掛けがわりにされていたのだ。
「お前は本当に、幾つだと思ってるんだ」
娘はぺろりと舌を出す。
「だって父さん、呼んでるのに起きないんだもん」
「それにしても、こんな悪戯があるか。なんでわざわざこんなもの取り出してきたんだ」
「だってこれ、私がもらったんだからいいでしょ。荷物に入れようと思って」
私は顔をしかめた。最近目が疲れやすい。頭痛もする。眼鏡を変えるべきだろうか。
「そんなもの持っていってどうするんだ。重いだけだろう」
「ステイ先の人がこっちの文化大好きなんだって。持っていったら喜ぶかなって」
「着付け出来たのか」
「出来ないけど、羽織るだけでもいいと思うの」
丸顔を綻ばせて、得意げに計画を述べたてる。
「好きにしなさい」
「やった!」
娘は私から着物を剥がすと、自分でもふわりと袖を通した。
「これ、素敵だよね」
「父さんの姉さんのだったのを、母さんが譲り受けたんだ」
「知ってる。これが一番お気に入りだから、持ってくことにしたんだ」
「お気に入りなら大事にしなさい」
「はあい」
着物を手に、去ろうとした娘は、しかし振り返った。
「ねえ。お父さん大丈夫? 私いなくなって大変じゃない?」
娘は来週から留学のために旅立つ。妻が居なくなって以来、家の用事を引き受けてきた娘だ。心配はもっともだろう。
「父さんだってたまに料理するだろう」
「そうじゃなくて、寂しくない? とか」
家に長く一人きりになるのは、そういえば久しぶりだったと気づいた。
「慣れるさ」
「大丈夫かなあ」
不安を押しとどめ、便箋を封筒に入れ、娘に手渡す。
「これを向こうのご家族に渡しなさい」
「何? これ」
「お世話になります、と一筆書いておいた。英語だから大変だったよ」
「やだあ、いらないよそんなの。こっちからももう手紙出したのに!」
娘が呆れた顔で言う。
もう随分昔のことだ。娘は留学先でさらに研究の道に進み、数年に一度しか帰国しない。私は再び、眠りに落ちていった。
はっ、と目が覚めた。辺りを見回す。肩に何か掛かっている。着物か。触れる。上等の絹の手触り。彩りも取り取りな紅葉を散らした裾模様。目にも綾な女物の着物を肩掛けがわりにされていたのだ。
私は欠伸をする。家の中は晩秋の空気に満たされ、しんと静かだ。白髪の混じった頭を掻く。そして、ふと気づく。
この家には、今自分以外誰もいない。では、この着物を掛けたのは一体誰なのか? いつだかの帰省時に娘が置いていった着物を?
戸締りを確認したが、どこもしっかりと閉まっている。侵入者ではあるまい。
着物を持ち上げる。三人の女に袖を通されたそれは、未だ美しい紅葉の錦を誇っていた。亡霊か、あるいは付喪神の類か、もしくは、それ以外の何らかの不思議か。どちらにせよ、悪戯が過ぎる相手であるようだった。
私は再度着物を羽織った。鏡の中の滑稽な老人が、笑い出した。




