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2. アレクサンドリアのヘレン




「ごきげんよう。テオンの娘、アレクサンドリアのヘレンです」


 10歳の少女は、取り澄まして右手を差し出してきた。


――なっるほど。こりゃたしかに、難しいお嬢ちゃまだわ~。


 おしいただいて手の甲に軽くキスするのが古代ローマの貴族女性への挨拶だけれど、あいにくわたしは、そんな風にへつらったりはしない。

 腰をかがめて視線を合わせ、ヘレンの右手をゆるく包み込んだ。そのまま、ぶんぶんと振る。


「わたしは斎木桂南といいます。短い間だけど、ヘレンの家庭教師よ。よろしくね!」


 手の甲へのキスは、相手への敬意を示す。古代ローマでの家庭教師の地位はそれなりに高い。教え子にする必要はない。

 もちろん、ヘレンも分かったうえで、手を差し出したのだ。

 自分のテストを躱されたヘレンは、整った顔立ちを歪ませた。上から下まで、じろじろとわたしを検分している。

 この当時の高級家庭教師といえば、ほぼギリシャ人だ。奴隷階級とはいえ、貴族に雇われるような「教師」は別格扱いだった。


――まあ、不思議だよね。さすがに、ギリシャ人には見えないだろうしなあ……。


 タイムワープすると、わたしの見た目は、現地で違和感がないように変わる。といっても、髪や目の色まで変わるわけではない。背も伸びない。そこは残念。

 ヘレンの目にわたしは、ストラというローマ女性の一般的な服を着ている女性が映っているだろう。ストラは、男性服のトゥニカを足首まで長くしたもので、バスト下やウェストで絞る。要するに、現代のアイラインワンピだ。

 トゥニカはローマ市民権を持っている男性しか着られないけれど、女性服はそこまで厳密ではない。それでも、ストラの上に巻き付けるバッラという長い布は、貴族の女性しか身に着けられない。

 とはいえ、ここはエジプト、アレキクンドリアだ。赤道直下の南国なので、たいていの女性が日除けの布を被っている。

 今のわたしも、短めのストールを肩から掛けている。

 ものすごく胡散臭そうに、ヘレンが睨んできた。うん、気持ちは分かる。


「サイ、ッキ、カナ……?」


「発音しにくいよね。サイでもカナンでも、好きに呼んでいいよ。ああ、この間のローマの教え子は、わたしのこと、サイニ・ケイナンと言ったけど」


 両手をもぎ離したヘレンは、きっと睨んできた。


「サイニ・ケイナン? そんな大仰な呼び名、信じられないわ」


「んふふ~。でも、本名だから。以前の教え子は、ぴったりだと言ってくれたよ」


「ろくでもない田舎者の成金の三男かなんかだったんでしょ。立派な知識人なら、そんな言葉、安売りしないはずだわ」


 おお、なかなかの選民意識。

 ヘレンへの指導内容は、今風にいえば、コミュニケーション力アップだ。

 ローマ帝国では、弁論術が最上の学問と位置付けられている。

 ヘレンは数学に特化した才能を持っているけれど、どれだけすごい数学の定理を発見しようが、便利な算術を編み出そうが、それを上手に説明し、権力者に重要性をプレゼンできなければ、「知識人」として認められない。

 娘に修辞学グラマティクスを身に付けさせてほしい、というのが父親からの依頼だった。――表向きは。

 裏の依頼は「エージェント」からで、ヘレンの鼻っ柱を折ること。少なくとも、人の話を聞く耳と態度を持たせること。最終的には、まわりの人間から「傲慢」と思われない態度を身に着けさせること、ってハードルが高すぎる。

 この少女と一緒にいられるのは、たった一か月なのに。

 こういうプライドの高い子どもは、初対面の大人にそう簡単に懐かない。普段のわたしなら、馴染んで仲良くなるためだけに半月はかける。


――あいかわらず、無理ゲーもいいとこだっつーの!


 今回はゆっくり仲良くなっていられないので、虎の威を借りまくる計画だ。ヘレンの父親からも、了承を得ている。


「わたしは世界中で教師をしてるけど、前回のローマの教え子は、そりゃ有名人になったよ。そうね~、今なら、帝国全土で彼の名前を知らない人間はいないんじゃないかな」


 嘘ではない。なんせ、えっと、700年以上前の人なのだ。

 ふふん、とほくそ笑んだら、ヘレンはいきり立った。


「なにそれ、じゃあ言ってみなさいよ! 私が知ってるかどうか!」


「絶対知ってるよ、ヘレンなら」


 自信満々に断言したら、ヘレンが少したじろいだ。


「っ。だから、誰よ」


「言わな~い」


「なっ、本当、なんなの、あなたっ。ウソなんでしょう、そんな偉い人の家庭教師なんか、したことないんでしょう!」


 子どもの丈に合わせたストラは、まだウェストを絞っていない。良質な麻布ではあるけれど、刺繍などの装飾はない。素足にサンダル。漆黒の髪はクセっ毛で、小さい房ごとにねじってオイルで固めてある。

 地団太を踏みそうになり、真っ赤な顔で耐えている女の子に、しみじみ感心する。


――かわいい! ていうか、10歳で、すでに美人さんだよな~。


 ぽん、とヘレンの頭に手を乗せる。


「ちょっと、気安く触らないで!」


 エジプト地域ではめずらしい、陶器のように白い肌に、アメジストの瞳。大きく力強いこの瞳だけでも、将来絶世の美女と評される要素はじゅうぶんだ。

 数学と天文学の才能に加えて、この美貌と名士の生まれ。

 つまりは、思い上がった性格になる素質もじゅうぶんということだ。


「ヘレン、ちょっと落ち着いて考えてみてよ」


 しゃがんで、ちっちっと指を振ってみせる。

 

「ここでわたしが、こういう人の家庭教師をしてましたーって名前を言って、どうやって証明する? 偉い人の名前をでたらめに挙げただけかもね? わたしを信じられなければ、結局、その質問は意味がないんじゃない?」


「!」


 ヘレンの顔に理解が広がる。やはり頭のいい子だ。


「もちろん、本当だけどね。教え子に嘘は吐かないよ。その人の名前は、ヘレンとお別れするときに教える。その時なら、ヘレンも信じてくれると思うから」


「……たった一か月で、私があなたを信用すると思っているわけ?」


 首をかしげながらも、言い返してきた。

 いい傾向だ。

 反抗であっても、初めて質問を投げてきた。それだけで会話は成立する。わたしがその細い針をしっかりつかめばいい。


「約束する。わたしがヘレンと最後に会う日、元教え子の名前を教えるし、ヘレンはそれを信じるよ」


「あなたが、サイニ・ケイナンなんて恥知らずな呼ばれ方されていることも?」


「あ~、そこらへんは個人の感じ方だから……。彼とわたしは、まあ、かなりウマが合ったんだよね」


 サイニ・ケイナン。――ラテン語、つまり古代ローマの言葉で「必要不可欠の存在」。

 わたしのことをそう評し、助けてくれた偉大な男の子。

 初めて外国に、しかも古代ローマなんかにタイムワープしたわたしを、彼はおもしろがって助けてくれた。


「ああ、それと、ヘレン。ここアレクサンドリアだって、ローマ帝国の知の殿堂と言われたのは、200年くらい前でしょ。まだまだひなよねー。だいたい、田舎を田舎ってバカにするのは、田舎者だけだよ」


 少し緩んできたヘレンを、もう一度締める。

 同じ単語を繰り返して回りくどくディスるのは、ローマの弁論術の基本セオリーだ。

 このイヤミに気づかない人間は、それこそ野暮として笑いものにされる。

 ヘレンは、顔色を変えた。


「私は田舎者じゃないわ!」


「お、ちゃんと分かったから、合格。でもそんなストレートな反論は、落第~。わたしはそういう技術を教えに来たんだよ。さて、わたしのことはなんて呼ぶ?」


ヘレンは唇を噛んで答えた。


「……私は、サイニ・ケイナンなんて信じられない。カナン、って呼ぶ」


「カナン先生ね」


「まだあなたを先生と認めたわけじゃないわ!」


「でも、ヘレンのお父様が、わたしを教師として雇ったんだよ。ヘレンは父親の判断力を疑うの?」


 推測だけれど、ヘレンはけっこうなファザコンだと思う。

 彼女は、父親から数学と物理の基礎知識の手ほどきを受けて、その分野で後世に名を残すのだ。

 小さい子ども相手に大人げないが、大好きなパパの威を借りまくって、まずはわたしの言葉にヘレンが耳を貸す状況を整えなければならない。


「どうしてもわたしがイヤなら、お父様に言って辞めさせればいい。また別の先生が来ると思うけど。毎回そうやって追い出すの? お父様が選んだ先生を?」


 我ながら卑怯なジャブを繰り出し、ヘレンはしぶしぶうなずいた。



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