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4. 衝突





 5日目、本格的な衝突が起きた。

 教え子が集中しないとか不機嫌とかは、家庭教師には通常モードだ。宥めたりすかしたり気を逸らしたり褒めたり叱ったり、手を変え品を変え指導するしかない。そこまで織り込み済みなので、そのこと自体はトラブルでもなんでもない。

 職業人として家庭教師が困るのは、スポンサーである親と意見が対立したときだ。


「ひどいわ、カナン先生。お父様がいいとおっしゃってるのに! 先生に反対する資格なんて本当はないのよ!」


 ヘレンが頬を膨らませ、父親のトゥニカの後ろから大きなアメジストの瞳で睨みつけてくる。

 テオンパパのほうはもう少し穏当だけれど、


「ヘレンもずっと楽しみにしていましたし、いい季節になりましたので……、私は実行したいのですが、カナン先生?」


意見を変える気はなさそうだ。

 親子の意見が合っていて、家庭教師わたしひとりが対立している構図。最悪だ。

 普通なら、こちらが折れる。

 スポンサーの意向は絶対だ。顧客(生徒)がイヤがっているならともかく、子どももノリノリ。雇われ家庭教師がひとりで反対する意味がない。


――でも。


「わたしは反対です。目が悪くなりますから」


 そう。

 テオンパパとヘレンは、一緒に天体観測をしたいと言い出したのだ。


 アレクサンドリアのテオン。アレクサンドリア図書館「ムセイオン」館長であり、高名な天文学者・数学者である。

 著書、『原論』では、ユークリッド幾何学の体系をまとめ、解説した。

さらに、『簡易表』では、地動説を基準にして、地球の歳差運動によって太陽の黄道が変わる理論を証明している。歳差運動ってのは球体が回転するときに軸がブレる動きのことで、なんでそれが起きるのかとかそれがどーしたってのはこの際どうでもいい。

 この理論によって、テオンは、秋分・春分・冬至の日を、あらかじめ算出できることを示したのだ。

 この時代の農業にとっては、革命的である。

 遙か古代から、人々は農業と冠婚葬祭のために天体を観測し続け、カレンダーを作ってきた。種まきも刈り取りも秋分か春分の日だし、冬至の日には死者が蘇ると考えられている。


「いえ、もちろん、テオン様がものすごく偉い天文学者だとは理解していますけど」


 我ながら語彙力がしょうもないけれど、とにかく、それとヘレンの視力は別問題だ。


 この時代の天体観測は、当たり前だが、すべて肉眼だ。いちおう凹凸レンズや遠眼鏡とおめがねっぽい物もあるけれど、正直、よく見えない。

 昼間は読書三昧で、夜は寝ないで肉眼で天体観測なんかしていたら、眼が悪くなるに決まっている。


――てか、寝てよ、フツーに! 10歳なんだからさぁ!


 後世のヒュパティアの悪評のなかには、圧倒的に「目つきが悪い」というものが多い。「性格の悪さを如実に表した目つき」という身も蓋もない表現もある。

 そもそも歴史的に、ヒュパティアへの評価自体が全然信用できないのだけれど、それはそれとして。

 ヒュパティアは、強度の近眼だったのではないか。

 昔の人は眼がよかった。

 おまけにこの時代、近眼の女性は、ほとんど存在しなかったはずだ。

 ローマ帝国の女性の識字率は高いけれど、本を読むという行為に馴染みがない。庶民の女性は広場に貼り出される広報や店のメニューを読めればよかったし、貴族の女性は教養として詩を嗜んだけれど、奴隷に朗読させて、寝ながら聞くのが正しい姿だ。ヘレンのように図書館の本を片っ端から読むような女性は、まずいない。

 近眼という認識がないまま、絶世の美女から胡乱な目つきで睨まれたら、印象は強烈だろう。

 そこに、「こっちは挨拶したのに無視された」とか「ひたすら睨んだあげく無言で立ち去った」とかのエピソードが加われば、あっという間に「美しさを鼻にかけた性格最悪な女」が出来上がる。


――ヘレンの評価アップも依頼のひとつなんだからね。アホな誤解は潰しとくべきでしょ!


「テオン様はお分かりになるでしょうけど、眼が悪くなるのってキツイですよね。40代で少しかすむくらいなら諦めもつきますが、ヘレンはまだ10歳です。眉をしかめて本に顔をうずめないと読めなくなったら、かわいそうです」


 わたしのまっとうかつ誠意あふれる意見に、テオンパパは怯んだ。

 図書館館長として何人もの研究者を抱えている彼は、視力が落ちるという現象をよく理解しているはずだ。

 娘ラブなパパなら、こう言われてなお徹夜の天体観測を強行はできないだろう。

 とはいえ、わたしのほうも、強く反対しきれない理由がある。

 ヒュパティアの伝記には、「幼い頃から父テオンと天体観測を行っていた」というエピソードが必ず書かれているのだ。

 この頃の活動が後に数々の功績を生み出すとしたら、ただ止めさせるわけにもいかない。


――「エージェント」案件かな、これは……。


 三すくみ状態で言い合いをしていても、仕方がない。

 いったん引いたわたしに、テオンパパは明らかにホッとし、和やかにお茶を振舞ってくれたけれど、ヘレンのほうはずっと不機嫌で、それをずっと態度で示し続けた。

 天体観測も楽しみにしていたのだろうけれど、それよりも、父親がわたしに譲歩したことが許せないのだ。

 「人間」は自分と父親のみ、という世界で生きてきたのだ。父親と自分の間に割って入り、あまつさえ反対する存在なんて、青天の霹靂だろうと思う。


――うーん。べつにめちゃくちゃ懐かれなくてもいいんだけど、真剣に嫌われちゃったら、やりづらくなるなぁ……。


 わたしの指導相手は下は10歳くらいから70代まで、幅広い。

 その中でも、10歳という年齢はやりにくい。思春期とはまた別の次元の問題がある。

 ぶっちゃけ、まだ親の分身。親の考え=自分の考えなので、親以外からなにかを吸収することに慣れていない。新しい知識が親と対立すれば、問答無用で拒絶される。

 物事を考え始める時期ではあるけれど、親の価値観・思考のまま、世界を見る。それが世界のすべてなのだから、当然だ。

 その後、広い世界と人間関係を知って、親の作った世界だけが世界じゃないらしいぞ、と気づく。そして思春期が始まるのだが。


――ヘレンの場合、広い世界を知る術がないからなあ……。


 もちろん、図書館の研究員達もヘレンをかわいがっている。物心ついたときから図書館にフリーパスのヘレンは、たいていの研究員と顔見知りだ。

 それでも研究員からみれば、「館長の娘」である。しかも貴族。ヘレンの言動にノーという人間はいなかっただろう。

 彼女は一生、このアレクサンドリア図書館で生きていく。ひたすら研究に邁進し、父亡きあとは館長の任を受け継ぎ、この丘を下ったすぐ近くの広場で斬殺される。


――テオンパパがヘレンの社交性を心配するのも、分かっちゃうんだよねぇ。


 貴族の女性なんてものは古今東西世界が狭いものだけれど、ヘレンの場合、それが極端なのだ。

 この時代でも都会なら、貴族の子女だけの社交もあるし、結婚すれば、夫の親族だの「対等な貴族」と大量に付き合うようになる。

 でも、アレクサンドリアは寂れつつある地方都市で、しかも図書館は市街地からも離れている。

 半日がかりで通えば、ほかの貴族の子ども達と交流が持てるだろうけれど、ヘレン本人が好まないだろう。

 そして、テオンパパもそんな無理強いをするより、ヘレンの稀有な才能ギフテッドを伸ばしたいと考えたのだ。

 だからこその家庭教師、つまりわたしが雇われたわけで、わたしがテオンパパと対立していいことなどひとつもない。

 なまじヘレンが天才ギフテッドで、たいていの話は大人並みに通じてしまうからこそ、情緒だけ10歳の子どもなところが難しい。


「つかさぁ、10歳の娘を、徹夜の天体観測なんかに誘うなよ~っ。心配してるんなら、子どもらしい生活をさせろって! なんかズレてんだよなぁ、あのパパも! さすが、天才の子の親も天才! 紙一重!!」


 針のむしろのお茶会をにこやかに流し、家に帰ってから、わたしは雄たけびをあげた。


「あ~、もー疲れたっ!!」


 ぼふっとベッドにダイブする。某大リーガー御用達という科学の粋を極めたマットレス。ふかふかの羽根布団と羽根枕。ボアシーツ。

 つくづく、「エージェント」のアドバイスどおり、通いにしてよかったと思う。

 それで起き上がり、天体観測について、「エージェント」に質問メールを送っておいた。

 缶ビールを開け、昨日から煮ているおでんをつつく。


「くう~、やっぱ、おでんとビール、最高!」


 現代日本の衣食住の快適さは、別格だ。

 アレクサンドリアの常夏から、秋真っただ中。窓の外には夕焼け。虫の音が聴こえる。濃いオレンジ色から紺色に変わっていく空と、晩酌を堪能した。





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