あらがい
「落とそう」
セナの言葉が空気に溶けるよりも早く、彼らの体は重力に抗い、垂直の空へと突き進んだ。
それは脱出という名の、あまりにも無謀な突撃だった。
背後に残した地上の喧騒が、遠ざかるにつれて風の咆哮にかき消されていく。上昇するにつれ、気温は急激に下がり、肺に吸い込む空気は刃のように鋭く喉を焼いた。だが、そんな身体的な苦痛など、頭上から降り注ぐ「それ」に比べれば無に等しかった。
視界を塞ぐのは、鋼鉄の城が空を飛んでいるかのような錯覚を抱かせる、イノピナートゥスの巨大な質量。軍事ブロックの無機質な輪郭を割り、不気味に蠢きながら現れたその巨影は、もはや一つの生命体というよりは「空そのものの拒絶」であった。
「……っ、空が、震えてる……」
マコトは、アルカナの腰に必死にしがみつきながら、上空の異変を肌で感じていた。高い高度のせいではない。イノピナートゥスが放つ圧倒的な存在感そのものが、周囲の空間を歪め、大気を絶望の色に染め上げているのだ。見上げる視界の端々で、光が屈折し、本来あるはずのない「奈落」の暗い色が混じり合っている。
ノエルの白い翼が、激しい向かい風に煽られて激しくしなる。
彼の耳には、先ほどから止まないシャードの共鳴音が、数千人の悲鳴を一つに束ねたような轟音となって響いていた。それは不安を煽り、精神を削り取る調べ。
(怖い……でも、止まれない!)
彼は奥歯を噛み締め、恐怖で強張る指先を強く握りしめた。隣を飛ぶセナの漆黒の翼が、迷いなく絶望の核心へと突き進む背中が見えたからだ。
セナの瞳は、一点を見据えていた。巨大すぎる敵に、弱点などという概念があるのかさえ分からない。しかし、彼が纏う空気は、獲物を狙う鷹のように鋭敏に研ぎ澄まされていた。漆黒の翼が羽ばたくたび、周囲の空気が爆ぜるような音を立てる。
彼は知っていた。ここで怯めば、自分たちだけでなく、下に残された仲間たちの命も、この「奈落」に飲み込まれてしまうことを。
「アルカナ、マコトを頼む! ノエル、俺から離れるな!」
叫び声さえも、巨影が発する威圧感に押し潰されそうになる。
アルカナは無言で頷き、ほうきを固く握り直した。彼女の瞳には、冷徹なまでの計算と、それを上回る静かな闘志が宿っている。木製のほうきが、急上昇の負荷でみしりと悲鳴を上げた。マコトは、彼女の背中越しに見える巨大な鉄の腹を見上げ、生きた心地がしなかった。
すぐそこまで、死が迫っている。
イノピナートゥスの表面から、逃走を阻むかのように何かが――それは生き物の蠢きのようでもあり、無機質な機械の咆哮のようでもあった――こちらへ向けて放たれる。
「来るぞ!」
セナの警告と同時に、戦場は完全に「地表」を切り離した。
目前に迫る、奈落の巨影。彼らの翼は、空を舞う自由の象徴ではなく、この絶望を撃ち落とすための唯一の武器へと変わる。
激突まで、あと数秒。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、時間の流れが極限まで引き伸ばされる。冷たい風の中、セナの漆黒とノエルの純白、そしてアルカナが駆る一筋の軌跡が、巨大な影に向かって真っ向から突き刺さっていった。
それは、小さな羽虫が大山に挑むような、あまりにも無謀で、けれど美しい抗いの始まりだった。




