予期せぬ者来る
その日、積層都市バルトロマイの上空は、深い鉛色の雲に覆われていた。地表からは見えない高高度、分厚い雲の層が裂け、鋼鉄の巨影が姿を現す。それは、真帝国の武断性を象徴する天翔ける鋼鉄の火薬庫、ガルガンチュア級飛空戦艦三番艦、その名も**「イノピナートゥス」**であった。
「イノピナートゥス」。古語で「予期せぬ者」を意味するその艦名は、雲海を縫うように静かに、しかし圧倒的な質量を伴って滑り出す巨艦の威容に、一層の神秘性と恐怖を加味していた。艦腹にずらりと並んだ主砲群は、まるで黙示録の獣の鱗のように鈍く光り、艦首に刻まれた紋章──鋼鉄の歯車を背景に、雲から突き出る巨大な拳と「INOPINATUS」の文字──が、その無慈悲な存在感を誇示していた。シェフェルト・ヴェルクで建造されたこの最新鋭艦は、真帝国の技術の粋を集めた、まさに空の要塞と呼ぶに相応しい代物だった。
積層都市バルトロマイの最上層に位置する軍事ブロック。重厚なガラス窓の向こうに広がる、遥かな雲海と、そこに浮かぶ戦艦のシルエットを双眼鏡越しに眺めているのは、西部方面軍指揮官、ヘルムート・ゾンバルト中将であった。
彼の全身はだらしなく弛緩しきっており、制服のあちこちにはワインの染みらしきものが散見される。肩に輝く中将の階級章がなければ、とても軍の高官には見えないだろう。禿げ上がった頭頂部に、手入れを怠ったかのような太い鼻髭は、威厳という単語とこの男を分離させる印象しか与えない。ふっくらした顎が二重、三重に重なり、時折レンズの向こうで震える。
「ふん、無人戦艦か。そんなオモチャに何ができる?」
ゾンバルトは双眼鏡を粗雑に下ろし、忌々しげに呟いた。彼の言葉には、最新兵器に対する根強い不信感と、自身が培ってきた旧来の戦術への固執がにじみ出ていた。かつては前線で悪名を馳せた武人であったが、度重なる停滞と権力は、彼から悪運を奪い去り、今や思考停止した老廃物でしかなかった。彼は目の前の真新しい巨艦が、自分の築き上げてきた全てを無価値にするかのような脅威に感じていた。
「中将閣下、新部隊の編成会議にはお出になりませんか?」
控えていた副官の少佐が、抑揚のない声で尋ねた。彼もまた、ゾンバルトと同じように恰幅の良い体格をしていたが、制服はだらしなく、顔つきもどこか諦めたような諦観が漂っていた。命令ならば何でもこなすが、余計な口出しはしない。それが彼、ヨハン・ファウスト少佐の処世術だなどと、思う者はいない。彼の言葉は、形だけゾンバルトを会議へ促すものであり、本心ではこの場で無為に過ごすことを望んでいるかのように聞こえた。
ゾンバルトは視線をファウスト少佐に向けたが、その瞳には何の感情も宿っていなかった。
「必要ならオマエが出ろ」
そう言い放つと、彼は再び双眼鏡を手に取り、雲海の向こうに消えかかっていた「イノピナートゥス」の影を追い始めた。彼の脳裏には、過去の栄光と、それに比べて何と小さく、頼りなく見える今の自分の姿が交錯していたのかもしれない。あるいは、ただ単に面倒な会議を忌避しただけだったのかもしれない。
「御意のままに……」
ファウスト少佐は深々と頭を下げた。その行動は、長年の慣習が染み付いた、機械的なものであった。彼の目には、主の腐敗と、それによって蝕まれていく帝国の未来が映っていたのかもしれない。しかし、彼の立場では、ただ命令に従うことしかできない。
ヨハン・ファウスト少佐は、ゆっくりと踵を返し、会議室へと向かった。その背中は、忠実な従僕というよりも、むしろ悪意ある傍観者のそれであった。
彼の背後で、ゾンバルト中将は一人、空中を漂う巨大な鋼鉄の塊を見つめ続けていた。彼の心には、新しい時代の波への警戒か、それともただの嫉妬か、あるいは理解できないものへの拒絶か、複雑な感情が渦巻いていた。
「イノピナートゥス」。予期せぬ者は、ただその名が示す通り、誰の理解も超越して、真帝国の新たな戦場を切り開こうとしていた。しかし、その真価を理解しようとしない旧世代の将軍と、ただそれに従うしかない若き副官の存在は、真帝国が抱える矛盾と、やがて来るであろう激変の予兆を、静かに物語っていた。




