兄弟の密談(1552年)
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2024.9.16改訂
「御館様が身罷られました」
「駄目だったか…」
体調を崩して床に臥せていた信秀は療養の甲斐なく末森城で息を引き取った。付き添っていた信行が仮眠する為に部屋を離れている間に息を引き取ったので死に目に会えなかった。信行は部屋に戻り信秀の亡骸に手を合わせると近くに居た家臣に伝言を頼んでから自室に引き上げた。
「盛重(佐久間)です。お呼びでしょうか?」
「忙しい時に済まない」
しばらくすると伝言を聞いた佐久間盛重が訪ねてきた。盛重は信行付きの家臣だが信長の事を嫌っておらず、不仲説を煽る林通具を窘めるなど常識的な考えを持っていた。
「私はこれより病気になる」
「病気に?」
「そうだ。部屋には人を入れるな」
信行の真意を悟った盛重は無言で頷いた。信秀の死を利用して信行擁立を画策している連中との接触を一時的に断つ為である。しかしその間に信行がどのような動きをするのかは予測がつかなかった。
「今から那古野に向かう」
「承知致しました。留守居は誰に?」
「秀貞に任せておけ」
通具の暴走を防ぐなら実兄の林秀貞に任せるのが無難だと信行は判断した。秀貞は事なかれ主義的な一面があるので自分の身に火の粉が降り掛かるような真似はしないと。信行は雑兵に扮すると床の間に設けられた隠し通路を抜けて御殿の外に出た。厩舎番に花押入りの書状を見せると信行様から火急の用件で那古野城に向かえと指示されたと馬を借りて城外に出た。
*****
那古野城に到着した信行は門番に末森城の使番だと名乗って織田信長への面会を願い出た。門番は明け方に訪ねてきた信行の素性を疑って取り次ぎを拒んだ。
「これを見せても駄目か?」
「それは!」
「通らせてもらうぞ」
信行は懐から取り出した符牒を門番に差し出した。それを見た門番は驚いて信行を見たが、陣笠を深く被っていたので誰なのか分からなかった。符牒は織田一族しか持たされていない取扱注意の貴重品で、領内の全ての城において出入り自由が認められていた。信行は門番とすれ違いざまに陣笠を上げて顔を見せた。門番は思わず名前を言いかけたが手で口を塞がれた。私が来た事を口外すれば大変な事になると脅迫気味に伝えて沈黙を守らせた。
*****
信行は雑兵の格好をしているが、誰かに見つかり素性を探られると鬱陶しい事になるので人目を避けるようにして信長の部屋に向かった。夜明け前だったが信長の部屋は明かりが灯されていた。
「兄上、勘十郎です」
「こんな夜更けにどうした?」
「火急の用件で伺いました」
外は寒いから中に入れと信長の声が聞こえた。部屋に入ると信長は既に起床しており正室の帰蝶と茶を飲んでいた。信長は火鉢の前に信行を座らせると茶を用意した。
「父上が亡くなりました」
「そうか…」
信行は信秀が亡くなった時の様子を含めた末森城の現状を信長に報告した。信長は何も言わず自身がウツケと呼ばれて家臣から白い目で見られても信頼する姿勢を崩さず、息子は必ず大人物になるから心配していないと周囲に語っていた信秀の姿を思い出していた。
「男二人が嘆く姿をいつまで見れば良いのじゃ?」
「親が死んで嘆くのは当然だろうが」
「後の事を考えればそんな暇は無いと思うのは妾だけか?」
二人を叱責したのは信長の正室帰蝶である。正室という立場から色々な情報が入ってくるので兄弟仲が悪いと吹聴されている事も把握している。信秀の死を利用して信行を神輿に担ぎ上げようとする愚か者が動き出す可能性が高いのに手を打たないのは馬鹿だと断じた。
「たわけ。俺が何も手を講じていないと思ったか?」
信長は父の死を嘆きつつ葬儀の場を利用して大掃除の布石を打つ事を思い付いた。大まかな案を二人に伝えると帰蝶は面白いやり方だと笑いを隠さなかったが、信行は顔を顰めた。
「本当にやるのですか?」
「やらねば織田家は潰れるぞ」
「そうなると蝮が喜んで攻めてくるであろうな」
信長と帰蝶から脅しめいた事を言われて信行も頷くしかなかった。織田が乱れたら喜ぶのは美濃の斎藤家。帰蝶の父斎藤道三が虎視眈々と尾張を狙っているのは誰もが知っている事である。道三からすれば嫁いでしまえば娘も他人、赤の他人が死のうが生きようが己には関係ないという考えである。混乱を回避するには粛清するしか道はないと信行も腹を括った。
【登場人物】
佐久間盛重 1521〜
→織田家臣
織田帰蝶 1535〜
→織田信長の正室、斎藤道三の長女