帰郷
「なにニタニタしてるんだ、少年」
背後から突き刺さるような声に、セナの肩がびくりと跳ねた。
錆を含んだような独特の美声。その主を予想しながら、セナはゆっくりと振り返る。
「……アルカナか」
そこに立っていたのは、魔法使いアルカナだった。
栗色のガウンを夜風になびかせ、彼は当然のようにそこにいた。空間の歪みを強引にこじ開け、セナたちの足取りを追ってきたのだろう。アルカナが軽く持ち上げた左手の甲には、月光を反射して怪しく輝く、透き通ったレンズのような物体が埋め込まれている。
それはミッドガルドの最高学術機関『アカデミー』の一員であることの証、「賢者の石」だ。
魔力を増幅・安定させる補助器官であるが、魔術の深淵を知らぬセナやマコトにとっては、それはただの「不気味で美しい装飾」にしか見えていなかった。
「使い魔を数体放って周囲を索敵したが、このあたりのマナは酷く不安定だ」
アルカナは周囲の空間を忌々しげに一瞥した。
「異世界同士を強引に繋げた歪みが、世界の理を削り取っているらしい。……さて、マコトさんと言ったかな。こちら側へ来るというのなら、今この場で覚悟を決めろ。いいか、『チャンスの女神には前髪しかない』。通り過ぎた後に手を伸ばしても、その背中を掴むことは叶わんぞ」
アルカナの射抜くような視線がマコトに向けられる。
それは、平穏な日常を捨て、未知の混沌へと足を踏み入れる者への最後の警告だった。
「行く」
マコトの答えに迷いはなかった。
短く、しかし鋼のような硬さを持った言葉。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの強い意志が宿っている。
「……ふん、いいだろう。ようこそ、ミッドガルドへ」
アルカナの唇が、皮肉げに、あるいは歓迎するように僅かに歪んだ。
もし、この場にアルカナが現れなければ、セナたちは異世界への扉を前にして立ち往生していただろう。帰り道も、進むべき指標も持たないまま、次元の狭間で迷子になる未来しかなかったはずだ。
三人が立つ山中の開けた場所には、すでに精緻な「準備」が施されていた。
地面には古語や複雑な印形が刻まれ、魔方陣と絡み合う巨大な魔法円が描かれている。その溝には、月光を液体にしたような青白い燐光が脈動しており、まるで魔法円自体が意志を持って呼吸しているかのようだった。
「さあ、シャードを翳せ。マナの流れに乗って飛ぶぞ」
アルカナが懐から取り出したのは、琥珀色に輝く八面体の結晶――彼自身のシャードだ。
それに呼応するように、セナの持つ勾玉が、マコトが握りしめる宝玉が、それぞれの輝きを放ちながら天へと掲げられた。
その瞬間、大気が震えた。
世界が軋むような低い唸り声が足下から響き渡り、大気中に停滞していた魔力が一気に一箇所へと収束していく。
「掴まっていろ! 振り落とされるなよ!」
アルカナの叫びと共に、魔法円から白銀の光柱が爆発的に膨れ上がった。
夜の闇を塗りつぶし、視界のすべてを白一色の閃光が支配する。轟音、重力、そして意識を千切らんとする魔力の奔流。
三人の体は光の柱に飲み込まれ、境界線の向こう側――運命が渦巻く地、ミッドガルドへと射出された。
後に残されたのは、焼けた土の匂いと、静まり返った山中の夜霧だけだった。




