信行の嫁取り(1553年)
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2024.9.29修正
「勘十郎、次郎法師の相手が決まった」
「誰になりましたか?」
「お前だ」
「私ですか!?」
次郎法師に遠江を井伊に任せると言ったので家臣筋では格が合わない。一門衆になると次郎法師に年齢が近くて独身なのは信行だけである。
「お前以外適任者は居ない」
「兄上は?」
「たわけ!帰蝶が居るだろうが」
「今の言葉、聞き捨てならぬ」
信長以上に帰蝶が激怒して鬼の形相になったのを見て、信行は直ぐに平伏して誤解を招く発言を詫びた。
「当主である兄上の側室に迎えた方が次郎法師殿の立場を確かなものにすると考えましたので」
「お前の考えは分からないでもない。しかし俺が側室を迎える利点がないぞ」
「旦那様と妾に子が居なければそのような考え方もあるが、現実を見てみよ」
帰蝶は第一子を身籠っており体型も明らかに変わっている。無事に産まれれば男女問わず後継者になり、仮に女子ならば婿を取れば良い話である。
「俺の右腕として家中に認められている。例の一件でお前を恐れている者も居るくらいだ」
「あれは家中を纏める為に必要でしたので」
「勘十郎に足りんのは陰日向で支える存在」
「旦那様でいうところの妾じゃ」
確かに末森の上層部で独り身は信行だけである。勝介・勝家・盛次・盛重の四人は妻子が居て、勝介に至っては孫も居る。勝介からも年齢的に正室を迎えなければと常々言われているので信長に相談しようと考えていた矢先の事だった。
「次郎法師様、私のような者で良ければ正室として迎えさせて下さい。希望とあらば井伊の姓を名乗っても良いと考えております」
「信行様の方こそ私で良いのなら喜んで嫁がせて頂きます。ただ井伊の名を継ぐのは子供に任せたいと思います」
「勘十郎、良い女性を見つけたな」
「大事に扱わねば妾が許さぬぞ」
帰蝶は有言実行で知られており、決め事を守らなければ男女問わず厳しく罰する。信長も時折怒られている姿を家臣に見られていて信行も目の当たりにして止めに入る事もあった。その刃が自分に向けられるのは恐怖以外何物でもなかった。
数日後関係者を集めて祝言が執り行われて信行と次郎法師は夫婦になった。その場で次郎法師が還俗した事を公にして名前を出家前に名乗っていた直虎に改めた。
*****
末森に戻った信行は評定の場を利用して母土田御前と家臣に直虎を正室に迎えた事を報告すると共に顔合わせを行った。御前は葬儀の後で信長と帰蝶に気を遣って信行が居る末森に住まいを移していた。直虎と御前が折り合うか心配だったが、先の一件で性格が丸くなっていた御前は直虎を歓迎した。
「直虎を泣かせる真似をすれば母が許しません」
「分かっておりますのでご安心下さい」
どこかで聞いたような言葉だったが、御前も怒らせると帰蝶並みに恐ろしいので素直に従う姿勢を見せた。やり取りを見ていた家臣が堪えきれず笑い出すなど和やかな雰囲気で終わった。
「そういえば佐治為景の姿が見えなかったな」
「病で動けないと届けが出されております」
「気になるな。水野信元と山口教継を呼んでくれ」
知多水軍を率いる佐治為景が評定を欠席したが、信行が井伊直虎を妻に迎えて今川への対決姿勢を明らかにした時と重なっていたので違和感を抱いた。
*****
「佐治為景の事で聞きたい事がある。信元から見て気になる事は無かったか?」
「水軍の動きが慌ただしくなっていたので佐治殿に尋ねましたら信行様の指示だと申しておりました」
「探りを入れる必要がありますな」
信行は知多水軍を動かす指示は出していないにもかかわらず、為景が偽りの内容を信元に教えた事で裏切りの可能性が出てきた。勝介の言うように調査を早急に行う必要に迫られた。
「それと並行して為景の蜂起に備える。信元は刈谷の守りを固めてくれ」
「心得ました」
「教継、街道の警備を厳重に。為景が不審な動きをしたら問答無用で攻め込め」
「承知致しました」
「勝介は戦の準備を始めてくれ。今川が動きそうな気がする」
信行は為景が裏切る前提で動き出した。実際に動けば即座に鎮圧する手立てを講じた上で二の矢を放つ事にした。
*****
話し合いを終えて部屋には信行だけが残った。しばらくすると床の間に設けられた隠し通路から人が出てきた。
「聞いていた通りだ。佐治の動きを探ってもらいたい」
「承知しました」
「出来れば証拠になる文書も入手してほしい」
「噂が本当なら簡単に済むでしょう」
全身黒尽くめの男は小さく頷いた。為景は身の回りの事が全くと言って良いほど無頓着で部屋の中に重要な書類を放置するなど周囲から注意される程だった。
「これを機会に奴を損切りしたい」
「例の一件ですか?」
「あれで奴の価値が無くなった」
為景は知多水軍を率いている事から熱田湊の利権もそれなりに与えていたが、先年津島湊での利権も要求してきたので当時健在だった信秀から叱責された一件があった。信行もその場に同席していたので記憶に残っており、その後に城内で信秀を皮肉る発言をしたのでそれを聞いた信行が詰め寄る場面もあった。
「今回は報酬を弾ませてもらう。出来れば為景と繋がりのある者の手紙を手に入れてくれ」
「それなら田原の戸田康光か曳馬の飯尾乗連辺りになります」
「更なる証拠をでっち上げる」
為景の所で証拠が手に入らなければ、戸田か飯尾の名前を使って偽の手紙を作成した上でそれを証拠代わりに利用するつもりだった。
「それでは」
「無理を言うが、急いでもらいたい」
「何とか致しましょう」
黒尽くめの男は隠し通路に入って姿を消した。男の正体は甲賀の忍びで鵜飼孫六という。孫六は先代信秀と付き合いがあって何度か情報収集の依頼を受けていた。信行はそれを間近で見ていて忍びの有用性を理解していた事から信秀の弔問目的で顔を出した孫六に頭を下げて配下を含めて金で雇う形で協力を取り付けていた。
【登場人物】
水野信元 1520〜
→織田家臣
佐治為景 1510〜
→織田家臣
戸田康光 1500〜
→今川家臣
飯尾乗連 1495〜
→今川家臣
鵜飼孫六 1502〜
→甲賀忍