逃亡への旅立ち
積層都市バルトロマイ。雲を突き抜けるほどに聳え立つその巨塔の内部、高級市民ブロックの一角に位置する「公認クエスター管理局」は、外界の喧騒とは無縁の静謐に包まれていた。通称「メイナード組控室」と呼ばれるその一室で、ノエル・アレナディオは、自らの意識の奥底に浮かび上がる光景を凝視していた。
「――アレナディオ再起動、シーケンスを確認」
脳裏に走る無機質なコマンド画面。網膜に焼き付く文字列は、彼が単なる人間ではなく、ロストテクノロジーの結晶である空中戦艦「アレナディオ」のコア・ユニットである。
そのアレナディオは、今まさに眠りから覚めようとしていた。
しかし、その覚醒にはあまりに巨大なコストが必要だった。再起動のためのブートエネルギーとして、莫大な外部マナを要求するのだ。
「……前のような騒動は、もう御免です」
ノエルは消え入りそうな声で呟いた。数日前、局所的なマナバランスの崩壊が引き起こした魔法災害――付近の遺跡で死体や岩石が意思を持ったかのように動き出した狂乱は、今も彼の心に重い影を落としている。
「近くに『シャード』があれば、マナを補正できるはずなんです。そうすれば、均衡を保ったまま、アレナディオを制御下に置ける……」
「なるほど、学術的にも理に適っていますね。ノエル君の予測に、僕が賢者として太鼓判を押しましょう」
自信に満ちた声を響かせたのは、青年アルカナだ。彼は知的な光を宿した瞳を細め、手元の古文書から顔を上げた。しかし、その温和な微笑の裏には、常に計算高い軍師の顔が隠れている。
「ですが、問題はそのアレナディオを『どこに置くか』です。……真帝国に引き渡すという選択肢が、最初から存在しないのは言うまでもありませんが」
アルカナはさらりと、その場に緊張を走らせる爆弾を放り込んだ。
「代償は出せませんが、我がアカデミーで保護・研究するという案はどうでしょう?」
彼は左手を力強く握りしめ、次の瞬間、マジックのようにパッと掌を開いて見せた。そこには、知識の守護者たるアカデミーの紋章――「天秤」の旗が握られていた。
「けっ、完全中立のアカデミー様かよ。笑わせんぜ」
鼻で笑ったのは、少年セナ・ジークフリートだ。忍装束をラフに着崩した彼は、椅子の背もたれに足をかけ、退屈そうにクナイを弄んでいる。その瞳には、組織に対する根深い不信感が宿っていた。
「そんなまどろっこしい真似するくらいなら、いっそどこかの反帝国勢力にでも売り飛ばして、今すぐ『戦艦』として実戦投入しちまおうぜ。その方が話が早い」
あまりに割り切りすぎたセナの提案に、部屋の空気が凍りつく。兵器としての価値。それがアレナディオという存在が背負わされた宿命であることを、誰もが理解していた。
「……眠ってて、欲しいんです」
沈黙を破ったのは、ノエルの切実な願いだった。戦うために生まれた遺物。その制御中枢を持つ少年は、これ以上の争いの火種になることを何よりも恐れていた。
その傍らで少女、小泉亮は、ただ黙って一同を見つめていた。帝国に渡すことだけは絶対にあり得ない。それは魂の底で理解している。しかし、その先に待ち受けるビジョンを、描き出すことはできなかった。
アルカナは、室内に漂う重苦しい沈黙を、深い溜息と共に受け止めた。
セナの案はあまりに角が立ち、帝国の追撃を加速させる。自分の案は、アカデミー内部の権力闘争という陰謀の苗床を作るだけだ。そしてノエルの案は、ただ結論を先送りにするだけの微かな祈りに過ぎない。
「……では、賢者らしい提案を一つしましょうか。アレナディオはこの地ミッドガルドにあれば、ただ乱を呼ぶだけの存在です。ですが、私が聞き及んでいる古の記録に、一つだけ希望があります」
一同の視線がアルカナに集まる。彼は芝居がかった仕草で言葉を継いだ。
「かつてヴァルキリーが運用した軍艦の中には、特定の英雄を守護する任を負ったものがあったといいます。それは、アルフ(妖精)と異世界人が協力して作り上げた奇跡の結晶。その英雄が故郷である異世界に帰還する際、軍艦は主を守るためにヴァルキリーと共に世界を越えて旅立った……」
アルカナの瞳に、冒険心に満ちた光が宿る。
「これを応用するのです。今回、アレナディオを異世界『ブルースフィア』へと送る。主となる英雄を、彼の地で守護させるために」
「異世界へ……? そんなことが、本当に……」
驚きに目を見開くノエルに、アルカナはいたずらっぽく微笑みむ。
「実はですね、密かにくすねておいたのですよ。これ――セナ、君が最初の任務で奪還するはずだった遺物です」
「てめぇ、それは……!」
セナが思わず腰を浮かせる。アルカナの言葉にあったのは、漆黒の輝きを放つ石剣。銘を『ニュクス』。世界と世界の境界を穿ち、繋げる力を持つ伝説の遺物だ。
「……できます」
ノエルが、決然とした表情で頷いた。
「アレナディオの基本任務を、特定個人の守護へと上書きすることは可能です」
そこまで言って、ノエルは少しだけ口籠った。
「ですが、個人認証のためには、守護対象となる『英雄』のシャードが必要です。遠隔での任務変更は受け付けられません」
「その件はあとで考えましょう。……さて、異世界に旅立つ『英雄』の役目ですが、私が立候補します」
アルカナは断言した。
セナは反帝国のエージェントとしてこの地に根があり、マコトはかつていたあちらの世界を忌み嫌っている。そしてノエルは軍艦そのものだ。
「ブルースフィアに行けるのは、私しかいない。理屈ですね」
アルカナが誇らしげに胸を張った、その時だった。
――乾いた銃声が、静寂を切り裂いて響き渡った。




