裏工作(1553年)
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2024.9.28改訂
「信行が土産を持って那古野に来るぞ」
「土産?」
「井伊の女当主だ」
「はぁ?」
帰蝶は機嫌が悪くなり汚物を見るような目で信長を見た。第一子を身籠っていて普段以上に気性が荒くなっているので信長は慌てて次郎法師を迎える件を詳しく説明した。
「旦那様は説明が短過ぎる」
「済まん」
「これで今川を攻める名分は手に入れた」
「その通りだが…」
信行から送られた手紙の最後には次郎法師の婿を探してくれと書かれていた。それを読んだ帰蝶は突然笑い出した。
「旦那様も勘十郎も分かっておらぬ」
「どういう意味だ?」
「織田家の当主とあろう者が情けない」
帰蝶は信長に近付くと耳元で名前を囁いた。信長はしてやられた表情を見せたが言われてみればその通りだと何度も頷いた。
「嫁の仇になる今川の相手はあいつに任せて東に目を向けるか」
「兄とやり合うつもりで?」
「俺の事を散々馬鹿にしていたと聞いている。痛い目に遭わせてやらねば気が済まん」
帰蝶は兄義龍の事を度量が狭く器量に欠けるとして嫌っていた。近頃は噂話に惑わされて父道三との間も険悪になりつつある。碌でもない奴に後を継がれるなら夫信長に支配させるべきだと思っていた。
*****
那古野に到着した信行と次郎法師は客間に案内されて待っていたが、小姓が現れてのっぴきならない用事があると伝えて信行を連れて行った。次郎法師は一人残されたので落ち着かなくなってきた。
「御方様がお見えになられました」
「はいっ」
「畏まる事はない」
あたふたする次郎法師を尻目に帰蝶は遠慮なく部屋に入ってきた。
「勘十郎に席を外させたのは妾じゃ」
「?」
「済まぬ。サシで話がしたくてな」
帰蝶は次郎法師の目の前に座るなり信行の事を話し始めた。奸臣から兄弟仲が悪いと嘘を吹聴されて気不味い思いをしていたが、自らの手で粛清して今に至っていると。
「御方様にお願いしたい事が」
「何じゃ?」
「遠江を井伊に譲ると信行様は約束されましたがお断り致します」
次郎法師は井伊の血を引く者は自分以外に武田家臣となった直親だけで共に国を治める能力が無いと自覚していた。
「仕方ない。旦那様と勘十郎には伝えるが納得するか保証は出来ない」
「織田家に迷惑は掛けられませんのでそれでも構いません」
「まあ待て。こういう考え方はどうじゃ?」
必ずしも次郎法師が治める必要はなく、織田と縁を結んで夫に統治を任せれば良い。子が出来れば両家の血を引く事になるので当主として申し分がない存在となりえる。
「良いのでしょうか?」
「良いも何も考えたのは妾じゃ。旦那様も認めておるから心配ない」
「それでは宜しくお願い致します」
「待て、お主は気が早いのう。相手を聞いておらぬだろう」
帰蝶が相手の名を囁くと次郎法師は驚いて顔を真赤にして俯いた。帰蝶はしてやったりと笑みを浮かべた。
「異存は無いと見るが?」
「ありません」
「家族が増えるのは目出度い事じゃ」
帰蝶は立ち上がると次郎法師の手を引いて信長と信行が待つ部屋に向かった。
*****
「三河を餌にして今川をおびき寄せるのか」
「上手くいかなくても今川の評判は落ちます」
「勘十郎は俺以上にえげつない事を考えているな」
「そうでしょうか?」
別室に連れて行かれた信行はそこで待っていた信長に今川領三カ国の状況を説明した後、三河攻略について説明を続けていた。
「何れにせよ東はお前に任せる。俺は尾張を纏めてから西へ向かう」
「それでは蝮殿と戦われるのですか?」
「いや、蝮の息子が相手になるだろう」
「姉上の言う出来損ないですね」
信行も帰蝶並みに酷い言い方をするが、美濃の状況を知った上での事なのであながち間違っているとは言えなかった。信行は那古野に来る度に帰蝶と話をしているが、聞くに堪えない内容の話を堂々とするので信長も頭が痛い思いをしていた。
「まあそういう事だ」
「それでは年内に三城を攻めると?」
「既に準備を始めている」
「分かりました。こちらも準備を」
「不要だ。お前は東に注意を払え」
信行の手を借りれば清須・犬山・岩倉の三城を攻略するのは容易くなるが、今川に動きがあった際の対応に不安があるので末森に留めて目を光らせる必要があった。
「承知致しました。井伊次郎法師殿をこれ以上お待たせすれば」
「帰蝶に対応させているから心配するな。内部の話を客人の前では出来んだろう」
「確かにそうでした」
「噂をすれば何とやらだ」
遠くの方で帰蝶と次郎法師の声が聞こえており、それが段々と近付いてきて部屋の前に来たところで静かになった。
【登場人物】
斎藤義龍 1527~
→斎藤家当主、斎藤道三の長男
斎藤道三 1494~
→斎藤家前当主、美濃の蝮