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タイトル未定2025/08/10 11:02

「美湖という名で呼んで」

世田谷区の桜上水にある日本大学文理学部の神話・民俗学科に入学した村上一樹は、夏休みを利用して祖母・村上義子を訪ねることにした。

彼女が住むのは富士山の裾野、山梨県忍野村おしのむらの忍野八海。その神秘的な湧水池のほとりにひっそりと佇む、小さな集落である。一樹は新幹線こだま号の座席に深く身を沈め、窓の外を流れる穏やかな風景をぼんやりと眺めながら、新富士駅までの約一時間という短い旅路に静かな期待を膨らませていた。

彼はふと、祖母・義子がかつて語ってくれた八つの池の物語を思い出していた。 富士の裾野にひっそりと佇むその池々には、古くから龍神が宿ると崇められてきた。

富士山の雪解け水は、幾層にも重なる漆黒の火山岩の隙間をゆるやかに伝い、長い歳月をかけてろ過され、やがて清冽な湧水となって地上へと姿を現す。その透明度は驚くほど高く、昼間には静謐で美しい表情を見せるが、黄昏が訪れると一変する。まるで異界への扉が開いたかのように、池は深く、底知れぬ不気味な闇を宿すのだという。

また、忍野八海は、古くから「怪異が宿る」と恐れられてきた青木ヶ原樹海にも程近い。これら二つの地は富士山を共通の水源とし、「死とみそぎ」、「呪術と幽霊伝承」、「擬死再生」といった霊的な概念が複雑に入り交じり、目に見えぬ世界への畏れを通じて深く結ばれているのである。

一樹は幼い頃から、静かな池や薄暗い森に漂う異界の気配を敏感に感じ取っていた。「無音」や「磁場の乱れ」、妖艶な揺らぎを秘めた土地の記憶を、いつか自らの小説に書き記そうと心に決めていた。

その刹那、東京駅十六番ホームに、まもなくこだま号が発車することを告げるアナウンスが響いた。奇妙でどこか冴えない旅行記をブログに書き続けている夫婦ブロガーの嶋国直美とその夫・湊は、巨大な迷路のように複雑に入り組んだ駅構内をさまよい、目指すホームへの入口を必死に探しながら、すでに途方に暮れていた。再びベルが鋭く鳴り響き、今にも列車が出発してしまうという緊迫感をいっそう煽り立てていた。

二人はようやくホームへ続く階段を見つけると、必死の形相で猛然と駆け出した。その背後では駅員が切迫した口調で、「お客様、駆け込み乗車は大変危険ですのでおやめください!ドアが閉まります。ご注意ください!」と叫んでいる。滑り込むようにして十号車の指定席にたどり着いた夫婦は、息を切らしながら席に身体を沈めた。 それは偶然にも一樹のすぐ近くだった。直美は興奮冷めやらぬ様子で夫の湊に向かって言った。「ねえ、龍神さまの写真をブログに載せたら、一瞬でネット界の注目の的よ!フォロワーが万単位、いえ百万単位にまで跳ね上がって、テレビ局が私たちを取材するためにきっと行列を作るわよ!」

その声を耳にした一樹は、心の中で深いため息をついた。せっかくの神秘的な旅の雰囲気が一気に壊れてしまったように感じ、諦めたように車窓の外へと視線を移した。

新幹線こだま号が新富士駅に滑るように停車した。一樹がホームに降り立つと、予想以上にひんやりとした空気が彼の頬を撫でた。一樹は、相変わらず騒がしい嶋国夫婦とともに新富士駅の改札を抜け、一日に三往復しかない河口湖駅行きのバスに乗り込んだ。

二時間ほどバスに揺られた後、河口湖駅でさらに「ふじっ湖号」の路線バスに乗り換え、忍野八海を目指した。わずか二十分ほどの短い道のりが、その日はなぜか妙に長く感じられた。

バスを降りると、八大龍神に関する案内板や石碑が静かに並んでいた。しかし、嶋国夫婦はその厳かな雰囲気に気づくことなく、はしゃぎながらスマホで自撮りに夢中になっている。一樹がその様子を苦笑いで眺めていると、不意に懐かしい声が聞こえた。「一樹、よく来てくりょう。」振り返ると、祖母・義子が穏やかに微笑んで立っていた。

祖母の家に着くと、義子は一樹の訪れを待ちわびていたかのように、ふんわりと湯気を立てる草餅と渋みのきいた緑茶を盆に載せて運んできてくれた。

「さあ、食べてくりょう。おまん、草餅好きじゃんねぇ。」 義子の優しい声に誘われるまま、一樹は懐かしい草餅を頬張った。口に広がる蓬の爽やかな香りと素朴な甘さが、旅の疲れを癒すようにじんわりと染みわたり、こくいれた緑茶とともに心地よく喉を通ってゆく。ひと息つくと、一樹はふと幼い頃のような無邪気な表情に戻り、好奇心に満ちた瞳で義子を見つめ、甘えるように言った。

「婆ちゃん、また龍神様の怖っかない昔話を聞かせておくれよ。」

義子は優しく目を細め、小さく頷いた。「ほうけぇ、とっておきの怖ぇ話をしてやるからな。」 そう言って、義子婆さんは声をひそめるように、ゆっくりと語り始めた。

「夜更けに池のふちを一人で歩いてみろし。池の底から低くて気味の悪ぃ囁き声が聞こえてきたり、水底みなぞこから何かが這い上がってくるような、物の怪の気配に出くわすっちゅう話が、昔しからあるずらよ。いつもは澄んで綺麗な水が、月明かりの下じゃ、時々ぞっとするほど黒ずんだ色に染まってな、闇ん中にひっそりとうごめく龍神さまの影を映し出すこともあるっちゅう……。村の年寄りたちゃ、今でもそんなんを語り継いどるだよ。」

「婆ちゃん、実は僕、八つの池を巡ってみたいんだ」 一樹がそう告げた、その時だった。玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開き、「義子婆ちゃん、回覧板を持ってきたから見てくりょう」と、若い女の子の明るい声が村上家の戸口に響いた。義子婆ちゃんと一樹が玄関に向かうと、そこには巫女装束を身にまとった、長く艶やかな黒髪の少女が佇んでいた。少女は興味深げな眼差しで、一樹の姿をじっと見つめていた。

「絵美さん、こりゃあ、うちの孫の一樹っちゅうだよ。東京から来とるだ。この子が八つの池を見てぇっちゅうから、悪ぃけんど、一樹を案内してくりょう?」 義子が優しく頼むと、絵美はにこやかに微笑んで答えた。「明日の朝っからでよけりゃ、八つの池を見て回ってやれるずらよ。」

少女の言葉を聞きながらも、ぼんやりとして返事をしない一樹の横腹を、義子婆ちゃんが軽く肘で小突いた。それを見た絵美は、クスッと微笑んだ。一樹は慌てて我に返り、「あ、よろしくお願いします」と照れくさそうに頭を下げた。絵美が回覧板を置いて立ち去ると、義子婆ちゃんはくすりと笑い、一樹の耳元でそっと囁いた。「あの子は龍堀絵美さんっちゅうだけんど、めちゃくちゃ可愛いらぁ?」

翌朝八時ちょうどに、龍堀絵美が軽快な登山服に身を包み、家の前に現れた。ひんやりとした朝の澄んだ空気が辺りを包み込み、どこからか小鳥のさえずりがかすかに響いている。絵美は一樹を伴って、八大龍神にまつわる解説板の前へと歩を進めると、指先で池が描かれた地図をゆっくりとなぞりながら、静かな声で語り始めた。

「最初に行くんは、一番霊場で有名な出口池ずら。次にゃ二番霊場の、八つの池ん中でいっちゃん小せぇお釜池。

それから昔、神さまの祟りがあったっちゅうおっかねぇ言い伝えがある三番霊場の底抜池さ行くじゃんね。そん次が、花嫁さんがかわいそうに身投げしたっちゅう四番霊場の銚子池だ。その後にゃ五番霊場の湧池、六番霊場の濁池を回って、村でよくねぇことが起きたときゃみそぎをやったっちゅう七番霊場の鏡池、それから八番霊場の菖蒲池を巡るだよ。そんで全部回り終わったら、最後にゃ人工で造った中池さ行くだよ。」

絵美の澄んだ声は朝霧のなかで透明感を増し、まるで聖域へと誘う巫女の祈りのような響きを帯びていた。彼女がふと振り返ると、そこにはいつの間にか嶋国直美と夫の湊が静かに佇んでおり、二人は黙ったまま解説板の地図にじっと目を落としていた。

絵美は一樹を連れて八大龍神の神聖な巡礼路を丁寧に案内し、やがて出口池へと辿り着いた。

出口池の広々とした水面は澄みきった静けさに満ち、周囲の豊かな緑や青空を鏡のように映し出している。鮮やかな木々に囲まれたその場所には、どこか隠れ家のような落ち着いた雰囲気が漂っていた。池のほとりには伝統的な瓦屋根を持つ木造建築がひっそりと佇み、丁寧に整えられた石畳の小道と美しい植栽が訪れる者を穏やかに導いていく。自然の美しさと繊細な人の手仕事が見事に調和したこの地には、奥ゆかしい気高さと、時を超えた深い安らぎが満ちていた。

出口池のほとり、深い森陰には、出口稲荷神社が隠れるようにひっそりと佇んでいる。伝承によれば、かつて三匹のいたずら好きな狐が村人たちを惑わせ、たびたび騒動を引き起こしていたという。だがいつしか狐たちは、恐れられる存在から村を守る神として迎えられるようになり、穏やかで慈悲深い守護霊へと姿を変えたのだと伝えられている。

嶋国直美と夫の湊は、ふたりから少し離れた場所でふと足を止めていた。「『三匹のいたずら好きな狐』って、絶対ブログに書くべきじゃない?伝説級のネタよ!」 直美は嬉々として満面の笑みを浮かべ、自分自身がまるでいたずら好きな狐にでもなったかのように、その瞳を生き生きと輝かせていた。

絵美と一樹が次のお釜池へ向かい始めると、嶋国夫婦はさっそく自撮りを始めた。直美はスマートフォンを構えて、「ご覧ください、この澄み渡った美しい水を。この池は古くから巡礼者が禊を行う聖なる場所として知られ、龍神が見守る門とも信じられているのです」と、まるでテレビレポーターのような調子で生中継を始めた。

「ねえ、一樹君。本当のことを言うとさ、この出口稲荷神社で宮司をやってるのは、うちの父の龍堀龍之介って人なんだよね。私はさ、本当は東京の大学に行きたかったんだけど、巫女をしてた母ちゃんが亡くなっちゃったもんだからさ。今はこうして私が代わりに巫女見習いをやってるってわけ……」 絵美の声には、かすかな寂しさと、隠し切れない切なさがほのかに漂っていた。

絵美と一樹は出口稲荷大明神を背に、池のほとりから北東へと穏やかな足取りで歩き始めた。忍野八海と山中湖を結ぶ村道に沿って進んでいくと、やがて豊かな緑に包まれた細道へと差しかかる。

柔らかな木漏れ日が小道に繊細な模様を描き、清流のせせらぎが心地よく耳を撫でてゆく。階段を少し下った先には、小さく円形を描く池が静かに姿を現した。水底に広がる神秘的な青色が鮮やかに瞳を捉える。出口池を後にしてから、ちょうど二十分ほどが過ぎていた。

「このお釜池は、深いコバルトブルーの水とひっそり小ぢんまりとした佇まいが、なんとも神秘的で、ちょびっと薄気味悪い印象を漂わせてるだよ。むかしゃ、この池の底からでっけぇ大ガマガエルが出てきてな、洗濯しちょった女の子を池ん中さ引きずり込んじまったって話ずら。その子の遺体はとうとう見つからなんで、後にゃ悲しげな言い伝えだけが残ってるのだとさ。」

嶋国夫婦は絵美と一樹の話を盗み聞きしていた。「ねぇ、ここ、本当に大ガマガエルが出たっていう伝説があるんだってさ! あんた、カエル捕まえて『至高の一枚』(つまり『大ガマガエルと仲良くピース』の自撮り)を手に入れてブログに載せようよ。フォロワーが一気に万単位で増えるかもよ?」

嶋国湊と直美は、さっそく靴とズボンを脱ぎ捨てると、カエルを探しに池の中へと入っていった。

それを見た絵美は、思わず目を丸くした。そしてついに一樹の堪忍袋の緒が切れた。「ちょっと、お二人さん!『池に入ったり泳いだりする行為は禁止されています』って、あそこに掲示板があるでしょう!」と彼は声を張り上げた。その言葉は、静かな水辺に鋭く響き渡った。

「もう、うるさいわねぇ。あんた、いいから早く池から出なさいよ。ほら見て、ちゃんと私が捕まえたんだから」と、直美は不機嫌そうに言いながら、得意げに手のひらを広げてみせた。それを見た湊はがっくり肩を落とし、悲しげなため息を漏らした。「直美ちゃん……それ、お玉杓子だよ」と力なくつぶやく彼の声が、静かな水辺に虚しく木霊こだました。

直美はそれを無視するかのように、すぐさまスマートフォンを構え直して中継を再開した。「ご覧ください! 私たちが池に入ったせいでしょうか、水底から泡が立ち昇ってきました。これは龍神さまがお怒りになった兆しかもしれません……ああ、なんて恐ろしい!」 彼女はまるで舞台の女優のように、大げさで芝居がかった口調で語っていた。だが、その言葉は決して単なる誇張こちょうではなかったのだ。

「東京の人間がみんなあんな感じだとは思わないでくださいね」と、一樹は絵美にそっと耳打ちした。絵美は小さく笑って頷き、「一樹くん、先に行くじゃんね」と優しく促した。

二人はお釜池を後にして、木立に囲まれた細い遊歩道を西へと向かった。清らかな川のせせらぎが優しく耳を包み、深緑の森を抜けると、やがて古風な日本家屋を改装した榛の「木林資料館」が姿を見せた。

その施設内の小道をさらに奥へと進むと、底抜池がひっそりと静かないきづかいを漂わせていた。この池もまた、お釜池に劣らぬほど深く神秘的な青色をたたえている。すぐ隣の「鯉の池」では、色鮮やかな鯉たちが生き生きと水面を彩りながら、優雅に泳いでいた。

「この池で物を落っことすとね、あっという間に渦ん中へ飲みこまれちまって、しばらくすると 『お釜池』 でぽかんと浮かび上がるっていう言い伝えがあるんですよ。村の衆はそれを神様からのいましめだと思って、ずっと大事にしてるんだよね」 と絵美は静かな口調で説明した。「まるで池を巡る双六(すごろく) みたいだね」と、一樹は面白そうに返した。

榛の木林資料館から先の小道、通るのにお金がかかるんだってさ」と湊がぼんやり呟くと、直美はすかさず声を張り上げた。 「あんた、ちゃんと今の話聞いていたの?底抜池の渦に飲まれたものは、お釜池に浮かび上がるっていうじゃない! 湊、あんた確か水泳部だったでしょ? さっさと池に飛び込んで、大ガマガエルでも捕まえてきなさいよ。このままじゃフォロワーが全然増えないじゃないの!」

直美は諦めずにスマートフォンを構え、中継を続ける。「底抜池で物が忽然と消える現象は、犠牲者の記憶が失われたり、なくした品物が水浸しのまま壊れて戻ってきたりするという、不気味な前兆のように私には思えてなりません……。湊さんの運命やいかに? 本当に大丈夫なのでしょうか?」 彼女は不安げな表情を浮かべ、芝居がかった口調で画面に語りかけた。

「あの人、なんてひどい奥さんなんだ……」一樹は呆れ果て、思わず心の中でつぶやいた。「旦那さん、本気で渦の中に飛び込む気じゃあるまいね?」 絵美は不安げに声を潜め、そっと言葉を漏らした。そのつぶやきは、静かな水辺に微かに揺れる、複雑な余韻を残した。

湊がズボンとシャツを脱ぎ、トランクス姿になっているのに気づいた一樹は、慌てて叫んだ。「旦那さん!そこで泳ぐのは危険ですよ!すぐにやめてください!」 しかし、 直美は両腕を広げ、湊と一樹、絵美の間を遮るように立ちはだかった。「あんた、何やってんの!早く飛び込みなさいよ!」と金切り声を張り上げた。

それを見た絵美は必死に声を震わせ、叫んだ。「行っちゃあ絶対駄目だよ!底抜池の渦に巻き込まれたら、すぐにはお釜池に浮かんで来られんのだよ!旦那さん、本当に溺れちまうよ!」

直美がふと振り返ると、夫の湊はすでに底抜池の渦の中へとその身を投じていた。地下を渦巻く激流に乗れば、底抜池からお釜池へ無事に辿り着ける——そんな無謀な考えに駆られた湊は、ためらうことなく池に飛び込んだのだった。その刹那、水面は奇妙なほどの静寂に包まれ、辺りは異様な沈黙の中に呑み込まれていった。

地上では、直美のライブ配信がとつじょ途切れ、視聴者たちには無機質な灰色の砂嵐がむなしく映し出されていた。

直美は不安といらだちを隠せず、「湊ちゃん!」と幾度となく夫の名を叫び続けた。ところがその間にも、底抜池の水面は徐々に不気味なかげりを帯び、かつての静かな青さを失ってよどみはじめていた。そして池の底からは、かすかな泡音とともに、何かをさざめくような低く禍々しい響きが、ひたひたと忍び寄るようにもれ出していた。

一方、渦に呑まれた嶋国湊のむくろには、姿なき幾十もの亡者の朽ち果てた手が、濡れた蔦のように足首に絡みついていた。抗うことすら許されぬまま、果ての知れない闇の奥底へとゆっくり、執拗に引きずり込まれてゆく。その暗黒の淵からは、悲痛な呻き声と呪詛めいた囁きが入り混じり、湊を静かに歓迎するかのように低く響き渡っていた。

彼の肌には、氷のように冷たい屍の指がまとわりついて離れない。底知れぬ暗黒の果てでは、池に沈められた者たちの記憶がひとつ残らず消し去られてしまう。忌まわしき始源の洞窟がぽっかりと口を開けて湊を待ち構え、腐臭を漂わせながら、新たな生け贄の到来を歓ぶかのように静かにうごめいていた。

事故の一部始終を目の当たりにした絵美と一樹は、恐怖に打ち震え足もおぼつかない直美の体を両側から支えながら、懸命に榛の木林資料館へと逃げ込んだ。資料館の受付に辿り着くと、絵美が声を震わせながら叫んだ。

「底抜池で、この人の旦那さんが池に落っこちて、渦に呑み込まれちまっただよ!交番と消防署、それに村長さんにも知らせてくりょう!忍野八海委員会にも、はよ連絡してくんなきゃ困るじゃん!」と絵美は叫んだ。

受付係の老婦人は一瞬にして真っ青になったが、無言のまま受話器を掴むと、震える指で次々と番号を押し始めた。館内には重苦しい沈黙が広がり、外では風が急にざわめきを増し、凶兆を告げるかのように木々を揺らし始めていた。

その日のうちに、木造のひんやりとした資料館には長机が慌ただしく並べられ、村の存亡をかけた緊急対策会議が間を置かずに開かれた。 消防署員、交番の巡査、村長の佐藤、そして忍野八海委員会の代表者たちが緊張した面持ちで一堂に顔を揃えたが、誰ひとりとして口を開こうとはしなかった。館内にはただ重苦しく異様な沈黙だけが満ち、迫り来る災厄への言い知れぬ不安が場を支配しているかのようだった。

やがて、重苦しい沈黙を破るように村長の佐藤が低くかすれた声で口火を切った。 「湖ん底へ吸い込まれちまったっちゅう話だがよ、救助隊が潜ったとしても、あそこの地形じゃあ戻って来れるかどうか分かんねえずら……これは、もうただの事故なんてもんじゃねえ。村そのものの命運がかかっとるんだ。」 

その言葉は、底抜池の暗く冷たい水底からじわりと滲み出すように会議室いっぱいに広がり、集まった人々の顔には、抗いようのない深い恐れと動揺が色濃く刻まれていった。

「地形っちゅうより、『呪い』の問題かもしれんじゃんねえか。底抜池たぁな、龍神さまの怒りが封じられとる場所ずらよ。うっかり触っちまったら、祟りを受けるっちゅうじゃないか……」 委員会の古老が眉をひそめ、声を震わせながら囁くと、その言葉によって場の空気はさらに重苦しく淀み、どこからともなく冷ややかな風が背筋をなぞるように吹き抜けていった。

本来ならば、誰かが池に飛び込むなどということは、決してあってはならなかった。

術式に強い関心を抱いていた村長・佐藤は、出口稲荷神社の宮司である龍堀龍之介に依頼し、とばりを張らせていた――嶋国夫婦のような、部外の人間が池の領域へと踏み入らぬようにするためである。

だが、今回ばかりは様子が違っていた。

何者かが密かに領域を展開し、張られていた帳を内側から破壊した形跡があったのだ。まるで、池そのものが意志を持ち、自らの封印を解き放ったかのように――。

救助活動を巡って議論が交わされるなか、村長の佐藤は深いため息を漏らしながら、重苦しい口調で話を切り出した。「やるんなら今夜しかねえと思うじゃんね。満月の晩だけはな、池の水がちっとばかし下がるだよ……だけんどよ、そういう晩に声ぇかけると、『戻ってくる』っちゅう人もおりゃあ、『戻っちゃこねえ』っちゅう人もおるっちゅう話ずらよ」。

「村長、俺ら消防団だってよ、満月の晩に底抜池へ潜るなんちゅうこたぁ、とてもできる話じゃねぇずらよ。」 消防団長の声は明らかに困惑していた。

「夜は危険だ」と直感が脳裏で囁く。「しょせん、奴らはよそ者ずら……」――その身勝手な思いが、じわじわと空気を濁らせ、得体の知れぬ恐怖と焦燥を周囲に這わせていく。揺らめく灯りが壁に異様な影を落とし、その輪郭はやがて、池の闇に沈みもがく湊の姿を、まるで生きた幻影のように浮かび上がらせていた。

その頃、資料館の別室――。

腹話術人形のように無理やり椅子に据えられた嶋国直美は、喉の奥で低く不気味な笑い声を洩らしたかと思うと、次の瞬間には裂けるような悲鳴を上げ、子どものように泣きじゃくった。

その眼は左右の焦点を失い、生気のない虚ろで奇怪な光をたたえている。

もはや彼女の精神は限界を越え、生気を喰い尽くされた器だけが、そこにとどまっていた。――どうやら、何者かが呪詞の術式を用い、直美を生きた操り人形として弄んでいたらしい。「……うちの人が、あの池に飲まれてしまって……聞こえてくるのよ……あの人が、私を呼んでるのを……。ねえ、私も……行かなきゃ……!」

直美の異常な様子を案じた受付係の老婦人は、急ぎ医師へ連絡を取った。その結果、直美は山間にひっそりと佇む小さな診療所へ一時的に入院することになった。しかし、その夜遅く、静まり返った診療所の一室では、彼女の枕元で、まるで底抜池から湧き上がってきたかのような不吉な水音にも似た囁きが、途切れることなく響き続けていた──。

底抜池で湊が姿を消した翌朝、忍野村の裏通りは、不吉な噂とざわめきに重苦しく包まれていた。榛の木林資料館からの緊急連絡、騒然と行き交う消防団員たち、錯乱して入院した直美の異常な様子――。村人たちはあちこちの井戸端や薄暗い商店の裏手に集まり、ひそひそと囁くように、不安げな声を交わしていた。

「あれは……祟りじゃねえかよ。忍野八海の池のひとつに、“無礼者”が入り込んじまっただよ……」。「よそ者の若い衆が、わけも知らずに池へ飛び込んだっちゅう話ずら。ありゃあ、『底』の封印が解けた証じゃんねぇか……」。

「戻っちゃこん方がええずらよ……龍神さまの怒りを買っちまったにちげぇねえからな……」。

村人たちの囁きは徐々に尾ひれを帯び、やがて抗いがたい不吉な力となって、底知れぬ闇のように村全体を呑み込み始めていた。

昼を少し過ぎた頃、古びた集会所には長老たちと村の若い衆が、申し合わせたように自然と集まっていた。床板は軋んだ音を立て、隅に置かれた古い柱時計が、不吉な時を刻むように重々しく響いている。その重苦しい静寂を破って、一人の老婆がぽつりと呟いた。しかし、それは祈祷師・烏羽椿が老婆に化け、村人たちを妖しく扇動せんとする姿であった。

「……昔はな、こがぁな時にゃ、“名を返す”ちゅう儀式をしたもんじゃよ……」

その言葉が胸奥に沈んだ瞬間、室内の空気は鋭く凍りついた。張り詰めた沈黙を裂くように、別の長老が恐る恐る口を開く。

「“名を返す”……ちゅうことは……やっぱり、人柱を捧げて――湖に呑まれた者の魂を呼び戻す、あの忌まわしい儀式のことか……?」

老婆に扮した烏羽椿の声は、耳に触れた瞬間、呪いのように心の奥底へ染み込み、聞いた者の意思を絡め取った。 抗うことは誰一人としてできない。その刹那、居合わせた村人たちの間に、不安げなざわめきが波紋のように広がる。疑念と動揺に満ちた視線が交錯し、薄暗い集会所の隅には、姿なき祈祷師の不吉な囁きが染み込んでいるかのようで、誰もが息をひそめてその場に縫いつけられた。

「龍神さまはな……“境”を破った者に、ひどくお怒りなのじゃ。

ならば、その“境を踏み越えてしもうた者ら”を――生贄として捧ぐるが、道理というものではなかろうか……?」

「――あの者らが、自ら池を穢したのじゃよ。

されば、龍神さまの御怒りも……その者らを以て捧げれば……いくばくか鎮まるやもしれん……じゃんねぇ……」

老婆に化けた烏羽椿の囁きは、呪を帯びた黒煙のように低く、湿り気をはらみながら、集会所の薄闇うすやみをじわじわとむしばんでいった。

その禍々しき声の余韻よいんは、そこに居合わせた者たちの胸の奥底にまで染み入り、まるで抗う術もない呪縛のように、じっとりと心を締め上げてゆく。

やがて、場には再び、呪いの連鎖が甦ることへの怯えが、重く湿った沈黙となって垂れ込めた。

誰一人として、椿の口にしたその忌まわしき“提案”を、正面から否と断じるだけの意志を持ち得なかった。

だが――彼女がぽつりと、「仕方のねぇことだ……」と呟いた、その刹那。その言葉はもはや単なる一つの意見ではなくなった。

それは、いつの世からともなく繰り返されてきた“掟”のごとく、不吉な“慣わし”の仮面をかぶり、誰一人として逆らえぬまま、人々の心にまとわりついていった。

集会所の最後列――身を潜めていた巫女見習い・絵美は、耳に届いた言葉のあまりの理不尽さに、怒りと恐怖を同時に燃え上がらせ、全身を震わせていた。

だが、その瞳はもはや怯えの色を欠き、決して揺らがぬ意志の炎を宿したまま、老婆に化けた祈祷師・烏羽椿を真っ直ぐに睨み据えると、静けさの底に烈しき刃を秘めていた。

「……おらが、行くずら。龍神さまの御怒りは、あたしが鎮める。

嶋国湊さんを……なんとしてでも、呼び戻してみせるじゃんねぇ。」

その瞬間、空気が張り詰め、まるで目に見えぬ結界が場を包み込んだ。椿の呪詞は、本来ならば言霊として霧のように人々の心に染み入り、理性を奪い、魂を呪縛してゆく――そんな、底知れぬ力を孕んだものであった。

だが、絵美の口から放たれた「言挙げ」は、まるで澄んだ水に満ちた御神体のような静謐さと清らかさを宿し、その場に漂っていた呪の瘴気を正面から受け止め、霧を祓う風のように打ち返した。

巫女としての誓いと覚悟に満ちたその声に、椿の呪いは一歩たりとも届かない。

呪は呪へと還り、音もなく、氷の刃となって――いま、術者たる椿の呪詛の影すら寄せつけぬ。隣に立つ一樹は、絵美の揺るぎなき決意に言葉を失いながらも、椿の口元に浮かんだ不気味な笑みに背筋を凍らせた。

そして、震える声でようやく口を開く。

「……行っちゃダメだ。でも……どうしても行くっていうなら、僕も一緒に行くよ。一人じゃ、駄目だ。」

その瞬間、ふたりの決意が、場に満ちる気配を変えた。居合わせた村人たちは、張りつめた沈黙のなかで息を呑み、誰一人として動けなかった。静寂はまるで呪の残響のように重く、冷たく――その場にいた全員が、ただひたすらに、湖底深く眠る龍神の怒りの気配に想いを馳せ、身をすくませていた。

「そんであんたたちみんな……また誰かを生贄にするつもりなのけ!?そんなことで、あの龍神さまの怒りが鎮まるとでも思ってるのだか!?龍神さまは、そがぁな血なんぞ求めちゃいないじゃんねぇ!」 絵美の悲痛な叫びが、薄暗く沈んだ集会所の壁に虚しく響き渡った。その声が静寂の中に溶け込む間もなく、部屋の隅から誰かが低く押し殺した声で応じた。

「……若ぇ巫女が、いったい何を知っとるっちゅうだ。これはな、『そういうもん』なんじゃよ。昔っからそうやって、この村は守られてきたんずら……」

重々しく諭すように口を開いたのは、出口稲荷神社の宮司であり、絵美の父でもある龍堀龍之介であった。彼は薄闇に潜む祈祷師・烏羽椿の禍々しい気配を鋭く察知していた。だからこそ、決して抗えぬいげんをその声音に滲ませながらも、娘を待ち受ける危険から守ろうと、あえて冷たく突き放すように言い放ったのだった。

「ちっ……龍之介けぇ……」

烏羽椿は低く舌打ちし、誰にも気取られることなく、その場からすぅっと闇へ溶け込むように姿を消した。

その消え際、湿った吐息のような声が、場の空気をなぶるように響く。

「忌々しきこと……胸に、刻んでおけ……」。

その夜遅く、龍堀龍之介は出口稲荷神社の奥で、長年使われることなく封じられていた古い供物台を静かに引き出し、慎重な手つきで祭具を点検し始めていた。

誰も口には出さなかったが、村全体を覆い始めた陰鬱な瘴気は、まるで逃れようのない呪われた宿命に操られるかのように、一つの不吉な結末へとじわじわ傾いていくのだった──。 父の手伝いをしていた絵美が、「父ちゃん、あの婆さんはいったい誰だったんけ?」と尋ねると、龍之介は静かな声で言った。「ありゃあ、悪霊が化けたようなもんずら。危ねぇから、ぜってぇ近寄っちゃなんねぇぞ。」

呪の声が囁く夜、病室でふと目を覚ました嶋国直美は、どこか遠い闇の底から自分の名がひそやかに囁かれていることに、まだ気づいてはいなかった。

「あのね……私と夫の湊、この村で『本物の女の幽霊』を見ちゃったのよ……あれは、人なんかじゃなかったわ……」 直美は血の気の引いた蒼白な顔で、震えるように掠れた声を絞り出し、そばにいた看護婦にそう打ち明けた。

それはすなわち、烏羽椿の術式によって魔封が綻び、封じられていた禍つまがつひのざわめきが、この世に滲み出し始めた証であった。災いは、すでに呼び起こされている。伏せられし魔は、今まさにその眠りから目覚めようとしていた。

直美はさらに、奇妙で恐ろしい夢のことを、看護婦に語り始めた。「霧に包まれた薄暗い湖畔でね、私ひとりだけがぽつんと立ち尽くしていたのよ。辺りの景色は霧に飲まれてすっかり輪郭を失っていて、『これは……間違いなく最悪の夢だわ……』って、本能的に思ったのよ。逃げ出そうにも足は動かなくて、叫ぼうにも声も出ないの。ただひたすら、あの冷たい霧に身体ごと飲み込まれていくような気がして……」

その時、彼女は周囲に彷徨う魂の気配をはっきりと感じ取り、逃れようのない不安に駆られながらも、恐る恐るほのかな波紋をたたえる湖面を覗き込んだ。

そこには自分自身の顔だけではなく、もう一つ、見知らぬ誰かの顔がぼんやりと映り込んでいた。濡れそぼった長い黒髪が顔を覆い隠し、その奥で、瞳だけが異様なほど白く冷たい光を放っている。その姿は間違いなく、あの時、直美が確かに目にした謎めいた女の幽霊のものだった——。

ねぇ……あなたの名前を、私に譲ってくれない……?」 実体は見えない。だがそれは確かな震えを伴い、奇妙に親しげでありながら、背筋が凍るほど優しい声音で囁かれた。「……ふふ、まあ、嫌よね。でも……くれないって言うんなら、勝手にもらっちゃうわよ……?」 甘くおぞましいその囁きは、湖底から湧き上がるかのような不吉な水音と絡み合い、執拗に直美の耳元にまとわりついて離れなかった──。

直美には、それがまるで異界との境界であり、何らかの霊的存在への忌まわしい信仰と結びついているように思えてならなかった。傍らで話を聞いていた看護婦は、「霧っちゅうもんはね、昔っからこの村じゃあ、音をおかしくさせちまう錯覚を起こすといわれとるだよ」 と穏やかな口調で諭しつつも、彼女は直美がすでに深い妄執と恐怖に囚われているのだろうと、内心密かに哀れんでいた。

同じ夜、出口稲荷神社の拝殿では、灯りも乏しい薄闇のなかで、絵美が父・龍之介を静かに手伝っていた。古びた供物台を慎重に点検する父の横顔をそっと見つめながら、絵美は、あの悪霊が化けた老婆の禍々しい姿と直美のことを頭から拭い去れずにいた。

その頃、一樹は風さえ息を潜める真っ暗な出口池のほとりに、じっと立ち尽くしていた。「決して一人では行かない」——そう絵美と交わしたささやかな約束を胸に深く刻みつけ、念のためにと見張っていたのだ。

だが、夜の闇はもののけの気配を次第に濃く纏わせていく。ひとまず今夜は何事もないだろうと判断し、一樹は祖母・義子の家へと戻った。そして義子のもとに着くと、その日巻き起こった忌まわしい騒動の一部始終を、静かな声で祖母に打ち明け始めたのだった。

「そりゃあ、えれぇこっちゃになったじゃんねぇ……」 義子は眉をひそめ、不安げにぽつりと呟いた。一樹は少し間を置き、さらに声を潜めて続けた。「婆ちゃん、集会所ににね、不気味な老女が来ていて、心ないことばっかり言っていたんだ。絵美さんが龍神さまのお怒りを鎮めるって申し出たら、宮司のお父さんの龍之介さんが 『そんなん許せるか!』って、えらく怒り出したんだよ……」

一樹の言葉を聞いた義子は、小さくため息を漏らすと、孫の顔をじっと見つめて言った。「一樹はなぁ……まだ絵美ちゃんのこと、よぉ知らんからねぇ……」 どこか不吉な響きを秘めたその口調に、一樹の背筋はぞっと冷たくなり、肌の下を這い回るような寒気を感じていた。

「絵美が生まれてから一年ばか経った頃ずら、巫女だった母ちゃんのヒカルは男ん子ぉ身ごもっただと。宮司やってる龍之介さんは跡取りができるっちゅうて、そりゃもう、えれぇ喜んだだ。

でもなぁ、ヒカルさんはその子を流産しちもうて、そん影響で身体ばひどく悪くしちまっただ。その頃の日本、特にこの村じゃあ、「水ん子が漂うちゅう祟り」みてぇなもんが広まって、人ん衆は業の報いを恐れておっただ。子を 「返す」とか「戻す」とか「流す」とか「下ろす」っちゅう、心ねぇ言葉がよう言われるもんで、そん言葉がヒカルさんの心ぉえれぇ傷つけちもうてなぁ、とうとう身体が弱って亡くなっちまっただ。

それっからずっと絵美は、亡くなった母ちゃんに代わって巫女さんとして立って、父ちゃんの龍之介さんのことをずっと支えてきただよ。」 「婆ちゃん、絵美さんの家族には、そんな辛い出来事があったんだね」 と一樹は静かな口調で呟いた。

「絵美、よぉ見とくじゃんねぇ」と龍之介が静かに言った。出口稲荷神社の宮司である龍堀龍之介が丁寧に点検していた供物台は、古来より神聖なる泉池への崇敬の念を込め、富士講や修験道の祭祀さいしの折に、供物をうやうやしく献供けんくするために使われてきたものである。この供物台を設置する習わしは、遠く江戸の昔より途切れることなくこの村に受け継がれており、とりわけ数年に一度行われる村の御開帳や龍神への特別な祭典などでは、いっそう大きく格式高い高月台が用いられるのが習わしであった。

湊が無謀にも底抜池へと身を投じた、その刹那――異様な静寂が辺り一帯を重く覆い尽くした。渦巻く水が自分を導き、必ずやお釜池へと無事に辿り着けると信じていたが、現実はあまりにも無慈悲だった。

冷たく淀んだ水は容赦なく彼の身体を引きずり込み、生者の目には映らぬ“何か”が蠢く、霊の通り道と化した池の深穴へと誘っていく。

そして――漆黒の深みが、その身を静かに、しかし確実に呑み尽くし、彼の姿は音もなく霧散(むさん)した。

忍野八海の底深くには、太古より漆黒の闇が支配する洞穴が、幾重にも折り重なるようにして広がっていた。それはまるで、帰路なき迷宮のように絡み合い、訪れた者の方向感覚と理性を容赦なく奪っていく。

洞穴の入口には、肌を裂くような冷気が漂い、生きた者が足を踏み入れた刹那、その体温は静かに、しかし確実に奪い去られる。奥へ進むほど、真っ暗な通路ではただ、忌まわしい水音が岩床を叩く規則的な響きだけが続き、まるで洞穴そのものが、呪われた呼吸をしているかのようだった。

そして、深淵の闇の中を這うたびに、姿なき死者の気配が背筋を忍び這い上がり、触れられぬ“何か”がすぐ傍らをかすめていく感覚に、思わず息を呑む。

やがてこの不吉なる地下の通路は、隣接する青木ヶ原樹海の奥底へと繋がっていく──そこは、永遠に出口を奪われた魂たちが、呪詛の洪水と化して彷徨い続ける、底知れぬ闇の巣窟(そうくつ)。その地にて、樹海全体が次第に、呻き声のような低音を帯び始めた。まるで、地そのものが目覚め、何かを喉奥で蠢かせているかのように。


そして、その闇の彼方からは、呪歌とも断末魔ともつかぬ、不気味な音が微かに響いてきた──。やがて水面に湊の顔が浮かび上がった瞬間、彼は激しく咳き込み、荒い呼吸とともに痙攣けいれんするように水を吐き出した。霊障に侵されたのか、全身が冷え切り、目は見開かれたまま虚ろに揺れていた。

だが、そこに広がっていたのは、彼が信じて疑わなかった穏やかに青く輝くお釜池ではなかった。薄闇の中、ぼんやりと青白く発光する藻が壁面にゆらめき、そこは一切のぬくもりを拒むように冷え切った、静謐なる地下の洞窟だった。

呆然と視線をさまよわせる湊の前には、樹木の根が幾重にも絡み合い、不気味に蠢く森のような通路が、ぽっかりと口を開けていた。

そこは、かつて「姥捨て」の伝承が囁かれ、自死者の怨霊が澱のように溜まるとされる洞穴──まるで意思を持つかのように、密やかに樹海の深奥へと続いていた。

「……お前の名は?」

突如、樹海の闇の奥から、骨の髄まで冷やすような声が響き渡る。 その瞬間、湊の全身が凍りついたかのように動きを止めた。

気づけば彼の目の前には、いつの間に現れたのか、一切の物音もなく立つ一人の女。それは、あの怪しげな祈祷師──烏羽椿であった。椿の瞳は妖しく輝き、唇には冷たい笑みが浮かぶ。そしてその囁きは、破道・鬼道の術式を孕んでいた。それは、湊の魂をじわじわと深淵の闇へと絡め取り、引きずり込もうとする呪詛の声であった。

「お願いだ、直美……助けてくれ……!」. 必死の叫びを上げる嶋国湊。しかしその声は、まるで断ち切られた祈りの残響のように、霊域の淀んだ空間に呑み込まれ、跡形もなく掻き消えた。

言葉は音として結ばれることすら許されず、呪われた洞窟の闇に溶けていき、叫びの“意味”すらも奪われていった。その声が、外の世界へ届くことは永遠にない――. 「お前の声は、もう誰の耳にも届かないよ」

椿は静かに微笑みながらそう囁いた。その笑みには、温もりも慈しみも一切なく、ただ底冷えするような確信だけが滲んでいた。湊はその言葉に怒りと恐怖をないまぜにしながら、残された力を振り絞って叫ぶ。 「あんたは……一体何なんだ!直美に……直美に何をした!」

冥土の土産に、教えてやろうかね……」 椿は唇の端を吊り上げ、ぞっとするような笑みを浮かべた。「この私の名は――烏羽椿うば・つばき

かつて龍神を封じた禁呪《無量空処》を操り、“水に名を落とす”という禁忌の呪法を継ぐ、呪われし鬼道の一族の末裔さ。龍神の祟りも、私の手にかかれば意のままよ……」 彼女の声は、洞の闇に滲むように低く、湿り気を帯びて響いた。まるで耳元に冷たい水が滴り落ちるかのように、湊の背筋を凍らせる。

「お前の女房には……龍神さまの“いけにえ”になってもらうよ」 椿の瞳が妖しく光り、その瞬間、空気が凍りついたように重く沈む。洞窟の奥で、水が静かにざわめいた――まるで、何かが目を覚ましたかのように。

「ちくしょう……!」

その声、悔恨と怒りを宿して放たれし怒声とて、椿の冷笑とともに黒き闇の淵へと呑まれ、もはや二度と響くことはなかった。

地の底――

湊はよろめきながら、暗く冷たい海底洞窟を、かすかな意識だけを頼りに、飛び込んできた底抜池の方角へと必死に進もうとしていた。

足元は泥のように重く、息をするたびに肺に冷たい水の気配が忍び込む。頼れるのは、岩の隙間から微かに滲む青白い光と、どこからともなく漂ってくる――誰かの名を囁くような、薄気味悪い声だけだった。

その声は、風のように柔らかく、しかし確実に湊の耳に絡みつき、心を侵していく。抗うことなどできなかった。まるで魂の奥底を手探りで引きずり出すように、囁きは湊を深く、さらに深く、闇の淵へと誘ってゆく。

そしてついに、湊の意識は崩れ、思考の境界は曖昧ににじみ始める。――錯乱。

それは単なる混乱ではなく、何か異質なものに内側から侵食されていく感覚だった。

「まだ……まだ助かるかもしれない……直美を助けなきゃ……」. 湊は絶望に苛まれながらも、ただひたすらに自分はまだ間に合うのだと――直美を救わねばならないのだと、心の中で何度も必死に言い聞かせていた。

だが、その刹那。 ずぶ濡れの地面が、まるで呻くようにぬらりと揺らぎ、腐り果てた無数の青白い腕が、泥の中から這い出した。冷たくぬめるその手は容赦なく湊の足首を掴み、地へ、闇へと引きずり込もうとする。

それは――

龍神の怒りによって、忍野八海の地下深くに封じられていた亡者たち。

飢えと怨嗟に歪んだ瞳が、まばゆいほどに妖しく輝き、長き沈黙の眠りから、ついに目を覚ましたのだ。

湊の悲痛な叫び声は、怒涛(どとう)のごとく押し寄せる死者の群れに容赦なく呑み込まれ、やがて、果てしなき闇の静寂の中へと溶けて消えていった。

「神聖なる水域を穢したる者……その身、永劫に地の底へと囚われるであろう──」

それは、龍神の声としか思えぬ不吉な囁きだった。

その言葉は、湊の意識の最も深く、魂の底へと何度も、何度も、黒い閃光のようにこだまし続けた。

そしてまもなく――

湊は、救いなき暗黒の淵で、静かにまぶたを閉じたのだった。

翌日の夜。

淡く冷たい月明かりが差し込む榛の木林資料館の広間には、消防署の職員、村役場の防災担当者、八海委員会の古老たち、学芸員、そして近隣県から駆けつけた民俗学者たちが、重苦しい沈黙に包まれたまま一堂に会していた。

その晩、村長の佐藤は突如として原因不明の体調不良に見舞われ、出席を断念せざるを得なかった。その知らせが届いたとき、言葉にならない不安が、広間を包むようにして滲み広がりはじめた――まるで見えぬ毒煙のように黒い霧の魔の手が、静かに息をするたびに心へ染み渡ってゆくかのように――。

忍野村の誰もが、薄々と感じていた。

見えざる“何か”が、すでに村の内側から静かに蝕み始めている――そのことを。

その不吉な予感は、もはや単なる勘や噂ではなかった。

理屈や証拠を超えた、骨の髄まで冷え込むような“確信”として、広間の空気に重く沈殿していた。

しかも――誰ひとり呼び寄せたわけでもない。それにもかかわらず、何処からともなく瘴気に導かれるように、突如として現れた招かれざる影。

その正体は、黒き祈祷衣を纏いし禍々しき女、烏羽椿にほかならなかった。

椿は、妖しき祈祷の衣――幽玄な千早ちひやをまとい、

手には、笹と榊、そして奇怪な紋様が刻まれた謎めいた棒を携えていた。

その異様な存在感は、ただならぬ気配となって場を包み、この夜の会合が、もはや村の危機などという次元を超え、人知の及ばぬ、禍々しき運命そのものに触れようとしていることを、否応なく告げているかのようであった。

広間の板張りの床には、色褪せた紙片――古文書や地図、そして八つの池とその地下構造を記した手書きの図面が、無造作に、まるでそこに何かが突如として撒き散らしたかのように乱雑に広げられていた。

湿り気を帯びた重い空気に(さら)され、和紙の端はわずかに波打ち、まるで見えざる気配に怯え、霊のようにひそやかに身をすくめているように見えた。その震えは、忍び寄る足音を感じ取った獣の本能にも似ていた。

円卓の中央には、底抜池から引きあげられたばかりの湊の衣服が、まだ水気を含んだまま、黙して置かれていた。

黒々と沈む布地からは、まるで水底に巣くう何かの名残が、じわじわと滲み出してくるかのような、禍々しき気配が漂っていた。

「嶋国湊氏がいまだご存命であるか否かは不明ですが、人命救助を最優先とする以上、明朝までには県のレスキュー隊へ速やかに出動要請を行う必要があるかと存じます」

――県庁より派遣された防災課の若い係長が、村長不在のまま、重苦しい沈黙を破るようにして口を開いた。張り詰めた声には、緊張と覚悟の色がにじんでいた。

そのひと言は、今宵の集まりがもはや単なる協議の場ではなく、村の命運をも左右しかねない、切迫した決断の時であることを、居合わせたすべての者に容赦なく突きつけていた。

「忍野八海の地下へと通じる洞窟が実在するという確たる記録は、これまで一切確認されておりません。あの話は、あくまでも俗に言う『伝説』の域を出ないものと考えるのが妥当かと存じます」――

民俗学者が懐疑(かいぎ)的な面持ちでそう言い放った瞬間、場の空気が一変した。集まった村の人々の間に静かなざわめきが広がり、誰もが口にしないまでも、 心の奥底に眠る祟の不安が再び目を覚ましたかのようだった。

その沈黙を破るように、八海委員会の古老が、低く唸るような声でゆっくりと口を開いた。「いやぁ、先生――『伝説』こそが、この土地の暮らしと人の心を、長い年月守ってきたもんじゃよ。

江戸の末期に書かれた『甲斐水紀』にも、しっかりと記されとる。“底抜池の渦は 『水竜道』と呼ばれる地底の流れへと通じており、かつては『鏡石』と呼ばれる封じの石によって、その禍々しき水の力を抑え込んでおった”――と、そういう話がな……」

古老の声は決して大きくはなかったが、その一語一語が、場の空気を深く揺さぶった。それは、学術的な理屈を超えて、この村に流れ続ける“目に見えぬ現実”の存在を、暗黙のうちに突きつけるものであった。

もはやこの会合は、過去の伝承をめぐる単なる討論の場ではなかった。

それは、村の命運と真正面から対峙する、避けがたい「決断の場」へと姿を変えつつあった。

古老の言葉は、静かに、しかし確かに広間を満たしていき、

その場にいるすべての者に、目には見えぬ何か重大な存在と向き合っているのだという現実を、改めて深く悟らせた。

「その『鏡石』を汚したんは、いったい誰ずらよ……。あんな湖ん中に潜るなんてぇこと、昔だったら間違いなく――死罪もんだったじゃんねぇ。

……『いけにえの儀式』ちゅうもんはな、遥か昔に、一度だけ執り行われたって記録が残っとるだけなんだよ。

その儀式で失われた『名』を、ふたたび呼び戻すためにはな――

その名を背負った者自身が、自ら深い水の底へと降りて行かにゃならんのだ……」

宗教者としてこの会議に出席していた、神主である父・龍堀龍之介が、静かに、しかし底知れぬ深みを湛えた声で口を開いた。

その響きは、まるで湖底の闇に封じられていた“何か”が、いま静かに這い上がってきたかのように重く沈み、発せられた言葉そのものが冷気を孕んで広間を満たし、 場にいた者すべての背筋をぞっと凍らせた。

その一言が、単なる意見ではなく、「儀式」や「祟り」といった次元に踏み込む、決定的な転換点となることを、誰もが無言のまま理解した。

「“神”を怒らせたのは――人間の傲り(おごり)に他なりません。しかしながら、龍神さまは決して憎悪ゆえに祟りを下すお方ではない。“名を返す”という儀式は、あくまでも断たれた縁を再び結び直すために存在するのです……」

その言葉が空気に溶け込んだ刹那、場に居合わせたすべての者が息を呑み、恐怖に絡めとられたように口を閉ざした。会議の場は目には見えぬ深い亀裂によって、無情にも鋭く引き裂かれた。科学か、信仰か。救助か、儀式か。底知れぬ闇に覆われたような、氷のごとき静寂のなかで、答えのない問いだけが、亡者の囁きのようにいつまでも漂い続けていた。

夜半――。

出口池の裏手には、出口稲荷大明神の宮司、龍堀龍之介のみが知る、ひっそりと佇む小さな祠があった。その奥には誰の足も踏み入れたことのない深い森に囲まれた禁域きんいきが広がり、苔むした濡れ石の階段が闇の深淵へと静かに続いていた。それはまるで地の底へと誘うかのように、湿った冷気をひそやかに吐き出している。

青木ヶ原樹海へとつながる洞窟の入口には、色褪せた注連縄しめなわが細く張られており、その中央では龍神の御名を刻んだ木札が朽ち果てかけたまま、かすかに揺れていた。風の音すら届かぬその場所には、時が凍りついたかのような異様な静けさと冷気が漂い、目に見えざる結界の気配が周囲を密やかに満たしていた――。

それは、何者たりとも決して侵してはならぬ、いにしえのまじないが、今なお息づき守り続けているかのようだった。

神道の自然崇拝を代々強く信奉してきた龍堀家には、古より『名返しの儀』と呼ばれる禍々しい儀式が伝えられていた――それは禊祓みそぎはらえに似て非なるもので、穢れを祓い、身と魂を清め尽くした者のみが、『水の結界』の向こう側へ足を踏み入れることを許される、禁忌中の禁忌であった。一方で、謎めいた祈祷師・烏羽椿の力の源泉は、邪馬台国にまで遡る鬼道を操った巫女王に由来し、死者の霊魂や異界の存在を自在に操る、個人の持つおぞましい呪術的権威の象徴でもあった。

神主である父・龍堀龍之介は無言のまま静かに歩み寄り、小さな祠のそばにある禁域きんいきで、絵美と一樹の額に白砂と清水をそっと塗り込めた。彼がその場に膝をついた刹那、湿った空気が重く澱み、目に見えぬ何かが辺りを覆い尽くした。やがて龍之介は、地の底より這い上がるような低く重々しい声で祝詞を唱え始める――。

「その名の持ち主を呼び戻し、命の縁を新たに結び直す――『名返し』の誓詞せいしを、今ここに慎み敬いて、捧げ奉る……」

その言葉が禁域に溶け込んでゆくと同時に、闇の奥から何者かが息を潜めて見守るような、不気味な静寂が辺りを支配していった。

その夜、冴え冴えとした満月が静かに空に満ち、うす青い光が地上を幽玄に濡らしていた――榛の木林資料館の裏手に、絵美と一樹は黙然と佇んでいた。

嶋国湊が底抜池へと身を投げてから、すでに四日が経っていた。救助が行われることはなかった。未だに自力で戻らないということは、生存の望みはほぼ絶たれているに違いない。たとえ水中の洞穴で溺れずに済んだとしても、青木ヶ原樹海から生きて戻ることなど到底ありえぬことだった。

村長が原因不明の奇病で急逝し、その遺体さえも忽然と姿を消した。今や、この村は異様なほど静まり返っていた。風はぴたりと止まり、虫の音ひとつ聞こえず、辺りには時間の流れさえも凍りついたかのような不吉な静寂が漂っていた。

ふと、傍らに置かれた古鏡に視線を落とした絵美は、そこに映る己の姿に言い知れぬ違和感を覚えた。「一樹、この鏡に映っとる私を見てくりょう」 髪から水が滴り落ち、衣もまた水を含んで濡れているように見えたが、一樹が指で触れてみると全て乾ききっており、湿った気配すらなかった。

だが、鏡の中に映し出されたその“絵美”の姿は、水底に沈んだ亡者のように虚ろな眼差しを湛え、黙然とこちらを凝視していた。「ちょっと怖いね、誰なんだろう」 と一樹が低く呟いた。その眼差しはよどみ、深淵の底を覗き込むように、名状しがたい何かを引き寄せているようだった。そのとき、神域の奥より、微かな声が幽かに響き渡った。「誰の声だろう!」

それは遠い過去から呼びかける呪詛にも似て、耳ではなく魂に直接届くような不気味な響きであった。絵美は「湊」と記された小さな紙片を胸元にしっかりと結びつけ、祈りを捧げるかのようにその手を固く握りしめた。一方、一樹は背に掛けた白布の護符を強く結び直し、足元から這い上がる冷気に思わず身を震わせていた。

その地には絶え間ない水音が満ち、冷たく湿った空気が靴底から肌を這い上がってきた。そして――灯りの届かぬ闇のさらに奥、湿った岩肌の裂け目には、死者のものと思われる長い黒髪と頭蓋骨が絡まり、ゆるやかに、だが確実に口を開けつつあった。それはあたかも呼吸するかのように、うめくように、生あるものの胎動めいた気配を帯びていた。

絵美と一樹は、まるで同じ悪夢に囚われたかのように、その異形のむくろが裂け目に引っかかり、まるで鯉のぼりのように水流に揺らめく様をじっと見つめていた。眼前に広がる光景が現実か幻か判別すらつかない。しかし、二人の胸に確かに去来するのは、名もなき古のものが目覚めるかのごとき、深くおぞましい息吹であった。

時を同じくして、村はずれのひと気のない診療所では――嶋国直美が点滴に繋がれたまま、ベッドの上でひとり眠れぬ夜を過ごしていた。部屋の中は、息苦しいほどの静けさがよどんでいた。ただ心電計の機械だけが、微かな命の残りを数えるように、鈍く不吉な響きが単調に刻み続けている。まるで恐ろしい何者かが迫り来る前兆のように、沈黙はじわじわと深まり、いんうつな 空気がじっとりと肌に纏わりついていた。

そのときだった。壁に掛けられた小さな鏡の表面に、ぽたり――と一滴の水が滲み出た。誰も触れていないはずの鏡の表面は、じわりと音もなく濡れ広がってゆく。まるで鏡の向こう側から、おぞましく得体の知れぬ何かが染み出してくるかのようだった。

「……なおみ……ちゃん……」

それは紛れもなく湊の声だった。低く湿ったその声が、鏡の奥深くから響いてきた。

その声に、直美ははっとして背筋に冷たいものが走った――これは「湊の名を落とせ」と訴えているのだ、と。一瞬、胸をよぎったのは恐怖であり、それと同時に、懐かしさにも似た名もなき感情だった。だがその刹那、足元の床にじわりと黒い水染みが広がり始めた。それはまるで怨念を宿した影のごとく、冷ややかに、音もなく広がっていった。

その頃、別の場所では絵美は慌てて、龍堀家に古くより伝わる禁書――『水紋封録すいもんふうろく』 をひも解いていた。そこには、このような文がしたためられていた。龍神の怒り、いただきに達するとき、巫女を器として“門”と現ずる。その器たる者、“烏羽”と呼ばれるなり。遠き昔、底抜池の封を破りし祈祷師あり――その者の名は椿。

烏羽椿――それは龍神を封じた封印を自ら破り、“水に名を落とす”という禁断の術を逆手に取り、祟りを呼び覚ました呪い師の末裔。その血筋に連なる忌まわしき存在であった。


そして今、直美の“名”はすでに水に溶け込み、流され失せていた。もはやこの世に戻ることをゆるされぬ名――それを失った者にはただ、龍神の影に囚われ消えゆく宿命のみが待ち受けていた。

いつしか、水の奥底から湿りを帯びた声が浮かび上がるように響いた。それは濡れた薄布を絞ったような、かすれて物悲しい、女の囁き声であった。直美のベッドの足元――その場では、床の木目から黒き水がじわじわとはいだし、不気味な染みとなって広がっていた。その水影は音もなく直美の影を侵食し、一つの奇怪な「かたち」を描きはじめていた。

窓の外には、雲ひとつない夜空に、異様なほど低く垂れ下がった満月が浮かんでいた。その青白き月光は、まるで底抜池の湖面のように不気味に揺らめき、病室の天井を這いずるように流れてゆく。そして、そのくらき光のもと――直美のひたいには、誰の目にも映るはずのない、水の“しるし”が、静かに浮かび上がりつつあった。

異変を察した当直の医師が、血相を変えて直美の病室へと駆け込んだとき、彼女はベッドの端に腰掛け、ぽつりと微笑んでいた。その眼差しは虚ろに揺れ、その唇はひどく静かに、しかし確かに、こう呟いた。「……あたしの“名”を、あの人が連れていったの……」

そして――その夜、診療所の鏡に映った“直美の顔”が、現実の彼女よりもほんの半拍遅れて、微笑んだという。

深夜、月が西の峰へと沈みゆく頃――診療所の裏口に、一人の女が姿を現した。黒ずんだ襤褸らんるの衣を身に纏い、蛇の目模様の風呂敷を背に負い、すすけた鈴を腰に吊るしたその女の姿は、“神の使い”を装っているかのようでありながら、その周囲を包む気配は、神聖と呼ぶには程遠く、むしろ人界と神域の狭間より這い出てきたかのような、不吉な異様さを漂わせていた。

看護婦に名を問われると、女はかすれた声で静かに告げた――「烏羽うばノ椿」と申す、と。その名は、かつて山陰の地にて秘祭の封祈ふうきを司り、封じ祈祷を生業としてきた一門の、忌まわしき残響を継ぐものであった。

誰ひとりとして、その女の姿を「人の世のもの」と断じることはできなかった。ただ、嵐の前を思わせる奇妙な凪ぎ(なぎ)が辺りを満たし、犬は鳴き止み、月さえもかげりを帯びていた。そして女が足を踏み出すたび、ぬかるんだ地を踏むような湿った水音だけが、不吉に辺りに響いていた。

「……あなたの“名”は、すでに半ば、あちら側へと渡っておりまする。されど、“さかい”はいまだ閉じ切ってはおりませぬ。わたくしであれば――取り戻せるやもしれませんよ。……あなたのご主人を」。

その囁きは、風の通わぬ病室の隅に、ひっそりと降り積もる霧のごとく広がった。初めこそ直美は怯えに満ちた眼差しでその異形の女を凝視していたが、やがてその瞳に宿る色は徐々に移ろい、祈る者のそれとなり、何かにすがりつく者のそれとなって、密やかにむしばまれていった。

やがて病室の灯りが落とされ、人工の光は退けられた。代わって、烏羽ノ椿が持ち込んだ幾つかの蝋燭に火が灯され、その炎はまるで息づくかのように揺らめいていた。椿はわずかに唇を開き、ほとんど風音と紛うほどの低さで、呪言を唱え始めた。

水盆の中――そこには、湊の名を記した紙片が一枚、浮かべられていた。火が触れたわけでもないのに、紙はじわじわと黒く滲み始め、やがて――まるで水に溶ける墨のように、形を崩し、沈みはじめた。椿は、指先を直美の額に添え、なぞるように、ゆっくりと文様を描いてゆく。それは“逆紋さかもん”とも見え、何かを封じ、また呼ぶための印のようでもあった。

「この儀は、“名”を渡すことで、“名”を引き戻す――ただし……あなたの奥深くに潜む“何か”を、こちら側に留め置くことが、ただ一つの条件にございます」

その瞬間であった。誰の手も触れていない鏡が、軋むような音を立てて微かに震え、病室の隅に置かれた花瓶が音もなく横倒しになった。

直美の首が小刻みに痙攣したかと思うと、その唇は明らかに「彼女ではない何者か」の抑揚で、異様な呟きを漏らし始めた――。その言葉は意味を結ばぬ断片となって空中を漂い、“名”の向こうに潜む、原初的な力の胎動を予感させるにすぎなかった。

「……みなお……もう……こっちへ来た……次は、あなた……」 その声は、確かに直美の唇より洩れたものであった。だが、発せられた語り口――その響きには、直美のものではない、別の“気”が宿っていた。まるで――湊、その人が、彼女の口を借りて語っているかのようであった。

それを聞いた椿の細き眼が、吊り上がり、口元に薄く笑みが浮かぶ。「……これで、よろしゅうございます。あなたは、もう半ば、“門”となった。さあ――あの底へ、導きに行きなされ」 そう呟いたかと思うと、椿は音もなくその場を離れ、影のように、診療所から姿を消した。

診療所の裏口から椿が出ると、そこには出口稲荷大明神の宮司・龍堀龍之介が険しい表情で立ちはだかっていた。

「おまんの縄張りは、青木ヶ原の樹海ずら。こっから先、忍野八海にちょっかい出すようだったら、このわしが結界張って、悪霊祓いしてくれるわ」 龍之介が鋭く告げると、椿は不敵な笑みを浮かべ、「ほうけぇ、年老いたおまんに、このわしが祓えるかねぇ?」と冷たく言い捨て、そのまま闇の中へと姿を消した。

夜が明けた。朝の光が差し込む頃、直美は目を開いたまま、まるで眠っているかのようにベッドに横たわっていた。看護師が静かに声をかけると、彼女はぎこちない微笑を浮かべて応じた。

しかしその笑みには、生きた人間のものとは明らかに異なる、血肉を持たぬ何かが人の表情を真似たような、奇妙な虚ろさが漂っていた。病室の鏡には、彼女の背後にもうひとつの「笑み」が――いまだに重なり合うようにして、不吉に浮かび上がっていた。

湊を真に救うためには、「名返しの儀」を完遂せねばならなかった。

だがそれは、直美の内に巣くう“湊の影”を無理やり引き剥がし、水底の闇へと落とされた“名”を奪還するという、極めて危険で禍々しい試みでもあった。

絵美は覚悟を固め、一樹とともに底抜池へと向かった。

その夜、欠けゆく満月が水面に溶け込み、天と地の境界が曖昧に揺らぎはじめた頃――かつて椿が操った呪詛の残響が、囁くように湖面を漂い始めた。

「……名を……呼んで……沈めて……ひとりにして……」

絵美は白紙に湊の名を書き記し、震える指先でそれを一樹と共に水面へと差し伸べた。

その瞬間――湖面に陰翳いんえいが走った。

湖底から這い出てくる何かの気配を宿して、水が密やかにざわめきはじめた。絵美の脳裏には、本来知るはずもない景色が、次々と押し寄せてくる。「……誰……私は……誰のために、これを……?」 水の陰りが呼び覚ましたのは、封印されていたはずの記憶。

それは龍神との忌まわしい血の契り、そして己の“名”を供物として水底に捧げ続けてきた巫女たちの、哀れな運命の記憶だった。

名を返さぬ限り、“影”は永久に彷徨う。直美に宿る湊の声とは、“水に名を落とされた者”の残影――すなわち実体なきまま形を得た「影身えいしん」であった。その“影”こそが、椿が龍神より賜った呪詛を運ぶ媒介者にほかならなかった。

絵美は一樹の隣で祓詞を唱えながら、水に差し出した紙を――今度は逆に水中から引き上げた。紙はすでに破れかけていたが、湊の名の一部は辛うじて残っていた。

「……湊……あなたの“名”は……私が返す……水底より、こちらへ……!」その瞬間。病院から姿を消していた直美の身体が、突如として激しくけいれんしていた。

村中を浮遊霊のごとく徘徊する直美の皮膚に刻まれた椿の“逆紋”が、まるで焼け落ちるかのように崩れ、ぼろぼろと剥がれ落ちてゆく。直美の瞳からは、ぽろり――と涙が零れ、それに伴うように一筋の黒い水が頬を伝った。

その頃、底抜池の水面には一陣の風もなく、深い静寂が戻っていた。

淡く白んだ月の欠片かけらは徐々にその輝きを取り戻しつつあった――まるで、封じられていた“名”が、絵美と一樹の力によってついに還るべき場所へと戻ったことを、静かに告げるかのように。

鏡の世界から抜け出した直美の姿は、もはや濡れてはいなかった。

だが、その奥底――光の届かぬ鏡像の裏側には、“名”を奪われたままの「影」が、黒い墨のように静かに滲み、漂っていた。

「……水は名を奪い、名を返し、そして記憶を揺さぶる。祈りとは、奪われた名を取り戻すための儀式である……」

誰に語るでもなく、誰から教えられたわけでもなく、直美の内にその言葉は、深く静かに根を下ろしていた。

名返しの儀が執り行われた翌日のことである――榛の木林資料館の地下。 長らく立ち入りを禁じられていた旧書庫の最奥にて、新たなる“封じ石”が静かに水底へと沈められようとしていた。再び“影の湊”が現れる、その予兆――否、余韻とも言うべき不吉な気配が、ひび割れた空気のように漂っていた。

資料館地下の収蔵庫で、一人の学芸員が偶然にも古ぼけた木箱を発見した。その場所は長年にわたり湿気と黴に侵され、誰もが忌み嫌い、近づくことさえ避けてきた禁忌の区画であった。

恐る恐る木箱を開けると、その中には濡れた和紙で厳重に綴じられ、赤黒く禍々しい封蝋が施された一冊の書物が静かに眠っていた。古い墨文字が薄れつつも表紙にかろうじて読み取れ、その書が決して開けてはならぬことを暗示するかのようであった。そこには、こう記されていた――。 『水の名前録すいのなじろく』――名を流し、影を呼び、縁を喰らうもの――

そして、封蝋にはどこか見覚えのある家紋が刻まれていた。それは龍堀家の紋――ただし、上下が反転し、まるで裏返った鏡像のような“逆紋”であった。それは、秘されし禁術の記録。すなわち《供名くみょう》と《喰影くえい》にまつわる、封じられた呪法の書であった。

この話を耳にした絵美は、抗いがたい衝動に突き動かされるように資料館を訪れ、静寂に満ちた地下収蔵庫で、怯えを秘めた瞳で『水の名前録』を開いた。震える指先が頁をめくると、そこには遥か遠き時代――水神や龍神の怒りをなだめるため、人の命の代償として“名”を捧げるという、忌まわしき古代の禁術が記されていた。

その術の名は“供名くみょう”――人の名を墨痕に書き記し、それを水面に浮かべ静かに沈めることで、その者の存在の輪郭をおぼろげにし、やがて現世から少しずつ滲ませ消し去るという、呪わしき儀式であった。

名が完全に水に溶け込んだその刹那、その者は既に、“影”の姿へと崩れ落ち、幽鬼のごとくこの世を漂い続け、やがて誰かの内にひっそりと宿り、密やかに侵蝕を始めるのだという――。

そしてさらに、“喰影”(くいかげ)――それは、禁忌の供名くみょうの呪法によって生み出された影身えいしんを、禍々しき意思をもって己の内に取り込み、龍神に代わって人の魂を喰らう依代よりしろとなり、強大な霊力を得るための忌まわしき禍事の術であった。しかし、この呪法は術者の肉体と魂を徐々に蝕み、やがて術者自身がこの世と彼岸を繋ぐ“門”――忌み嫌われし霊道れいどうへと変貌してしまうという、恐ろしい代償を孕んでいた。

祈祷師・烏羽椿からすば つばきは、この呪詛じゅその禍々しい力を反転させた『忌術・逆式きじゅつ・ぎゃくしき』を用い、出口稲荷大明神の宮司である龍堀龍之介たつほり りゅうのすけを討ち滅ぼし、忌むべき龍堀家の血統を完全に断つことを目論んでいたのだ――。

絵美は、その書の密やかな余白に、名もなき巫女たちの悲痛なうめきと、底知れぬ水底に沈められた無数の“名前”たちのささやきを、確かに感じ取っていた。彼女は、さけがたく自らが背負った宿命の重みに震えながらも、再び“名”を封じる忌まわしき儀式と対峙することになるであろう――そんな夜の訪れを、息を潜めて静かに待ち続けていたのだった。

椿は絵美を自らの術式の領域へと引きずり込み、龍之介との呪術的な対決に先手を打とうとしていた。絵美が未だ知らぬ、椿が操る異様で禍々しい儀式――その原型と思われる図絵が、禁書『水の名前録すいのなじろく』にひっそりと描かれていた。

水盆に静かに浮かべられた「名」を記した紙片。額に刻み込まれた不吉な紋様“逆紋ぎゃくもん”。そして鏡を媒介にした忌まわしい“影の重ね合わせ”。それらは寸分違わず、直美に施された呪術の手順そのものだった。

書を前にして絵美は息を呑み、声を失いその場に立ちすくんだ。この術式はいにしえより禁じられ、遥か昔に封印され、忘れ去られたはずの禁呪――それがなぜ今、再び蘇ったのか? 一体誰がこの忌まわしき呪いを現世に呼び戻したのか?

震える指で書の末尾の頁をめくった絵美の目に映ったのは、「名」を返す術――その“逆”。すなわち《名封じ》の呪式であった。

「巫女の“名”を封じ、“媒介”とせよ。水を伝い、千の名を渡らせよ。」          その刹那――絵美の脳裏に、遠い幼き日の記憶が鮮烈に蘇った。出口池の静かな水辺で、誰かが確かに自分の“名前”を囁いた、あの記憶――。その名をささやいたのは一体誰だったのか。そして龍之介は、なぜあの日の出来事を決して語ろうとはしなかったのか。

いま封じられているのは、本当に湊の“名”だったのだろうか――いや、それはまさに絵美自身の“名”であった。禁断の封印、その真実を解く鍵として、書の巻末には次のように記されていた。「名を抱きし者が、門を開く。名を捨てし者が、門を閉じる。」

その言葉に触れた瞬間、絵美は恐ろしい真実を悟った。次に龍神が目覚めし時、“門”を閉ざすために求められるのは、自らの名を水底へと沈めること――すなわち、己が存在をはかなき“影”に堕とし、命と引き換えに現世と彼岸を繋ぐ門を永遠にとざすという、逃れようのない残酷な宿命であった。

その忌まわしき数日後――榛の木林資料館にて禁書『水の名前録』の精査を進めていた学芸員・戸張悠一が、その夜を境に、まるで闇に呑み込まれるように忽然と姿を消した。彼の姿が最後に目撃されたのは、絵美から一時的に貸し出された「水盆の儀」の章を読んでいたときであった。

翌朝、戸張悠一の作業机の上には、不吉で異様な光景が広がっていた。濡れた紙片の上に滲んだ墨痕――そこには、かろうじて判読できる文字で「戸張悠一」と記されていた。さらに、書見台の上に置かれていた『水の名前録』は一頁が引き裂かれ、その破片には朱筆でこう走り書きされていた。

「名、ひとつ落とし済み。影、こちらへ渡る。」 祈祷師・烏羽椿  

その同じ朝、資料館の地下にある水槽にて、誰一人触れていないはずの水面に無数の“顔”にも似た波紋が次々と浮かび上がるという、不気味な異常現象が報告された。かつて祈祷師・烏羽椿が用いたとされる呪わしき“影の儀”――その秘匿された儀式の詳細は、『水の名前録』の奥深くにある「黒の水祀くろのみずまつり」と名付けられた頁に、密かに記されていたのである。

名を墨痕で記し、満月の夜、水底へと沈める。鏡の前に対象を映し、その名と影をひとつに重ね合わせる。

やがて水が濁り、対象の記憶が静かに崩れ去る。影は水の流れを伝い、“媒介者”の内側へと密かに侵入する――水が名を喰らい、影が声を得て、禍々しき祈りが門を開け放つ。この呪わしき儀式は、もはや過去のものではなかった。いま再び、“名”を巡る呪われた輪廻が、静かに動き出そうとしていたのである。その瞬間、絵美の心をある確信が冷たく貫いた。この禍々しき禁呪を再び世に蘇らせたのは、他ならぬ烏羽椿に違いない――彼女は底知れぬ不安と共に、父・龍之介の身に迫る危機を予感し、胸を凍らせたのだった。」

絵美と一樹の意識が交錯した夢の情景――それは、まさしく“儀”のよみがえりそのものであった。鏡に映じた学芸員の戸張悠一の姿は、全身が濡れそぼち、表情からは生者の温もりがすでに失われていた。ただ嶋国直美と同じ、虚ろで歪んだ笑みだけが、まるで仮面のように顔に貼りついていた。

その背後にひっそりと立つ“影”は、古ぼけたぼろ布のごとき祈祷装束をまとい、煤けた鈴を微かに揺らしながら、じりり……と耳元で低く囁いた。

「次は――“お前”だよ」

その囁きは、まるで深い水底から水面へと泡とともに浮かび上がる呪詛のように、冷たく粘ついた余韻を残しながら、絵美と一樹の意識を静かに蝕んでいった。

呪われた儀式の連鎖を断ち切るには、龍神の“門”を閉じなければならない。しかし、それを成すためには「名を持つ者が、自らの名を水底へと沈め、その存在の輪郭を滲ませることが求められた。つまり、絵美自身が“名を捨てる”という過酷な選択を迫られていたのだ。

父・龍堀龍之介は、絵美の決意に激しく抵抗した。「名とは魂そのものだ。一度捨てれば、二度と戻ることはない。お前は永遠に“名もなき影”となって、この世を彷徨い続けることになるやも知れぬ」

しかし絵美は静かに、だが決して揺るがぬ声で答えた。「……それでも、名を返さなければ、影は永遠に誰かの中に棲みつくことになる。もし、私の“名”で門が閉じられるのなら――それでもいいの」

そう言って、絵美が白い和紙に筆をとり、己の名――「絵美」と墨で静かに記す姿を、一樹は心配げにじっと見守っていた。

満月の夜――底抜池のほとりに、白装束をまとった絵美がひとり佇んでいた。かつて湊の“名”が返されたその水面に、自らの名を記した和紙をそっと浮かべる。

水はまるで意志を持つかのように、抵抗もなく和紙を呑み込んでいった。その刹那、水鏡には無数の影がゆらりと浮かび上がる。戸張悠一、烏羽椿、そしてかつて“名”を奪われ、忘れ去られた者たちの痕跡――それらは闇に溶けるように静かに揺らめき、水底の彼方にある最後の“門”へと、ゆっくり還っていった。

絵美の姿は、月の淡い光に溶けるように、次第にその輪郭を失っていった。水面に映るもうひとりの“絵美”だけが、一樹をじっと見つめ、微かにはかない笑みを浮かべた。「絵美さん、無事に戻ってきて!」一樹は必死に叫んだ。やがて、村には不気味な静けさが戻る。底抜池の水面は凪ぎを迎え、鏡のように映る者の影も、もはや濡れてはいなかった。

資料館の封印された書庫。その奥深く、再び収められた『水の名前録』の最後の頁には、かすれた筆致でこう記されていた。

「名を捨てし者、門を閉じし者。その影、いまも水底にて眠る――」

一樹は池のほとりに佇み、誰にともなく名を呼んだ。「……絵美……」だが、その名に応える声はどこにもなかった。ただ、水だけが、静かに、そっと揺らいだ。

一樹は義子婆ちゃんに、絵美が龍神の「門」を閉じる儀式を行ってしまったことを伝えた。義子婆ちゃんはしばらく沈黙したあと、静かに、どこか遠くを見るような目でつぶやいた。

「一樹や、絵美さんにゃ、つええ母ちゃんヒカルの守護霊がついてるだで、心配はいらんじゃんねぇ。けれどな……お前ぇも、そろそろ東京の大学へ戻らにゃならんら? 絵美さんにも、きっとまた会えるずらよ……」

その口調は穏やかであったが、どこか不安を隠しきれぬ陰りがあり、まるで戻れぬ者への鎮魂ちんこんのような、儚い響きを帯びていた。

幾夜いくよか経て、かりそめの静けさが、村を覆っているように見えた。

されど、ある夜――出口稲荷の社の裏手、草深きやしろの鏡石に、

異様な兆しが、忍びやかに現れた。

神鏡には、夢とうつつとの狭間にたなびく霧が、ふわりと掛かっていた。

その鏡面には、本来決して映るはずのない影が、静かに姿を見せていた。

――かつて一樹が出会い、心の深みにひっそりと咲き続けていた白い幻影が、今、そこに現れたのだった。

黒髪は夜の川のごとく流れ、白妙のころもは風すら拒んで揺れず、

そのかおは――絵美。まぎれもなく、絵美その人であった。

だが、そこにこころはなく、ただ感情の抜け落ちた瞳で、

遠い時を超えるように、じっとこちらを見つめていた。

風さえも避けて通るような、触れることのできない存在。

それは――時の流れに抗う影であった。

宮司・龍堀龍之介は、即座にそれが“絵美”であると悟った。しかし、そこにいたのは、もはや「生きた娘」ではなかった。絵美は――水に“名”を捨てた者の影。

人でも霊でもなく、この世とあの世の狭間、“境界”にとどまる存在であった。

彼女の影は、一樹と共に歩いた記憶に引かれるようにして、夜ごと村の池を巡り歩いた。自らの名を呼ぶ者の背後に、ふと微かにその姿を映し、鏡の中に濡れた自分を見た瞬間や、眠りの中で懐かしい声を耳にしたとき――その影は、言葉を発することもなく、ただそこに、寄り添っていた。

「名は返された。けれど、“わたし”はまだ、水にいる……」

絵美の影は今や、水の結界をまもる者となっていた。

だが、それは終わりではなかった。それは、“次”の始まりのための、静かなる巡回だったのだ。

あるよいのこと。若き巫女見習い・志村澪は、現実とも幻ともつかぬ夢に迷い込んだ。干上がった底抜池の湖底には、不気味な穴が、ぽっかりと口を開けていた。

その闇の奥から、白く細い手が、音もなく、するりと伸びてくる――。

目を覚ました澪の枕元には、一枚の白紙が置かれていた。筆跡ひっせきも滲みもないその紙を手に取ると、そこには「志村澪」という名が、まるで濡れたように浮かび上がってきた。――「選ばれし者に名を記し、水を巡れ(めぐれ)」

それは、かつて『水の名前録』の失われし巻末に記されていた文言。

新たなる“橋渡しをする者”が、生まれる儀式の始まりであった。

神社裏の池にある鏡石――そこには、再び“誰か”の影が映っていた。それは絵美の姿ではなく、志村澪の姿であった。

――だが、その背後には、うっすらと“別の影”が寄り添っていた。それは、水に名を捨て、影として戻った絵美だった。もはや声を持たず、ただ、新たな“名”が落とされぬよう、静かに見守るだけの者となっていた。彼女は、その場に、“誰か”がいるという感覚だけを、そっと残していた。

「名を持つ限り、人は影を持つ。水はそれを、決して忘れない。――ゆえに、誰も、水に名を呼ばれてはならぬ。」それは、語られることのないまま継がれてゆく、“水の名祀り(なまつり)”の、新たな章の始まりであった。

「影より還りし娘」――門を閉じてから、二めぐり目の春。神社裏の鏡石には、今も時折“影”が映る。

だがそれは、もはや祟りでも怪異でもなかった。 村の子どもたちは、満月の夜にだけ現れるその優しき影を、「水の守り姫」と呼び、親しみとともに慕うようになっていた。――だが、一部の者は知っていた。その影が、ほんのわずかずつ「人のかたち」へと近づいていることを。水音の奥に、かつての“声”が重なって聞こえる夜があることを。

あの日、“次なる媒介者”に選ばれた志村澪は、自らの名を書いた白紙を、水に流すことなく、いまもなお、神前の祠に封じたままにしていた。

とある日、志村澪は、夢の中で絵美と出会った。その姿は、影でも霊でもなかった。

水の中に、ただ静かに立つ、一人の少女の姿だった。「……私は、“名”を捨てて、門を閉じた。でも、それは……本当に終わりだったのかな……?――もし、“名”を与えられたら、もう一度、生きても……いいのかな?」 目を覚ました澪の手には、一枚の白紙が握られていた。彼女は、そっと筆をとり、その紙の上にこう記した――「龍堀絵美」 名が与えられることで、“名なき影”は再びこの世へ立ち戻った。それは、巫女のみに許された「名返し」の最終儀――《反転逆結びの儀》であった。

同じ夜――底抜池の水面は、風ひとつなく、古の神鏡のごとく凪いでいた。

月が真上に昇ったその刹那、ひそやかな水音が、静寂の織り目を縫うように響いた。ひとしずく。音を立てて水面に落ちると、波紋は幾重にも広がり、その中心から――

一人の少女が、ゆるやかに立ち上がった。

白き衣をまとい、濡れた髪を滴に染めながらも、その足元には、影がなかった。

影であったはずの者が、いま、ふたたびこの世に――肉体として、静かに顕現けんげんしたのだった。月光に濡れた唇が、かすかに震える。そこから紡がれたのは、夜の水面に溶けゆくような、透きとおる声。「……ただいま」 それは、紛れもなく、“絵美”の声だった。かつて、“名”を捨て、門を閉ざした娘。たった今、“名”を返され、命をひらかれし者。名と影をめぐる宿命の循環じゅんかんを経て――絵美は、影より娘へと還り、……ふたたびこの世に、“名”と“生”を持つ者として、静かにあらわれたのである。

それ以後、底抜池の水は二度と濁ることなく、名を呼ぶ声も、影も、静かにその姿を消していった。今に続く龍堀家の系譜けいふには、そのときから新たな章が加えられている。『名返し異録 ― 絵美ノ章』 そこには、こう記されていた――. 「名を捨てた者が、生きて戻ること。それは奇跡ではない。それは、選び直された“縁”である。名を流すことで生まれるのは、死ばかりではない。水は、ときに、“名”を返すこともあるのだ。」

絵美は、その後も、自らの“名”を語ることは――稀であった。

けれど、春の宵、池のほとりで子どもたちがその名を呼ぶとき、彼女はいつも、そっと、静かに微笑んでいた。“名”とは、声ではなく、想いのかたち。そして、水はそれを――幾たびでも、やさしく受け入れるのだ。絵美が水面より還ってからというもの、村には、夢のような静けさが訪れた。人々は彼女を「還り来た娘」と呼び、畏れではなく、あたたかさをもって迎え入れた。けれど、絵美の内にはいまもなお、夜ごと夢に差し込む“誰かの声”が――微かに、残されていた。

「お前は、まだ……“すべて”を思い出してはおらぬ。」 それは、あの夜――水の底にて交わされた、“龍神様との契約”の記憶。名を捨て、門を閉じたその刹那。 絵美は、龍神にひとつの願いを託していたのだった。 「どうか……たとえ一度きりでも構わない。人として―笑える日々を、過ごしたいと。」

それは、雲ひとつない春の朝のことだった。絵美は、一樹のそばでぽつりと、けれど確かな声で告げた。「……まだ、行っちょらん池があるだよ。八つあるはずだけんど、途中で……記憶が、ぷつんと途切れちもうたみてぇだ。だからよ――もういっぺん、 全部、巡りてぇだよ。……おまんと一緒に、な。」

一樹は、何も言わずに絵美の手をとった。二人は手を取り合ったまま、ゆっくりと、 八つの池を巡っていった。鏡池、湧池、底抜池、出口池……。

それぞれの池のほとりに立つたび、絵美の記憶は、春風に揺れる水面のように、そっとたゆたっては、少しずつ、あいまいだった記憶をしっかりと取り戻していった。 そのたびに、一樹はそっと絵美の手を握りなおし、ふたりは一歩ずつ、“名”と“想い”の道を、静かにたどり直していったのである。

ある池では、幼き日の自分が、名前を呼ばれるたびに、嬉しそうに頷いていた――そんな、何気ないけれど確かに幸せだった記憶。またある池では、母が口ずさんだ和歌が、水のささやきと溶け合いながら、胸の奥深くに、あたたかく、やさしく響いてきた。そして最後に訪れた、奥の大池。静かに澄んだその水面を前にしたとき――絵美のなかにあった記憶は、やわらかな光となってあふれ出し、すべてが鮮やかに、よみがえった。

「……私、あの夜――巫女としての務めを選んだの。名を捨てる覚悟と引き換えに、龍神様に願ったの。“たった一度でいい。人として、笑える日をください”って――」 村へ戻った彼女は、神社の祠で静かに待っていた巫女見習い、志村澪の手を、そっと握った。

「澪ちゃん。私はもう、“巫女”ではないの。これからは、あなたに――この村の『水の名』を守ってほしい」澪は真剣な眼差しで小さく頷くと、『水の名前録』を胸に抱きしめ、祠の奥へと静かに歩みを進めた。そして、絵美に代わって初めての祝詞のりとを捧げた、その刹那――白き風が境内をやさしく吹き抜け、龍神の鏡石には、新たな紋が鮮やかに刻まれた。

――『絵美、名を返されし者』 それは、水に名を奪われ、水に再び名を還された者の証。もはや影としてではなく、命ある『ひとりの娘』として――この世に、ふたたび生きることを許された者への、聖なる印であった。

春の終わり――

東京行きのバス停に立つ絵美は、新しい制服の袖を、そっと腕に通した。

胸元では、小さな名札がやわらかく揺れている。

そこには『さかき 美湖みこ』と記されていた。

“榊”――神と人とを結ぶ、聖なる神木の名。

“美湖”――澄みわたる水の美しさをたたえ、かつての『鏡池』を、あらたに映し出す名。

それは、過去を静かにたたみ、未来へと歩き出すために与えられた、彼女の新しい名前だった。

「この名前は……これからの“私”をつなぐ名前。私は一樹くんと同じ学校に通って、ちゃんと自分を生きるんだ。自分の『名』と一緒に、前を向いて」

一樹は静かに微笑み、力強く頷いた。

「いざ東京へ――榊さん」

絵美――いや、美湖は、春の風に髪をなびかせながら、バスの窓越しに遠ざかっていく村の景色をじっと見つめた。

田畑の緑、山の稜線、そしてあの底抜池――。

その瞬間、水面が最後に一度だけ、そっと揺らめいた。

そこに宿ったのは、月でも太陽でもない。

まるで『人の瞳』のように静かで、やさしい光だった。

出口池の祠では、澪がひとり、静かに祝詞を捧げていた。

風もなく、水音もない――世界が一瞬だけ息をひそめたような、澄んだ静けさ。

その影のすぐ隣には、もうひとつの名もなき影が寄り添っていた。

それは誰の影でもなく、ただそこに在ることを許された、やわらかな気配だった。

「水は、“名”を覚えている。忘れられても、捨てられても――必ず、誰かが呼び戻す」

その言葉を最後に、物語は波紋ひとつ立てぬまま、静かに、静かに、水底へと沈んでいった。

春の始まり――。

大学に入学する前、榊美湖は東京・杉並区にある私立高校に通っていた。

朝の混み合う電車の中、揺れるリズムに身を任せながら、美湖はいつものように小さな手帳を開く。

ページには、八つの池を描いた繊細なスケッチと、その傍らに、かつて一樹と交わした短い言葉が静かに記されていた。

その文字は、まるで遠くの水面に映る光のように、今も彼女の胸の奥で揺れていた。

「『名』ってさ、書いて、呼んで、誰かに教えて……ようやく『生きている』ってことになるんだよな」

新しいクラスで、美湖はまだ誰とも深く言葉を交わしてはいなかった。

それでも彼女は、不思議とその穏やかな距離感を心地よく感じていた。

なぜなら――もう二度と、自分の名を奪われる心配はないと知っていたからだ。

誰かが自分の名を呼ぶたび、その響きの中に「わたしはここにいる」と、小さく、確かに息づく感覚があった。

それはまだ春の光のように淡く、けれども確かな温もりを、美湖の胸に灯していた。

ある日の放課後、美湖はふと、校舎裏の小さな池のほとりで足を止めた。

灰色のコンクリートに囲まれた、浅く、静かな水たまり。

けれど、その水面を見つめていると、耳の奥で懐かしい“水の声”が、微かに揺れて響く気がした。

「……ここにも、眠っているのかな。呼ばれなかった『名』や、『影』たちが――」

春の風が、制服の袖口をかすかに揺らした。

水面には何も映らないはずなのに、その言葉と同時に、淡いさざ波がひとつ、静かに広がっていく。

東京という都市――そこは、名もなき声と、忘れ去られた記憶が幾重にも折り重なり、漂う場所だった。

水道の蛇口から滴る一滴、夜の噴水、誰もいない公園の池、そして地下深くをひそやかに流れる水脈……。

美湖には、それらすべてが、小さな龍神を祀る祠のように思えた。

そして今も、どこかの水面で、新しい物語が、まだ形にならぬまま、かすかに揺れはじめているのかもしれない――。

ある日、学校で配られた卒業アルバム用の名簿に、美湖の名前が手違いで「絵美」と印字されていた。

その紙を手にした瞬間、指先にほんのり湿り気が宿り、文字が一瞬だけ水に滲んだように見えた。

「……まだ、どこかで『絵美』という名を覚えている人がいるのかな……」

美湖は小さく息をつき、静かにペンを取った。

「絵美」の文字の上に、「美湖」と丁寧に書き直す。

インクの線が乾いていくあいだ、彼女の唇には、春の光を映したような微かな微笑が浮かんでいた。

美湖は一樹と、ときおり短いメッセージを交わしていた。

けれど、「あの夜のこと」を文字にして伝えたことは、まだ一度もない。

――それでも、私は生きている。

鏡を見ても、もう濡れていない。

呼ばれる名前も、返す言葉も、ちゃんとここにある。

ある夕暮れ、美湖は井の頭公園の池のほとりに立ち、そっと手を合わせた。

それは神への祈りではなかった。

かつての「名」へ、そして今はもう還らない「影の記憶」へと捧げる、ささやかな感謝の祈りだった。

池面には、夕陽が溶けたような淡い金色が揺れ、風が通るたび、波紋が静かに広がっていった。

東京には、龍神はいない。

けれどここには、名を呼ぶ声と、それに応える心の響きが、確かに息づいている。

それこそが、美湖が辿り着いたひとつの結論だった。

「『絵美』として祈った記憶は、『美湖』として生きる私の中に、ずっと静かに息づいている。だから私はもう、『名』を恐れなくていい――」

水のない場所にも、水は流れている。

名前を呼ぶ人がいるかぎり、命は「名」とともに、どこまでも続いていく。

「私の名前は、美湖――そう呼ばれたその日から、私はもう一度、生を授かったのだ。」

夕暮れの光が、都会のビルの谷間を抜けて頬を撫でる。

その温もりを受けながら、美湖は静かに目を閉じ、心の中でそっとその名をもう一度、確かめるように呼んだ。

絵美がかつて調べていた古い資料には、こう記されていた。

――忍野八海とは、山梨県忍野村に湧く八つの神聖な池。富士山の清らかな伏流水によって生まれ、江戸の頃には「富士山根元八湖霊場」として整備され、巡礼者たちの祈りの地となった。

それぞれの池には八大龍王が守護神として祀られ、池のほとりの石碑には、その御名と和歌が厳かに刻まれている。

巡礼者は静謐な水面を巡り、和歌を口ずさみながら心を込めて祈りを捧げたという。

しかし同時に、この地には古き戒めもあった。池を穢すこと、祭祀を怠ることは、龍神の怒りを招く――。どのような呪いや祟りがあったのか、公式な記録は残されていないが、その伝承は、今も水の底深くに沈んでいるのかもしれない。

こうした龍神信仰の由来は、『宮下文書』や富士講の『大我講記録』といった古文書にも詳しく記されている。

そこでは、水を穢す行為や、祈りを忘れる心が、災厄を呼び込むものとして厳しく戒められていた。

その思想は、富士講由来の禊や霊的浄化の信仰と深く結びつき、この地の精神文化の奥底に、今も変わらぬかたちで根を張っている。

忍野八海と深く結びつく天台宗の古刹・東円寺は、往古より富士修験や禊の霊場として知られてきた。

そこには八大龍神にまつわる貴重な古文書や版木が大切に守られ、この土地に息づく信仰の息吹と悠久の歴史が、今もひっそりと受け継がれている。

――そして、美湖が東京で過ごす日々のどこかにも、あの水の面に宿る静かなまなざしは、きっと生き続けているのだろう。

終わり






























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